館野仁(53)桜井純(45) 金密輸容疑で男2人逮捕 韓国から1トン運び込んだか―警視庁

韓国から金を密輸したなどとして、警視庁生活経済課は21日までに、関税法違反容疑などで、職業不詳館野仁(53)=千葉県習志野市秋津、会社役員桜井純(45)=同県市川市国分=両容疑者を逮捕した。館野容疑者は「密輸するつもりはなかった」と否認し、桜井容疑者は認めている。
同課によると、両容疑者は2023~24年、韓国と日本を計216回往復。計約1トンの金(約108億円相当)を密輸して東京都内の金買い取り店で売却し、計約9億8000万円の利益を得たとみられる。

館野容疑者の逮捕容疑は昨年8月21日、金の延べ棒4本(約4600万円相当)をポーチに入れて韓国から密輸し、消費税の支払いを免れるなどした疑い。

同容疑者は同日、韓国から羽田空港に到着した際にポーチを紛失。同空港に落とし物として届けられたことで発覚した。

その翌日、桜井容疑者がかばんに金の延べ棒9本(約1億450万円相当)を隠し、韓国から密輸しようとしたところを同空港の東京税関職員に見つかった。

両容疑者は韓国で延べ棒を預かり、入国時に消費税相当額を納めないまま日本の金買い取り店で換金し、売却代金を韓国に持ち帰ろうとしていたとみられる。両容疑者が韓国出国時に提出した輸出申告に関する書類には、同一の金の販売先が記されており、同課は韓国に仲間がいるとみて調べている。

鈴木湧万(29) 福島県教委 県立高校の男性教諭を懲戒免職処分

福島県県教育委員会は県立清陵情報高校の鈴木湧万(29)教諭を14日付けで懲戒免職処分としました。 鈴木教諭は2025年7月、郡山市内の商業施設の女性用トイレに盗撮しようと侵入した疑いで警察に逮捕され、その後、罰金10万円の略式命令を受けています。

支持率急落の高市政権がV字回復画策 内閣改造でクビ切り不可避な“ポンコツ”5大臣の名前

特別国会が先週閉会し、永田町では早速、内閣改造の人事話がささやかれている。高市政権は、消費税減税の議論がもつれているほか、強引な国会運営で支持率が急落。V字回復を図る一手として、内閣改造にかける期待感は大きい。
永田町では「若手の登用で刷新感を打ち出すつもりだ」「女性を大量入閣させるに違いない」などとささやかれている。ただ、一方で「ポンコツの現職は容赦なく切られる」ともっぱら。目下、5大臣のクビが危ういとみられている。
■首相側近、不倫スキャンダル、おこめ券大臣…
“クビ濃厚”の筆頭は、黄川田仁志こども担当相だ。
「黄川田さんは国会や会見での不安定な受け答えが目立ち、大臣としての能力そのものが疑問視されています。3月16日の国会答弁では、高市首相が法制化を目指す『旧姓の通称使用拡大』についての立憲民主党・蓮舫参院議員の質問に対し、グダグダ答弁を披露。わずか18分間で、3回も審議がストップするダメダメっぷりを発揮しました」(政界関係者)
黄川田氏は高市首相の側近でもあり、昨年の総裁選出馬会見では司会を務めた。しかしそこでも、質疑で記者を指名する際に「顔が濃い方」「逆に顔が白い、濃くない方」と外見の特徴を挙げて指名し、炎上。永田町では「空気が読めない人」ともっぱらで、続投は絶望的だ。
松本洋平文科相は、不倫相手の女性と国会事務所内での性行為疑惑が週刊誌で報じられた。そもそも「あのスキャンダルでクビが飛ばなかったのが奇跡」(大手紙政治部記者)で、今回はさすがに生き残れないだろう。
鈴木憲和農相も危ない。昨年には米価高騰対策として、「おこめ券」配布を打ち出した。しかし、「出来の悪いバラマキ政策だ」と激しい批判にさらされ、ミソを付けた。
さらに鈴木大臣は、昨年に放出された政府備蓄米の買い戻しをめぐって、官邸と対立している。
「鈴木さんは米価の暴落を防ぐため、備蓄米の早期買い戻しを官邸に申し入れました。一方、官邸幹部は『物価高対策に逆行してしまう』と難色を示し、強く反対したようです。両者の間に溝が生じています」(農水省担当記者)
■記者の質問にろくに答えず度々炎上
平口洋法相も、すこぶる評判が悪い。先の特別国会では、再審法改正をめぐり、自民党内で議論が紛糾。検察との対立も激化した。しかし、平口大臣は仲裁に入ることもせず、自民党内からは「法相として何もしてくれなかった」と、恨み節が聞かれる。存在感も薄く、退任は不可避とみられている。
小野田紀美経済安保相は参院議員2期目と経験が浅く、「入閣は早かった」との声が少なくない。会見では自身のメディア嫌いを隠すことなく、「記者の質問にすぐ『所管外です』などと突き放し、ろくに答えず度々炎上。内閣のイメージを低下させている」(官邸事情通)。
こうしてみると、高市内閣はトンデモ大臣のオンパレード。人を見る目がない高市首相が人事をいじって、支持率が上がるとは思えない。
◇ ◇ ◇
高市内閣の不祥事、スキャンダルについては、関連記事【もっと読む】【さらに読む】などでも詳しく報じている。

