母の死に顔、目を向けられず 「おくりびと」が抱く震災の後悔と願い

母を失ったとき、ちゃんと顔を見てあげられなかった。突然の死を受け入れられなかったからだ。そんな自分が、遺体を清めて納棺する仕事をするとは――。「誰もができる仕事じゃない。縁が回ってきたんかな」。あの経験があるからこそ、亡くなった人たちをきれいに送ってあげたい。
久保木美穂さん(54)は27年前、神戸市灘区の実家に里帰りし、長女彩日香(あすか)さん(27)を産んだ。母の茶本潔子(きよこ)さん(当時55歳)には初孫。母は、懸命に世話をしてくれた。出産から1カ月が過ぎた1995年1月16日、18キロ離れた兵庫県三田市の自宅に娘と戻った。神戸の街を最大震度7の揺れが襲ったのは、その翌日だった。
「お母さん、あかんかった」。その日の夕方、ようやくつながった電話で父(2020年に81歳で死去)がしゃべった言葉の意味が理解できなかった。全壊した実家の1階で寝ていた母は、倒れたタンスの下敷きになったらしい。その後の記憶は今も曖昧だ。直後にスーパーに行き、「なんで私は買い物なんかしているの」と思ったことだけは覚えている。
母はいつも明るく、おしゃれだった。神戸大学(灘区)の喫茶室で働き、当時は目新しかった創作パスタやフルーツサンドを家でも食べさせてくれた。だが、涙を流す暇もない。地震の後、祖父母と父、兄が避難してきた。久保木さん夫婦と赤ちゃんの計3人で暮らしていた3LDKのマンションで7人の同居生活が始まり、がむしゃらに家事をこなした。
復興が進んで父らは住まいを確保し、それぞれ生活を送るようになった。自身も次女が生まれ、2人の子を必死に育てた。娘がミルクを飲まないとき、夫とすれ違いを感じたとき……。人生の節目ごとに「母が居てくれれば」とその不在をかみ締めながら生きた。
娘から学び「向き合わなければ」
母が逝った日が近づくと、テレビも見られなかった。でも、あの日から10年が過ぎた頃、阪神大震災の犠牲者らを慰霊するモニュメントがある神戸市中央区の東遊園地に初めて足を向けた。彩日香さんから学校で震災について学んだと聞かされ、「向き合わなければ」と感じたからだ。夕方、追悼の灯籠(とうろう)の光を見ながら思った。「ここに母は居ない。でも、やっと会いに来られた」。以来、毎年通っている。
知人に誘われて「おくりびと」と呼ばれる納棺師の仕事を始めたのは10年ごろ。お湯で体を清め、顔そりやドライシャンプーをし、化粧をして遺族の元に返す。初めは意識していなかったが、数々の遺体に向き合ううちに母を思うようになった。
「なんでちゃんと見ておかなかったんやろ」。母の葬儀では、きちんと顔を見てお別れできなかった。だからこそ、仕事ではできるだけのことをする。病気だった人には顔色をよく見せる化粧を施し、傷がある遺体は丁寧に清めた。「亡くなると安らかな顔をされている方が多い。母もそうだったと願いたい」。新型コロナウイルスの感染拡大後は依頼が激減して仕事を中断しているが、またやりたいと考えている。
彩日香さんは21年12月、結婚式を迎えた。母が亡くなった年齢が近づくにつれ、母親としての気持ちを分かち合いたかったと思う。娘が嫁ぐうれしくも寂しい気持ち、初孫のいとおしさ……。心がうずく。
何か困ったことがあれば、いつも空の上に居る母にお願いしてきた。発生から27年を迎えた17日、「いつも見守ってくれてありがとう」と母を思って手を合わせた。「きっと『忙しいわ』って笑っているんちゃうかな」。久保木さんは明るい空気をまとう。その理由を聞くと、少し誇らしげにほほえんだ。「母の血をひいているから」【稲田佳代】