館野仁(53)桜井純(45) 金密輸容疑で男2人逮捕 韓国から1トン運び込んだか―警視庁

韓国から金を密輸したなどとして、警視庁生活経済課は21日までに、関税法違反容疑などで、職業不詳館野仁(53)=千葉県習志野市秋津、会社役員桜井純(45)=同県市川市国分=両容疑者を逮捕した。館野容疑者は「密輸するつもりはなかった」と否認し、桜井容疑者は認めている。
同課によると、両容疑者は2023~24年、韓国と日本を計216回往復。計約1トンの金(約108億円相当)を密輸して東京都内の金買い取り店で売却し、計約9億8000万円の利益を得たとみられる。

館野容疑者の逮捕容疑は昨年8月21日、金の延べ棒4本(約4600万円相当)をポーチに入れて韓国から密輸し、消費税の支払いを免れるなどした疑い。

同容疑者は同日、韓国から羽田空港に到着した際にポーチを紛失。同空港に落とし物として届けられたことで発覚した。

その翌日、桜井容疑者がかばんに金の延べ棒9本(約1億450万円相当)を隠し、韓国から密輸しようとしたところを同空港の東京税関職員に見つかった。

両容疑者は韓国で延べ棒を預かり、入国時に消費税相当額を納めないまま日本の金買い取り店で換金し、売却代金を韓国に持ち帰ろうとしていたとみられる。両容疑者が韓国出国時に提出した輸出申告に関する書類には、同一の金の販売先が記されており、同課は韓国に仲間がいるとみて調べている。

鈴木湧万(29) 福島県教委 県立高校の男性教諭を懲戒免職処分

福島県県教育委員会は県立清陵情報高校の鈴木湧万(29)教諭を14日付けで懲戒免職処分としました。 鈴木教諭は2025年7月、郡山市内の商業施設の女性用トイレに盗撮しようと侵入した疑いで警察に逮捕され、その後、罰金10万円の略式命令を受けています。

【速報】生成AIで実在する女子陸上選手の写真を加工…「性的ディープフェイク」画像をSNSに投稿か児童ポルノ禁止法違反の疑いなどで会社員の男を逮捕警視庁

女性の写真を生成AIで加工して作ったわいせつな画像、いわゆる「性的ディープフェイク」を実在する女子陸上選手で作成し、SNSに投稿していたとみられる会社員の男が警視庁に逮捕されたことが分かりました。
性的偽画像を生成AIで作成→SNSに投稿か
捜査関係者によりますと、逮捕されたのは兵庫県姫路市の会社員・井元健太容疑者(32)です。
井元容疑者は今年2月、20代の女性3人の高校時代の陸上ユニフォーム姿の写真を生成AIを使って裸の画像などに加工し、SNSに投稿して名誉を毀損した疑いがもたれています。
男子高校生からの依頼で…実在する女性の体操着姿の写真を裸に加工
井元容疑者は生成AIのサイトに月額3000円ほどで会員登録し、写真をわいせつな画像に加工するいわゆる「性的ディープフェイク」を作成していて、SNSで不特定多数の人が閲覧可能な状態にしていたということです。
また、井元容疑者は児童ポルノ禁止法違反の疑いでも逮捕されていて、今年2月、鹿児島県に住む17歳の男子高校生からの依頼で、40代女性が中学1年生だった時に体育祭で撮影された体操着姿の写真を生成AIを使って裸に加工し、SNSに投稿するなどした疑いももたれています。
男子高校生は中高生を含む、女子陸上選手の写真が多数、違法にアップロードされたSNSから好みの画像をダウンロードし、井元容疑者にメッセージで依頼していたということです。
警視庁は、この男子高校生についても児童ポルノ禁止法違反の疑いなどで書類送検する方針です。
「陸上部は加工しやすい」スマホからわいせつ画像など3800点
調べに対し、井元容疑者は容疑を認めたうえで、「AIで加工したら喜んでもらえることが嬉しかった。女の子の裸を見たいからやった」「生成AIを使って加工していたのは主に陸上部の女性。なぜかというと、陸上部のユニフォームは加工しやすいため。AIで加工したのは300枚くらい。そのうちの100枚から200枚を実際に投稿した。このうち半分が男子高校生から依頼されたものです」などと供述しているということです。
実際に井元容疑者のスマートフォンからは女子陸上選手を含む、わいせつな画像や動画が3800点ほど見つかっているということです。
警察庁によりますと、18歳未満が「性的ディープフェイク」の被害にあう例は去年1年間で114件確認されていて、被害者の大半が中高生だということです。また、女性アスリートをめぐっては、盗撮写真や「性的ディープフェイク」の拡散が相次いでいて、警視庁は警戒を強めています。

市立中学校に侵入し生徒のリコーダー20本など窃盗の疑い、75歳会社員の男を逮捕

栃木県小山市内の市立中学校に侵入し、リコーダーなどを盗んだとして、栃木県警小山署は1日、茨城県常総市、会社員の男(75)を建造物侵入と窃盗の疑いで逮捕した。
発表によると、男は昨年11月18日午後7時20分頃から同8時35分頃、小山市内の市立中学校に侵入し、生徒のリコーダー20本など23点(時価合計2万5000円相当)を盗んだ疑い。調べに対し、「間違いありません」と容疑を認めているという。