「保守派」の高市首相は絶対に口にしない…「先の大戦の戦没軍人230万人」を祀る靖国神社の不都合な真実

※本稿は、山崎雅弘『戦争を甘く見る空気』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
先の戦争で命を落とした日本軍人の中でも、とりわけ悲壮な物語として語られるのが、いわゆる「特攻(諸外国では「カミカゼ」)」で死んだ兵士の最期です。
戦争末期、通常の戦い方では戦局を挽回できないとの認識が日本軍の内部で広まると、上層部は破れかぶれのような形で、爆弾を搭載した飛行機や船で敵の軍艦に体当たりさせるという、常軌を逸した戦法を組織として命令するようになりました。
当時の日本軍は、この戦法を「特別攻撃(特攻)」と呼び、海軍は「神風(しんぷう)特攻隊」という名称で、体当たり攻撃の航空隊を継続的に出撃させました。この戦法が、新聞で大きく報じられて国内で反響を呼ぶと、陸軍航空隊も同様の「特攻隊」を組織して繰り返し発進させ、日本の近海に展開する敵艦へと向かわせました。
鹿児島県には、戦争中に多くの日本軍の航空基地が置かれており、知覧(ちらん)と万世(ばんせい)には、特攻隊員を偲ぶ平和祈念館があります。また、海上自衛隊の鹿屋(かのや)航空基地内にある「鹿屋航空基地史料館」でも、特攻作戦と特攻隊に関する展示物が公開されています。
各館内には、亡くなった特攻隊員の遺影や遺書が数多く展示されていて、見学者の中には、遺書の内容を読んで涙を流す人も少なくありません。
特攻隊員の書き残した遺書には、「笑って突込んで行く覚悟です」「私が死んでも、どうか悲しまずに大君(天皇)の為に よくぞ死んだ天晴(あっぱ)れな最後だったとほめてやってください」「お父上様、母上様この栄の心境を察し下さい 栄は飛んで喜んで行きました」など、自らの死を覚悟した若い兵士の「純真な」心情が綴られているからです。
けれども、後世に生きる我々がこうした「遺書」を読む時、気をつけなくてはいけないことがあります。それは、「どういう境遇でこれが書かれたのか」という点です。
当時の日本社会には、軍人が戦争で死ぬことを「避けるべきこと」や「悲しいこと」と見なすことを許さない「空気」が充満していました。それどころか、靖国神社宮司の言葉にあるような「戦死した人を褒めてあげなさい」という態度が、表向きは国民に求められていました。
特攻で出撃する兵士の遺書も、遺された家族が周囲のいじめなどで理不尽な目に遭わないようにするためには、当時の日本社会を支配した「空気」に合う内容の言葉を書くしかありませんでした。「僕は本当は死にたくない」とか「特攻を命令した上官が憎い」と、本心では思っていたとしても、それを遺書に書くことは事実上不可能でした。
もしそんな言葉を書いたなら、軍の検閲に引っかかって廃棄されたり、受け取った遺族が「卑怯者の家族」や「非国民の家族」と罵られる可能性が高かったからです。逆に、当時の日本社会の世界観や死生観に合致した遺書を書いておけば、残された家族は「英霊の家」として称えられ、地域社会で良い待遇を得られることもありました。
もちろん、個々の特攻隊員がどんな心情で遺書をしたためたのか、実際のところはご本人にしかわかりません。当時の価値観に適応し、遺書に書き記したような気持ちを胸に抱いて出撃した隊員も、少なからず存在したのだろうとは思います。
しかし、現代に生きる我々が、こうした遺書を「悲しい美談」と理解して感情的に「消費」することには、やはり問題があるように思います。彼らをそんな境遇へと追いやった上官や軍隊組織、そして社会の「空気」に対する批判的な視点が消失するからです。
特攻とは、実際の状況をストレートに表現すれば、「体当たり自殺攻撃」になります。
このような表現では、亡くなった人が不憫だということで、婉曲な表現である「特攻」という言葉が使われてきましたが、我々がまず考えないといけないのは、こんな戦い方はきわめて非人道的で、第二次大戦中に組織として繰り返し兵士に行わせた国は、日本以外にはなかったという現実です。
兵士が死ぬことを前提とした戦法は、人を人として扱わない、冷酷な行いです。
過去の戦争では、甚大な損害が出ることを想定した上でなされる「敵陣への突撃」が、しばしば行われてきました。けれども、それらは基本的に「生き残った兵が敵陣を占領する」ことが目標であり、突撃した全員を死なせる「死の強制」ではありませんでした。
そしてもう一つ、現代の我々が留意すべき重要な点は、もし靖国神社が存在しなかったなら、特攻という「体当たり自殺攻撃」も存在しなかったであろうということです。
靖国神社は、「戦死した軍人の肉体が滅びても、魂は九段の靖国神社へと向かい、そこで戦友と再会できる」という宗教的な物語を、日本軍人に信じさせていました。この物語に疑いを差し挟むことは、当時の日本社会では許されず、また軍人自身も「死の恐怖」から逃れるために、この物語を自発的に受け入れていたようにも見えます。
部下に「体当たり自殺攻撃」を命じた上官や司令官が、それによってその部下を死なせても罪悪感を感じず、罪の意識を軽減できたのも、「肉体は滅んでも魂は靖国に向かう」という物語が存在したからでした。軍人の死を「嘆きや悲しみの対象」ではなく「至高の栄誉」と顕彰する靖国神社がなければ、特攻という戦法は成立し得ませんでした。
軍人が戦場で死ぬことを「避けるべきこと」や「悲しいこと」と見なさず、むしろ「喜ぶべきこと」と捉える、多くの兵士を余計に死なせた遠因ともなった異様な「空気」は、1937年7月に日中戦争が始まった直後から、日本社会に広がっていました。
8月2日付大阪朝日新聞朝刊には、戦死した日本軍人を遺族が讃える記事が掲載されましたが、紙面に並んでいたのは、次のような言葉でした。
「“戦死は男子の本懐”健気に語る老ゆる母」