高市政権に“9月退陣説”浮上…「食品消費税1%」表明で党内政局と市場圧力

高市早苗首相が7月30日、来年4月から飲食料品の消費税を2年間に限り1%に引き下げる方針を表明した。秋の臨時国会に関連法案を提出して早期成立を目指すとのこと。
ここれを受け、SNSでは政権の9月退陣説が浮上している。その理由は主に2つ。自民党内の政局と市場圧力だ。
まず、自民党内の政局。高市首相は記者会見で「2年後、私が責任をもって確実に税率を(8%に)戻す」と明言したが、これには反発が多い。次の首相候補と言われる人からすれば「あなた本当に2年後、首相やってるんですか」という話だ。
仮に、高市首相が2年後もその座に就いていたとしても税率を戻すときは「8%への大増税」のように映るため、政治的に容易ではない。28年夏には参院選が控えており、減税の延長や恒久化を求める声が強まるだろう。そんな中で自民党の支持率がボロボロになるのは火を見るより明らかで、その状態でバトンを渡される次の首相にとっては迷惑な話だ。
自民党内で減税反対を明言する人はまだそれほど多くはないが、「財源のめどが立っていない。さらなる円安につながる」と記者団に話した河野太郎氏はその1人。大岡敏孝氏は熊本地震への対応に多額の費用を要するとして、小林鷹之政調会長に「立ち止まって考えるべきだ」と提言した。ある党四役経験者は「『減税反対』と会議で発言する」と予告している。
高市首相は記者会見で減税に伴う代替財源について、租税特別措置・補助金の見直し、税外収入の確保などを列挙し「市場の信認が得られるよう、赤字国債に頼らずに確保する」と説明したが、まさにこの“市場の信認”こそがカギになる。少なくとも現時点では、具体的数字のある代替財源は示されていない。
何とか与党内を説得できても、為替市場の財政悪化不安を払拭できなければ、苛烈な円安へと突き進む。円安のレベルにもよるが、減税による恩恵の多くは物価高(円安インフレ)によって削られてしまうというのが専門家の一般的見方だ。しかも、減税の実施は来年4月であり、それまで円安は進み続け、国民経済はますます困窮する。
そして、債券市場では財政不安と国債の増発リスクから長期金利(10年物国債利回り)が上昇する。金利が上昇すれば、住宅ローンや各種ローンの返済負担が増えるほか、企業の資金調達コストが上がって給与の伸びが鈍化するおそれもある。
高市政権が7月に「骨太の方針」を打ち出したとき、金融市場では円安・債券安(金利上昇)が進行し、いわゆる「骨太ショック」と呼ばれる強い警戒感が広がった。市場はすでに、高市首相が言い続ける「責任ある積極財政」を信用していない。消費税減税に伴う市場の混乱が高市政権にとってダメ押しになる可能性は十分にある。
文/横山渉 内外タイムス