「“よく死んだ”戦死を褒める両親」

「よく死んでくれました、家門の名誉これに過ぎるものはありません」
8月5日付の同紙朝刊13面でも、「戦死の報にも毅然 天晴れ! 殉国の覚悟」という見出しで、次のような遺族の談話が、紙面の約3分の2を埋めていました。
「よくやってくれました。私は明治三十八年兵でちょうど日露戦役の済んだあとで、惜しくも従軍出来なかったですが、こんど息子が天晴れ戦死をとげてくれまして、一家の名誉これにすぎるものはありません」
「よくやってくれました。手紙がくるたびに、どうか潔くお国のために働いてくれればよいがと念じていましたが、これで私たちも大いに肩身が広いというものです」
「お役に立ってくれて、一門の名誉だと喜んでいます。白木の箱に入って凱旋せよと激励してやりましたが、それを実現してくれた」
「四日朝、戦死の電報を受け取りました。主人を早く亡くして娘二人はありますが、専造(戦死した一等兵)は私にとってただ一人の息子ですが、立派にお国に御奉公したのですから満足しています」
「お国のため立派に死んでくれたことを嬉しいと思います。二十八日、元気で活動しているから安心して下さいとの便りが来ましたが、これが最後の手紙となりました。千人針を送っておきましたが、着かなかったかもしれません」
最後のコメントにある「千人針」とは、千人の女性に一針ずつ赤い糸で白い布に結び目を縫ってもらい、それを敵弾除けと武運長久のお守りとして戦場の兵士に送る、民間信仰の一種です。そこには、相手の無事を祈る、切実な気持ちが込められていました。
息子を戦地に送り出した母親の多くは、おそらく本心では息子の生還を願っていたはずです。しかし、軍人の戦死を「悲しんではいけない」、「むしろ名誉なことだと喜ばなくてはいけない」という当時の日本社会の「空気」は、そうした本心を母親や妻、子どもが口にすることを許しませんでした。
新聞もまた、こうした「戦死を美談として物語化する記事」を書くことによって、人命を軽んじる「空気」の強化に加担していました。
戦地に赴いた軍人の「死」は、当人がある程度は覚悟していた最期だとしても、本来なら「可能な限り避けるべき結果」であるはずです。
ところが、先の戦争における日本では、こうした常識が壊れていました。
立派な大義に酔って「戦争を甘く見る空気」に浸り、出征した日本軍人の死を「喜んでいます」などと肯定する風潮が社会に広まると、やがて「軍人が戦地で死ぬこと」自体が目的化するという、本末転倒の考え方が社会に広まっていくことになります。
なぜ、そのようなグロテスクとも言える人命軽視の「空気」が日本社会に広がり、多くの人が抗(あらが)わずにそれに同調したのか。
1935年以降に先鋭化した「国体」思想の副産物として、日本人の思考形態が、論理性や合理性ではなく、主観や願望を投影した情緒的な物語(ナラティブ)に大きく偏向していったという面が大きいように思います。
現実をありのままに直視するのでなく、こうであって欲しい、こうであるはずだ、などの願望でまず結論を定め、そこから逆算する形で、人の心を揺り動かすような物語を構築していく。そうした手法が、新聞や雑誌で多く使われ、人々の心にも浸透しました。
国民の側でも、日々の苦しい現実から目を逸(そら)したいとの思いから、麻薬のような効果を持つ情緒的な物語に救いを求め、やがてそれを手放せない状態になっていきました。
軍の上層部から見捨てられて南方のジャングルで孤立した日本兵が、食糧も飲み水もなく空腹でやせ細り、衰弱し、誰にも看取られぬまま、植物が枯れるように餓死した。
こんな風に、事実を淡々と書いても、情緒的に人の心を捉える物語にはなりません。
若くて誠実な日本兵が、満足な食糧もないまま敵の追撃を逃れ、故郷に残した恋人から贈られたお守りを握り締める。周囲を敵に囲まれた南国のジャングルで彼女の幸せを祈りながら、敵の降伏勧告を敢然と拒否し、最期の突撃に向かう覚悟を固める。
そして、弾を撃ち尽くした銃を捨てて、肉弾戦でしか効果を発揮しない銃剣を血まみれの手で握り締め、もう二度と顔を見ることもできない最愛の恋人の名を叫びながら敵の陣地に突撃し、機銃弾を全身に浴びて鉄条網に倒れ込み、名誉の戦死を遂げた。
このような文章で情緒的な物語に仕立てれば、読む人の心にさまざまな感情の高まりを呼び起こし、兵士の死が「美しい最期」であったかのような印象すら受けるでしょう。実際、この種の物語に特攻隊員の若者を当てはめた小説や映画がいくつも世に出され、大衆的な人気を博しています。
これが、戦争を情緒的な物語に当てはめて語ることの恐さです。
高市早苗が2012年8月15日、公式ブログに掲載した靖国神社参拝時のコメントは、情緒的な物語を事実であるかのように語った内容です。そこで使われる「散華(さんげ)された」という言葉は、軍人が戦場で命を落とすという凄惨な状況を、情緒的な美談として物語化する時の常套句(じょうとうく)です。
「今年は、例年通り、午前中に靖国神社に参拝し、その後、日本武道館で挙行された全国戦没者追悼式典に参列致しました。