高市政権の国会運営はなぜ「史上最低」と酷評されたのか…大島理森元衆院議長が語る30年以上続く日本政治の迷走

〈「中国に対して突っ張ったり…それは愛国とは違います。保守はそんなことしなくてもいい」野田聖子議員が証言、自民党で幼稚な保守思想が蔓延り出したのは2000年代の野党時代で〉から続く
バブル経済の崩壊と冷戦終結は、日本の政治を根底から揺さぶった。リクルート事件が逆風が吹く自民党は、平成元年に海部俊樹政権のもとで政治改革に乗り出すが、その過程で小沢一郎が台頭し、93年の総選挙にて自民党が議席の3分の2弱を確保し続けてきた55年体制は崩壊に至った。
【写真】大島が師と仰ぐ河本敏夫氏。政界入り前は「三光汽船」のオーナー社長でもあった
長年自民党の中枢で国会運営を担い、政界の裏表を知り尽くす大島理森元衆議院議長の証言から、「海部政権以降」に始まり、現在の高市政権まで続く政治の混迷を読み解く。
30年以上続く「政治の迷走」はどこから始まったのか
日本政治の溶解は、土地や株の価値が異様に膨らんだあぶく経済の崩壊とともに1990年代初頭から始まった。
自民党を割って出た小沢一郎が陰に陽に政界再編の糸を操っていたのはその通りだが、一方で自民党保守政治はここから崩れ落ちていく。
ここから先の政界の混乱は今もって収拾していない。失われた時間は経済だけの問題ではなく、政治の世界も同じだ。
唐突な衆院解散から総選挙に打って出て自民党史上最大の議席を得た高市早苗政権に危うさを感じるのも、30年以上も続いている日本政治の迷走ゆえなのであろう。
高市政権で2月18日に召集された特別国会は、例年の通常国会と同じく150日を会期として始まった。振り返れば、首相の国会運営における稚拙さが際立ったというほかない。
自ら衆院解散、総選挙を仕掛けて国会の開催を遅らせておきながら、令和8(2026)年度予算の成立を急がせた。しょせん無茶なスケジュールだったのだが、加えて2月末には米国とイスラエルによるイランの爆撃が勃発し、中東のみならず世界中が大混乱に陥る。
ところが高市政権では、ただでさえ物価高騰に苦しんできた庶民などお構いなしだ。案の定、2026年度予算の成立は年度を跨ぐ。補正予算をはじめとした国内の景気対策が完全に後手にまわった挙句、国会スケジュールそのものが狂っていく。
そうしているうち当の首相自身が選挙のネガキャン動画問題で立ち往生する。首相が国会に出て来ない異常事態となり、法案審議が空転する始末だった。
そこまで混乱した裏には、国会でこれ以上の醜態をさらしたくない女性宰相の脆さが垣間見える。特別国会の150日のあいだ、高市の国会運営は史上最低と酷評される場面まであった。
そして特別国会の終盤に差し掛かって法案審議が大渋滞し、高市政権は切羽詰まって維新の会と約束した衆議院議員の定数削減審議を秋の臨時国会に先送りせざるをえなくなる。
本来の国会会期末だった7月17日を控え、同じく維新との約束である副首都構想のために8日の会期を延長した。国民民主から袖にされ、チームみらいを取り込んで辛うじて格好をつけたが、予想どおり国会採決は綱渡りだった。
青森県選出の自民党衆議院議員だった大島理森(79)は、かつて国会対策の大物族議員として野党と渡り合ってきた。大島には高市政権における国会運営がどう映っていたか。まずはそこを聞いた。
「2月に大勝した総選挙の余韻の力とでもいえばいいのでしょうか、高市政権の現状はその勢いが残って成り立っているように感じます。連立した維新との約束にできるだけ早く区切りをつけたい。高市総理の国会運営の進め方には、そんな思いがあるんじゃないでしょうか。
高市総理は来年に自民党総裁としての任期を迎えます。それまでの政治手順を考えるうえの一つのポイントとして、維新との約束を果たす。
報道によればたとえば(党幹事長代行として)政権を支えてきた萩生田光一さんもびっくりしたぐらい、総理は定数削減の問題に前のめりになった。直接伺ったわけではないけれど、高市総理のご性格を勝手に推測すると、そう思います。
いい悪いの議論は別に、連立相手との約束を果たすのは政治家として当然のことと考えているのではないか。維新との約束を片づけたあと、高市政治の体制をきちっとつくりたいのだろうと見ています」
大島は第二次安倍晋三政権下の2015年4月に衆議院議長に選出された。以後2021年10月に議長として衆議院解散の詔書を自ら朗読するまで、議長在職日数は2336日を数える。
戦後生まれ初の衆議院議長であり、なおかつ歴代最長議長となる。衆議院議長退任と同時に政界から身を引いた。ちなみに2位は今年6月に鬼籍に入った河野洋平だ。
その大島は議長の職責を自覚し、官邸一強と謳われた第二次安倍政権時代の議長でありながら、森友学園問題の国会対応について次のような議長談話を発出する。
「(国会議員は)憲法に定められた精神と条文、国会法に基づいて行動していかなければならない」
森友加計問題でのらりくらりと国会答弁を繰り返してきたときの首相に対する箴言に違いない。そんな衆議院議長時代の大島にとって最大の仕事が、天皇の生前退位に関する2017年6月の特例法整備だった。のちに大島は議長会見で語った。
「国民の総意を見つけ出すことが立法府の重大な責務であり、静謐な環境で合意を最も重視した」
周知のように「国民の総意」「静謐な環境」は現高市政権で俎上にのぼっている皇室典範改正でもしばしば使われる。というより、高市政権が至上命題に掲げてきた皇室典範改正それ自体が、9年前の天皇の生前退位から議論が始まっている。だからこそ、この2つの言葉が重大な意味を持つのである。
そしてはからずもこの大島衆議院議長時代だった18年10月から19年9月まで、衆院の議院運営委員長を務めたのが、現首相の高市にほかならない。この間、高市自身は国対運営に疎いと批判されてきた。それもあながち的外れではないようだ。
「高市総理は常に勉強してますから、つい突っ走ってしまうのかもしれません。私が衆議院議長をしているときに議運の委員長に就任され、いきなり国会改革に関するペーパー(高市私案)を出しました。
記憶が定かではありませんが、閣僚の国会への出席を減らすべきだとか、議員立法をもっと増やすべきだとか、その手の話だったようにも思います。