靖国神社では、国策に殉じ尊い生命を捧げられたご英霊に、尊崇の念をもって感謝の誠を捧げてまいりました。

いつも本殿前まで歩を進めますと、胸が締め付けられるように苦しくなり、涙が滲んできます。

祖国の存続を願い、愛するご家族や故郷への深い思いを残して散華された方々。悲しみを堪えて歯を食いしばって戦後の混乱期を生き抜いてこられた多くのご遺族たち。

『そのご労苦に応えなければ』『美しく強く繁栄を続ける国家を築いていかなければ…』

という使命感と焦燥感に、押しつぶされてしまいそうになるのです」
靖国神社を参拝して「英霊に感謝」という言葉を口にする「保守派」の政治家たちは、地獄のような戦場の実相ではなく、美辞麗句で飾り立てた情緒的な物語を好みます。
彼らは誰一人として、靖国神社を参拝する時に、先の戦争で命を落とした日本の軍人と軍属の6割、約140万人が「餓死者だった」とは言いません。戦没軍人約230万人の全員が「敵と戦って散華した」かのように語ります。
この政治家の行為は、一見すると先の戦争で亡くなった日本の軍人と軍属に寄り添っているように見えて、実は正反対で、軍人と軍属の命を著しく軽んじています。
なぜなら、彼らを死なせた「原因」を批判的に検証したり、彼らを死に追いやった「責任者」を批判的に追及するそぶりを、一切見せていないからです。
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(戦史・紛争史研究家 山崎 雅弘)

倒壊した自宅から聞こえた祖母の声、やがて途絶える…夜通し救助待った家族「助けられなくて悔しい」

最大震度7の揺れが襲った熊本地震の被災地では1日時点で、家屋が倒壊するなどして36人の命が失われた。突然、大切な家族を失った遺族は、やり場のない思いを抱えている。(柏木万里)
「あと少しだったんです。声が聞こえていたから……」
7月28日午後4時27分に発生した地震で、震度7を観測した氷川町。2階建て木造住宅の1階の寝室などがある部分が押しつぶされた自宅の前で、祖母の齊藤絹子さん(91)を亡くした修治さん(43)がつぶやいた。
絹子さんは、修治さん夫妻とその2人の子、修治さんの母の京子さん(67)との6人暮らし。地震が起きた時は絹子さんだけが在宅しており、1階の寝室で休んでいたところ、倒壊に巻き込まれたとみられる。
買い物から急いで戻った京子さんは、倒壊した家屋を目の当たりにし、「お母さん!」と叫んだ。すると、「助けて」と絹子さんの声が、がれきの中から聞こえた。「まだ、生きている」。発生時に勤務先の宇城市にいた修治さんや家族、近くの住民も駆けつけ、絹子さんの救助を試みた。
がれきの下の隙間を必死にこじ開けると、ベッドの上に横たわる絹子さんの顔が見えた。修治さんが声をかけると、「大丈夫だよ」と答えたという。だが、大きな家屋の重みは人力ではどうにもならなかった。そばに近寄ることはできず、ストローをさし入れたペットボトルを物干しざおにくくりつけ、口元に持っていこうとしたが、難しかったという。
午後8時前、何度呼びかけても絹子さんの返答がなくなった。他にも被災している人がおり、家族は倒壊した家屋の前で夜通し救助を待ったが、絹子さんが助け出されたのは翌日の正午前だった。すでに息を引き取っており、京子さんは、「助けられなくて悔しい」と声を絞り出す。
花卉 ( かき ) 農家だった絹子さんは、花をとても愛していた。現役時代はいつも畑作業に真剣に向き合い、押し花も楽しんでいた。引退してからも、自宅の前にはたくさんのプランターを置き、多種多様な花を育てていた。修治さんは、「大切に水やりをして植物を育てていたばあちゃんの姿を、いつも見ていた」と振り返る。
話し好きの明るい人柄で、演歌を歌うことや、ダンスが大好きだった。自宅ではいつも、ちょっかいを出しに来た幼いひ孫を、手押し車を押しながら追いかけて笑っていたという。
絹子さんが大切に保管していた押し花や着物は、がれきの下に埋まってしまった。プランターはいくつも割れて、断水が続く中で水やりができないままだ。
それでも、猛暑の中で、家族は絹子さんとの思い出の品を探していた。修治さんは、汗をぬぐいながら思いをはせた。「たくさん遊んでくれたこと、面倒をみてくれたこと、ずっと忘れない」