議長のもとには議会制度協議会という諮問機関が置かれ、正式な議運のテーマとして取り上げる前の段階でそこに議題が上がってきます。高市総理のペーパーはその手前だったと記憶しています」
いわゆる高市私案が出されたのは2018年10月の臨時国会開会前のことだ。高市は29日の衆院本会議開催4日前の25日、超党派議連の「『平成のうちに』衆議院改革実現会議」の表敬訪問を受けた。
メンバーの浜田靖一や小泉進次郎らにとつぜん<議院運営委員長として実現を目指す事柄>と題したA4判コピー用紙に印字された3項目に大別された国会改革案を手渡した。
<(1)ペーパーレス化の一層の促進(2)法案審議の方法を改善(3)衆院本会議場への「押しボタン方式」の導入>
と記されている。
それが衆院議長である大島のもとへ届けられ、与野党が騒然となったのである。
問題は(2)の「法案審議の方法」だ。
ここには<国会冒頭の大臣所信に対する質疑日数を増やし、法案審議は続けて行う。会期末前に残った時間は、議員立法の審査や一般質疑に充てる>と記されていた。
閣僚である所管大臣を中心に政府が国会に提出した法案審議を優先しろというものだ。
そのために閣僚を増やすべきだという趣旨も含まれているのかもしれないが、なによりこの政府提出法案を審議する際には、法案と関係のない議論を避けるべきだという。
不祥事の追及は特別委員会を設置しておこなうべきだというもっともらしい意見なのだが、予算委員会などで安倍首相が森友加計スキャンダル対応に追われていた件を想定していたであろう。
とどのつまり、これでは国会における不祥事追及の場がなくなってしまう。そこで野党はいっせいに高市私案に反発したのである。大島が説明を加える。
「国会運営は手続きが重要なんです。だから私は高市総理に『いきなりこんなペーパーを出しても、簡単にテーブルに載せるわけにいかない。きちんと議運のメンバーを説得しなさい』と諭しました。
議運には、過去の国会法に則った慣例があります。激しい権力闘争のなかで生まれてきたルールといえばいいのでしょうか。国会はそのルールをベースに議論しなければなりません」
大島はかなり言葉を選んで慎重に話す。平たくいえば高市は国会のルールを無視していたため、門前払いになったという意味だ。
今度の特別国会の運営を顧みると、首相に就任した高市が議運委員長時代の失敗を肥やしにしているとも思えない。むしろ失敗を繰り返している。
首相が野党の質問にまともに答えず、秘書の陳述書を自らの答弁に代えようとする姿勢などは、まさしくその典型というほかない。人気の宰相は万能感に満ち、数で強引に法案審議を押し通すような姿勢ばかりが目立つ。
維新との約束を果たそうとしてきたのは長期政権を見据えているからなのかもしれないが、高支持率の女性宰相によるあまりに乱暴な国会運営に対し、野党はもとより自民党内にも相当な不満が潜んでいる。
高い内閣支持率のおかげでその不満が顕在化していないだけではないか。そう問うと大島は言った。
「総じていえば、自民党総裁、内閣総理大臣というポジションは、『私が言えば何事でも動く』という思い込みみたいなものが付きまとうように感じます。まさに大勝した余韻が依然として残り、内閣支持率もその要因となるのでしょう。
自民党内ではものを言いたくても言えない。しかし、気をつけなければなりません。たとえば消費税の扱いについていえば、自民党内には税体系の意見を持った税のプロがおられる。支持率が落ちたとき、不満の声が一挙にあがる。
自民党は大人の政党ですから今は控えているけれど、状況が変化すれば、そんな可能性は否定できません」
ここへ来て、さしもの高市人気にも陰りが見え始め、水面下の反高市の動きが顔をのぞかせている。そこは稿を改めるが、自民党を中心とした政界の迷走について、改めて大島に尋ねた。
「一本の蝋燭たれ」――河本敏夫が大島理森に遺した政治哲学
「私は青森の田舎侍で、農業団体のリーダーだった父も地方議員をやってました。叔父が戦後に衆議院議員を6期務めていましたが、私の選挙区の代議士が三木派にいた関係もあって河本派から選挙に出ました。
とくに河本(敏夫)先生にご指導いただきました。まさに先生にお育ていただきました。『投票箱の蓋が閉まるまでが選挙だから、最後まで全力を尽くせ』というのが河本先生の持論で、『政治家は一本の蝋燭たれ』とお話されていました」
大島理森の実父は青森県議会議長を務めた大島勇太郎、衆議院議員だった夏堀源三郎は叔父にあたる。三戸郡上長苗代村(現八戸市尻内町)出身の大島本人は、慶大法学部を卒業後に毎日新聞広告部から青森県議会議員を経て国政に転じた。
中曽根康弘政権下の1983年12月、自民党河本派から総選挙に出馬して当選して以降、11期連続で衆議院の議席を守っている。党人派の元自民党代議士である。政界引退後は東京にも事務所を置き、大相撲の横綱審議委員会委員長として発言してきた。
大島の所属した河本派は、田中角栄の宿敵といわれた三木武夫が旗を掲げ、河本敏夫が三木派の議員をまとめて派閥を引き継いだ。地元の中選挙区時代、河本派の大島に対し、岸派の流れを汲む福田派の田名部匡省と大票田の八戸市を二分する熾烈な「八戸戦争」で知られる。
政治の世界における権力闘争を肝に銘じているのは、党内派閥の力学と自らの政治信条を貫く難しさを肌で感じてきたせいかもしれない。
大島は衆議院議員1回生時代の85年6月、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」が議員立法によって国会に提出されると、そこに異を唱えた。通称、「スパイ防止法案」は、日米安保改正を実現した岸信介政権時代から統一教会やその傘下の国際勝共連合のバックアップもあって法制化を悲願としてきた。
大島たちハト派の自民党議員はそこに危機感を抱いて反対した。スパイ防止法の是非を巡る議論は今なお続いており、のちの個人情報保護法や特定機密保護法、さらには今度の国家情報局設置などの審議もその延長線にあると言っていい。
極端な右傾化を嫌う大島が、師と仰ぐ政治家が河本敏夫である。河本は1911年6月兵庫県赤穂郡相生村(現:相生市)に生まれた。
衆議院議員を連続17期務め、沖縄開発庁長官や経済企画庁長官、通産大臣や郵政大臣を歴任した重鎮であり、終戦後の自民党で総裁の座を争ってきた「三角大福中」に次ぐ党の実力者であった。
政界入りする前には海運大手「三光汽船」のオーナー社長という顔を持ち、河本は自ら所属する三木派の政治資金を支えてきたといわれる。河本に心酔してきた大島は今も都内にあるオフィスに河本の写真を飾っている。
「河本先生は自由主義者で、出身校の旧制姫路高校時代に反戦論をぶってクビになった逸話も残っています。そのためにずい分苦労された。様々な仕事をしながら、ある議員先生のところに寄宿して日大(法文学部)に入ったといいます。
その大学時代に義理のお兄さんと三光汽船を創業したのですが、三井にしろ、三菱にしろ、もともと大手の船舶会社はときの権力と強く結びついていました。けれど三光汽船は違います。河本先生の根底には、一種の反権力的な自由競争経済が基本だという思いがありました」
その三光汽船は第二次石油ショック後の海運不況により1985年7月、会社更生法の適用を申請し、戦後最大の倒産と騒がれた。大島が在りし日の恩師の姿を思い起こす。
「河本先生は三光汽船倒産のときも弁解がましいことなどいっさい言わず、『関係者に迷惑をかけた』と言って沖縄開発庁長官をスパッとやめ、責任をとりました。立派な政界のリーダーはみなそうですが、言い訳を聞いたことがない。そういう方でした。
だから保守本流とは少し距離を置いてきたのでしょう。私は直接その場面にいたことはありませんけれど、自民党は(1978年12月に誕生した)大平正芳内閣で、田中・大平対福田・三木で分裂した。そのとき新党結成の話が持ちあがったそうです。
で、大平先生が『河本さんだけは自民党に残ってほしい』とおっしゃったとか、田中角栄先生から『河本は自由経済のなかで生きた男だから経済がわかる』と引き止められたとか、いろいろなエピソードを教えてくれる人もいました」
田中角栄が1976年に浮上したロッキード事件に塗れ、田中を追及してきた三木武夫が後継首相に座る。このとき自民党内では、相変わらず闇将軍と恐れられて最大派閥を率いた田中角栄と親米派のタカ派路線を進んだ福田赳夫の派閥の対立が表面化した。
田中政権時代、外相として日中国交回復を成し遂げ、田中派のバックアップを得て首相に就いた大平はとうぜん田中に与し、ロッキード事件を追及してきた三木は反田中陣営の福田派に味方したとされる。
そもそも河本と三木とは、三木の娘婿の兄弟と河本の娘が結婚していた遠縁関係にあり、三光汽船のオーナーである河本は三木派のスポンサーと呼ばれてきた。それだけに田中や大平は河本を援軍につけようと、誘いをかけたのかもしれない。
一方で、福田陣営には中曽根康弘や中川一郎などが合流し、三木派を引き入れて新党を結成する動きまで見せたというのである。だが、結局のところ河本が動かずに新党話は立ち消えになった。
自民党内が文字どおり真っ二つに割れそうになったその1980年代からおよそ10年のときを経て、本格的な政界再編劇の幕があく。対外的には日米が貿易収支を巡る経済摩擦で揉め、米ソの東西冷戦が終わった。日本国内では90年代に入ってバブル経済が崩壊する。と同時に、政治の世界も変化を大きな迫られた。大島がそんな時代を読み解く。
ベルリンの壁崩壊とバブルが変えた日本政治
「昔の1955年体制よりドラマが少なくなったから、今の政治は面白くないという人もいます。戦後の復興期を経て何十年も続いた55年体制では、たしかにもろに権力が戦い合う場が数多くありました。そこに人間ドラマが生まれる。とどのつまり政治は権力へアプローチする戦いで、それが民主主義でもあります。
日本の政界が変わったターニングポイントは 2点あります。第1点は1989年に起きたドイツのベルリンの壁の崩壊でしょう。米ソの冷戦構造が壊れ、いわゆるイデオロギーの対立軸が失われた。それによってグローバルという言葉が使われ始め、世界に新しい秩序が生まれました。ちょうどそのとき日本は自民党の海部俊樹政権が生まれました。そこで私自身、第二次海部内閣の官房副長官を拝命し、時代の変化に直面しました」
大島は1990年2月に発足した第二次海部内閣で内閣官房副長官に就任した。バブル崩壊前夜から日本政界を襲ったリクルート事件の影響についてこう語る。
「1988年から89年にかけて騒動になったリクルート事件のときの総理が竹下登先生でした。竹下内閣時代は昭和天皇の病状が毎日のように流され、ついに年が明けて崩御されました。このとき私は議運の末席の理事でした。
竹下先生はリクルート事件を背中に背負いながら消費税導入という大変な決断をされ、平成の世になってそれを成し遂げました。当時の竹下先生の心中までははかりかねますが、田中派をはじめとした55年体制下の凄まじい派閥間の争いを体験された。政治の活力という意味で面白い時代でした。
そうして竹下内閣の次に宇野さんが首班指名されて参議院選挙で大敗をしたあと、海部内閣が生まれました。それまでの永田町のセオリーだったら、海部内閣が生まれるわけがなく、それ自体が大きな政治の変化であったわけです。
誕生した海部内閣の課題が政治改革でした。そこからまさに政党、政策、政治の責任を明確にするため、そして日本の選挙制度そのものを変え、以後の日本の政治の形を変えていきました。成立するまで三内閣が関わりました」
リクルート事件が崩した「55年体制」
リクルートグループによる未公開株の政官財へのバラマキが発覚した1988年6月以降、自民党は55年体制時代の軸を失っていく。田中角栄や中曽根康弘の次を担うニューリーダーとして持て囃されてきた竹下登や安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄といった派閥の領袖クラスまでが未公開株を受け取っていた。
リクルート汚職は事実上の賄賂工作だと糾弾され、自民党執行部は対象者に1年間の役職停止という重い処分を下す結果となる。実際に東京地検特捜部が10月から本格捜査に乗り出し、平成の時代に入った89年6月、竹下内閣は総辞職に追い込まれた。
結果、自民党では足元の竹下派はもとより安倍派、宮澤派、中曽根派という自民党4大派閥から総裁を出すことができない。
やむなく河野(一郎)派の宇野宗佑、さらに河本派の海部俊樹に総裁のバトンが渡っていった。わけても海部は元神楽坂芸者とのスキャンダルで首相を辞任した宇野の後釜というピンチヒッターに違いなかった。