賽銭泥棒で計400万円を盗んだ男…他人事のように答えていた裁判中に突然泣き出した話題とは【裁判傍聴記】

「2年半で1000回以上やって400万円以上盗んだと思う」令和8年7月3日、大分地裁。窃盗罪に問われている被告人(38歳)は答えた。男が1000回以上やったと供述する窃盗は賽銭(さいせん)箱から金を盗むというシンプルな方法だった。賽銭泥棒の裁判は過去に何度も見ているが被害額は数千円、多くても数万円が相場であり、400万円以上という数字に驚いた。またその方法を聞くと、棒の先にガムをくっつけて賽銭箱に突っ込むという単純な犯行であった。住所不定、無職の男はなぜ賽銭泥棒を繰り返したのか。ソープランドの職場から飛び、野宿生活をしていた被告人男は中学を卒業し職を転々とした。その後、デパートでアルバイトを始め正社員になっている。そこで好きな女性と出会い、結婚し子どもを授かる。理由はわからないが男が原因で、その後、離婚する。平成26年に賽銭泥棒で懲役1年執行猶予3年の判決を受けた。そして、令和4年に再び賽銭泥棒で懲役1年執行猶予3年の判決を受けている。男は勾留を解かれ、別府のソープランドでボーイとして働きだす。しかし、雇用条件は悪く、スタッフから罵声を浴びせられることが多かった。男は少年期、父親から暴力を受けており、人から怒鳴られるとトラウマ的に逃げ出したくなる特性があるという。令和5年夏ごろ、店を飛び、路上生活を始めた。10月ごろから気温が下がり、ネットカフェで生活するようになる。本件は前刑の執行猶予期間が終了してから逮捕、起訴されているが、ネットカフェの支払い、食費を捻出するため、男は執行猶予期間中の令和5年9月ごろから再び賽銭泥棒を始めている。令和8年5月9日、神社を二カ所周り、3190円を盗んだ男は自転車でネットカフェに戻る途中、巡回中の覆面パトカーに追われ、一度は逃げ切るもその後、逮捕された。警察での取り調べで「なぜ賽銭なのか?」との問いに男は「小学生の頃から賽銭泥棒をしています。手っ取り早く金が手に入るので」と答えている。「何も考えてませんでした」刑務官に連れられ入廷した男は、余裕のあるジーンズにペンキをぶちまけたような模様の黒のロングTシャツ姿、長髪を後ろで一つに結び、その毛先にはモスグリーンのメッシュが施されている。一見、クラブに行けばいくらでも居そうな出で立ちの人物である。被告人質問で男はどの質問に対しても、まるで他人事のように答える。弁護人「刑務所に入る覚悟はありますか?」
「2年半で1000回以上やって400万円以上盗んだと思う」
令和8年7月3日、大分地裁。窃盗罪に問われている被告人(38歳)は答えた。
男が1000回以上やったと供述する窃盗は賽銭(さいせん)箱から金を盗むというシンプルな方法だった。
賽銭泥棒の裁判は過去に何度も見ているが被害額は数千円、多くても数万円が相場であり、400万円以上という数字に驚いた。またその方法を聞くと、棒の先にガムをくっつけて賽銭箱に突っ込むという単純な犯行であった。住所不定、無職の男はなぜ賽銭泥棒を繰り返したのか。
男は中学を卒業し職を転々とした。その後、デパートでアルバイトを始め正社員になっている。そこで好きな女性と出会い、結婚し子どもを授かる。理由はわからないが男が原因で、その後、離婚する。
平成26年に賽銭泥棒で懲役1年執行猶予3年の判決を受けた。そして、令和4年に再び賽銭泥棒で懲役1年執行猶予3年の判決を受けている。
男は勾留を解かれ、別府のソープランドでボーイとして働きだす。しかし、雇用条件は悪く、スタッフから罵声を浴びせられることが多かった。男は少年期、父親から暴力を受けており、人から怒鳴られるとトラウマ的に逃げ出したくなる特性があるという。
令和5年夏ごろ、店を飛び、路上生活を始めた。10月ごろから気温が下がり、ネットカフェで生活するようになる。
本件は前刑の執行猶予期間が終了してから逮捕、起訴されているが、ネットカフェの支払い、食費を捻出するため、男は執行猶予期間中の令和5年9月ごろから再び賽銭泥棒を始めている。
令和8年5月9日、神社を二カ所周り、3190円を盗んだ男は自転車でネットカフェに戻る途中、巡回中の覆面パトカーに追われ、一度は逃げ切るもその後、逮捕された。
警察での取り調べで「なぜ賽銭なのか?」との問いに男は「小学生の頃から賽銭泥棒をしています。手っ取り早く金が手に入るので」と答えている。
刑務官に連れられ入廷した男は、余裕のあるジーンズにペンキをぶちまけたような模様の黒のロングTシャツ姿、長髪を後ろで一つに結び、その毛先にはモスグリーンのメッシュが施されている。一見、クラブに行けばいくらでも居そうな出で立ちの人物である。
被告人質問で男はどの質問に対しても、まるで他人事のように答える。
弁護人「刑務所に入る覚悟はありますか?」