党最大派閥を率いた竹下の早大雄弁会の後輩にあたり、竹下事務所と同じビルに海部事務所があり、それが功を奏したという見方もあるほどだ。
海部は三木内閣時代に官房副長官を務めた河本派の幹部だった。前述したように大島はこの第二次海部内閣で官房副長官を務め、竹下派七奉行のトップと目された小沢一郎が自民党幹事長として内閣を支えた。ここから小沢が政界再編劇の主役を演じることになる。
海部政権を支えた小沢一郎、始まる政界再編
「私は第二次海部改造内閣で1年8ヶ月間、官邸で仕事させていただき、週に2~3回は党の小沢幹事長のところへ行って指導を仰ぎました。簡単にいえば、幹事長の怒られ役です。
国内では政治改革を迫られ、世界では湾岸戦争が勃発し、日米構造協議の真っただ中でした。そこで私自身、小沢先生に鍛えられた一人でした。大変勉強をさせていただきました。海部総理の誕生については非常に感慨深いものがあります。そこから少なくとも平成の中頃までは、小沢政局が続いていたといえるでしょう」
大島はそう振り返った。竹下派内では海部政権に反対する動きもあり、小沢のライバルである橋本龍太郎を総裁に推す声もあった。だが、竹下派のオーナーといわれた金丸信が反対した結果、海部にお鉢が回ってきたという説もある。
本連載で書いてきたように、竹下派七奉行の橋本グループと袂を分かった小沢は、日本新党党首の細川護熙を担いで非自民の8党会派による連立政権を樹立した。細川、羽田孜と首相の顔をすげ替えながら自民党に対抗した。
だが、ほどなく自民の反撃に遭い、まさしく自民対非自民の勢力争いが激化した。
1994年6月に村山富市首相の自社さ政権が樹立されると、96年1月から自民党の橋本龍太郎が首相を射止め、98年7月の小渕恵三、2000年11月の森喜朗と首相が目まぐるしく入れ替わる。
小沢はこの間、村山の首班指名を巡って海部を自民党から離党させ、政権奪還を目指した。いうまでもなく海部は大島にとって同じ派閥の先輩議員にあたる。しかし実のところ大島の所属していた河本派は海部政権の誕生に反対した。
「村山内閣の成立したとき、海部先生が小沢先生と組んで党を割って出ました。このときすでに河本先生は病床に臥せっておられましてね。夕方の6時ごろでした。私と(河本派の)高村正彦先生が病院に呼ばれ、『高村君、君は海部さんのところへ行って、自民党から出るのをやめろと言ってこい』とベッドから命じるのです。
『海部君に電話したけれど、ぜんぜん出ない。大島君は情報を集めろ』と。私の地元でも、大島が海部といっしょに離党するんじゃないか、という話まで出ていて心配していたと聞きました。あのときの親父さん(河本)の姿を忘れられません。
政治の世界にif〈もしも〉はありませんけれど、あのとき河本先生が病床でなかったら、状況が違ったかもしれません。結局、海部先生を引き戻すことなんてできませんでした」
大島自身は90年代に環境庁長官や文部大臣・科学技術庁長官などを歴任し、小渕政権の1999年10月に衆議院の議院運営委員長に就任する。このとき自民党は小沢が旗揚げした自由党を媒介として、自自公の連立政権としてスタートした。
大島はここから自民党国対委員長を2度経験し、野党相手に「握りの大島」と呼ばれるまでの大物国対族議員として鳴らすようになる。それだけに与野党のパイプも太かった。小沢について大島はこう評す。
海部政権が開いた「連立時代」は今も続く
「小沢先生は政治、国会改革の信念をお持ちでした。いろんな批判もあり、私にもそれはありましたけれど、政治を動かす行動力はたいしたものです。小渕内閣で小沢先生の自由党と自民の自自連立が成立しましたけれど、 野中広務先生に『魔と手を握ってでもやる』と言わせたくらい。
その後、自民党が民主党に政権を渡した谷垣禎一総裁時代に私は党の幹事長を拝命して民主党の小沢先生と対峙しました。人生の宿命というか、時代の巡り合わせといえばいいのでしょうか、さまざまな思いが巡ります」
大島は小沢一郎に対して一定のリスペクトを示す。が、小沢自身は年齢のせいもあるのだろうが、90年代に政界再編を仕掛けたかつての神通力を失っている。反面、現在は小沢のような存在感のある政治家がいなくなったのもたしかだ。
小選挙区制になって自民党内も派閥が勢力を争う必要もなくなった。善悪はおき、政治家がそうした権力闘争の場で成長した面も否めない。大島が指摘する。
「一言で申し上げますと、冷戦終息後、共産主義や社会主義に対する国民の皆さんの選択としてのイエスが消えました。その代わりに面白いところに一票を入れてみようとなりました。それに対してポピュリズム批判もありますが、事実として国民の選択の幅が広くなったといえます。
それがいわゆる価値観の多様化であり、結果として海部内閣以来、政治の世界で明確な単独政権が成り立たなくなったのです。自民党単独政権は橋本内閣のほんのわずかの期間しかなく、基本的に連立政権の時代が訪れました。
社会党が選挙に勝って土井たか子さんが『山が動いた』と名言を残しましたけれど、マドンナブームのような状況が今にいたるまでずっと続いているのです。
しかし、皮肉にも野党の諸君はそのあと連立を組んでまで戦う覚悟を持てなかった。そこに今の悲劇があります。自民党は党内でいくら喧嘩していても、大人の政党として最後は我慢します。我慢、忍耐を繰り返しながら組織を守っていく。
人間の業をどうやって整理、整頓しながら世の中を安定させるか、そのうえで物事を前へ進めるのが政治の仕事です。そこでは現場の経験値が生きてくる。そこが野党と自民党の違いでしょう」
大島はこうも言う。
「よく政治テーマになる対立軸がなくなったと言われますが、探せばあるはずです。核の問題もあれば、世界経済、外交、安保……。今度のG7サミットを見ていると、フランスのマクロンはすごい。G7への出席を嫌がっていたトランプを参加させて、イランとの停戦合意にまでまとめていった。
今はかつてのようなG7やG8ではない。反グローバル世紀におけるアイデンティティを確立する戦いが始まっています。そのなかで日本はどう外交を展開するのか。これ一つとっても政治には大きな役割があるでしょう」
日本政界は1990年以降、すっかり様変わりしたが、ある意味、それも必然といえる。そこにどう対処できるか、政治家の力量が問われている。(敬称略)
取材・文/森功

“福岡県政のドン”蔵内勇夫・県議会議長に新疑惑 推進した巨大公園の高額モニュメント設置に「高校時代の恩師」が関与、浮かび上がる身内を県事業に参加させる手口

福岡県議会の正副議長ポストをめぐる金銭授受疑惑。本誌・週刊ポスト前号(2026年8月7日号)では、騒動の渦中にある蔵内勇夫・県議会議長(72)が推進した総事業費約400億円の筑後広域公園で、管理業務に身内企業が関与していた実態を報じたが、今回、”蔵内王国”に新疑惑が浮上した。ノンフィクション作家・広野真嗣氏が迫る。(文中敬称略)
身内を県事業に参入させる手口
正副議長就任をめぐる金銭授受疑惑で福岡県議会のドンこと、蔵内の包囲網は狭まっている。そんなふうに見える一方で今なお隠然たる力が残ると感じさせたのは、蔵内王国といわれる筑後市の市議会のニュースだ。
過去7回の無投票再選をお膳立てしてきた市議らが7月27日、「全容解明」を求める意見書を全会一致で可決。
地元から狼煙が上がったか……と思いきや、文面を見ると、批判対象はあくまで高額海外活動などで、ポストをめぐる金銭授受疑惑という本丸のネタは慎重に避けた。ドン復権の可能性も捨てきれず、まだ半身なのだ。
市議や元市議は取材に「ここであの男に睨まれると補助金も出らんぞと言われてきた」と恐れを語ったが、市内を歩くと、力を誇示するような施設がいくつも建っている。
本誌前号では、九州新幹線の筑後船小屋駅を挟んで東西4キロのエリアに県が400億円を投じてきた「筑後広域公園」に焦点をあてた。
県は隈研吾設計のゲートなど、高額なモニュメントを総額4億円かけて整備。その一角には、蔵内のワンヘルス(※注)に関する政治実績を称える金色のプレートまで設置されており、知事の服部誠太郎から蔵内への貢物と受け止められていた。
【※注/人の健康と新興感染症の原因となる環境や動物の保健衛生を一体的に捉える理念。獣医師であり、世界獣医師会の会長も務める蔵内がライフワークとして推進しており、福岡県では学校で教材が配布されるなど、ワンヘルス関連の予算が多く充てられている】
前号では、公園を管理する事業体の構成団体が、蔵内の元秘書A氏が社長を務める「株式会社アシスト九州」だったと記したが、身内を県事業に参入させる手口は、これだけではなかった。取材を進めると、蔵内の手法には、一定のパターンがあることが見えてくるのだ。
公園敷地内には2013年、総事業費21億円を投じて「九州芸文館」が整備された。巨大な折り紙を組み合わせたような特徴的な屋根を持つ建物。やはり隈研吾設計だ。

広島平和資料館「200円」は安いか高いか…被団協ノーベル賞で来館者急増、「値上げ」「無料」割れる声

広島市が、広島平和記念資料館(広島市中区)の入館料のあり方の検討を始める。現在は大人200円で、平和・戦史関係の資料館の中では安い。混雑対策などの運営コスト上昇を理由に値上げが必要との意見がある一方で、無料化を求める声もある。来館者アンケートの結果も踏まえ、年内に方向性が示される見通しだ。(広島総局 岡本与志紀)
市長は「二重価格」言及
「維持管理や改修費用が足りない場合、(資料館に)来る方から出していただくこともある」。松井一実市長は4月上旬の記者会見で、資料館の入館料について議論する必要性を指摘。外国人観光客や地元以外からの訪問客に料金を高く設定する「二重価格」にも言及し、「多様な視点での検討がいる」と述べた。
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞などが追い風となって来館者は急増し、2025年度には過去最多の約258万人が訪れた。
市は混雑対策として、24年からオンラインの販売・予約システムを導入。合わせて開館時間も朝夕1時間ずつ延長し、その時間はネット予約のみ入場できるようにしたが、人件費などの経費が膨らみ、光熱費の上昇も追い打ちをかける。24年度は入館料収入が約3億2000万円だったのに対し、管理運営費は約4億7000万円に上り、市側の財政負担は増している。
市平和推進課の担当者は「入館料の議論を避けては通れない状況だ」と語る。
完全無料化を検討したことも
現在の入館料は、大人(大学生以上)200円、高校生100円、中学生以下は無料となっている。
市によると、1955年の開館当初は、大人(13歳以上)20円で、72年に大人(16歳以上)50円、小中学生30円、6歳以下は無料になった。
完全無料化が検討されたこともある。市は、より多くの人に資料館を訪れてもらおうと、2005年度一般会計当初予算案の中で無料化を提案したが、市議会の反対で頓挫した。
現行料金になったのは16年度からだ。市は財政負担の削減などのため、長崎市の長崎原爆資料館の料金水準(大人200円)を参考に4倍に引き上げた。
年内に方向性
庁内や資料館関係者の意見は分かれている。
資料館幹部は「劣化が進む被爆資料の保存にも経費がかかる。質の高い展示を提供するため、来館者にもう少し負担してもらうのはありだと思う」と語る。
市には財政負担の観点から値上げの必要性を指摘する声がある一方で、市幹部の一人は取材に「何より大切にしているのは被爆の実相をより多くの人に伝えることで、無料でもいいと思う」と話した。
市の外郭団体で、資料館を運営する広島平和文化センターは幅広い議論が必要だとして、被爆100年に向けた有識者らの「広島市平和文化のまちづくり懇談会」の場で8月から検討を本格化させる。来館者1000人を対象に6月上旬から実施した、入館料が妥当かどうかなどを尋ねるアンケートの結果を懇談会に共有する考えだ。懇談会では、年内に方向性をまとめる方針。入館料の変更には市条例の改正が必要になる。
公共施設の運営に詳しい立命館大政策科学部の森裕之教授は「より質の高い展示体験を提供することを目指す上で、来館者により多く負担してもらう考え方は合理的だ。一方で、展示を多くの人に見てもらうことを重視するのであれば、極端に言えば無料でもよいだろう。食料品や生活品などでは値上げが相次いでいるが、入館料は単純な金額の増減だけで論じられる話ではない」と指摘する。
◆広島平和記念資料館=原爆の惨状を後世に伝えるため、平和記念公園の敷地内に建設され、1955年に開館した。本館は建築家・丹下健三(1913~2005年)の設計で、2006年に戦後の建築として初めて国の重要文化財に指定された。被爆者の遺品など約9万2000点を所蔵し、定期的に展示の入れ替えを行う。広島平和文化センターが指定管理者となって運営している。
長崎や大和ミュージアムなど…割れる判断
他の平和・戦史関係の資料館では、料金はどうなっているのだろうか。
長崎市は今年度、約170の公共施設の入場料や使用料を値上げしたが、長崎原爆資料館の入館料は大人200円に据え置いた。市財政課は「施設運営費は上がっているが、平和文化の発信が使命であることを重視した」としている。
知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)、周南市回天記念館(山口県周南市)、沖縄県平和祈念資料館(沖縄県糸満市)の大人の入館・観覧料は500~300円だ。
戦艦「大和」を建造した軍港の歴史などを紹介する「大和ミュージアム」(広島県呉市)は今年4月のリニューアルに合わせ、一般向けの観覧料を従来の2倍となる1000円に引き上げた。人件費などが膨らむ中、展示やサービスの向上に充てるという。呉市内在住者は500円に据え置いている。

模造刀で同僚殺害疑い、男逮捕 大阪、「かっとなった」

大阪府警黒山署は3日までに、建設会社の社員寮で、模造刀のような物で同僚の男性の頭や首を突き刺して殺害したとして、殺人容疑で、大阪府大阪狭山市の建設作業員伊藤孝容疑者(79)を逮捕した。署によると「偉そうに言われてかっとなった」と供述し、容疑を認めている。
逮捕容疑は2日午後7時50分ごろ、同市にある社員寮の部屋で、同僚の建設作業員鬼丸和彦さん(52)の頭や首を突き刺すなどして殺害した疑い。
署によると、鬼丸さんの部屋で口論になった伊藤容疑者が自分の部屋から模造刀のような物を持ち出したという。

埼玉・飯能の91歳遺体 殺害示唆の33歳男性「首絞めた」供述

埼玉県飯能市阿須の山林で、入間市仏子(ぶし)の無職、丸山絹子さん(91)が遺体で見つかった事件で、別の事件で逮捕された住所不定、無職の男性(33)=ベトナム国籍=が「首を絞めて殺した」との趣旨の供述をしていることが、捜査関係者への取材で判明した。男性は在留資格を失って定職に就いておらず、「腹が減っていた」などと話しているという。県警は、男性が窃盗目的で住宅に忍び込んだ際に鉢合わせした丸山さんを殺害し、遺体を遺棄したとみて調べる。
捜査関係者によると、遺体は1日夜に、丸山さん宅から約3キロ西の山林で、険しい斜面に毛布にくるまれた状態で見つかった。
県警によると、7月31日に丸山さんの長男から「母親の所在がわからなくなった」と県警狭山署に通報があり、捜索を開始。県警は同日、丸山さんの長男名義の軽乗用車を富士見市内で発見した。運転していたベトナム人男性が逃走したが、一般住宅の敷地内に侵入していたところを住居侵入容疑で現行犯逮捕された。
遺体は、男性の供述に基づいて県警が捜索して発見した。男性は丸山さんを殺害して遺体を遺棄したことをほのめかしているという。県警は、生活に困窮した男性が歩きながら侵入する住宅を物色していたとみて調べる。【遠藤龍、板鼻歳也、福田真緒】