岡山・矢掛町で行方不明だった男児(2) 無事に発見 捜索中の消防団員が山中で発見

岡山県矢掛町で1日午前から行方不明になっていた2歳の男の子が、2日朝、無事に発見されました。
行方不明になっていたのは京都府から母親と一緒に矢掛町に帰省していた男の子(2)です。1日午前10時ごろ、祖母が自宅付近の草取りをしていたときに近くで遊んでいましたが、約30分後に姿が見えなくなり、警察や消防などが行方を捜していました。

2日朝は約250人態勢で捜索。そして午前7時25分ごろ、近くの山の中を捜索していた消防団員が男の子を発見、保護しました。男の子は木にもたれかかるように立っていて、目立った外傷はなく意識もはっきりしているということです。

「愛子天皇」潰しは賛成で、消費税減税はなぜ反対? 玉木国民民主の「公約違反」がネットで袋叩き

【永田町番外地】#88
高市早苗首相が「反省点なし」とした国会だったが、国民有権者の怒りや落胆ぶりはマスコミ各社の世論調査の示すとおりだ。高市内閣、自民党支持率の急落はもちろんのこと、政党支持率は与野党ともに振るわず。とりわけ終盤国会、与党過半数割れの参院でキャスチングボートを握る国民民主党の“裏切り”には、怒りの声がネット上にあふれている。
たとえば、高市が来年4月から食料品の消費税を2年間限定で1%に減税する方針を示したことに対する玉木雄一郎代表の対応だ。「経済に悪影響が大きい」として反対する姿勢を鮮明にしたのだが、これが「公約違反じゃないのか」と袋叩きにあっている。ネット上の代表的な声を紹介しよう。
「国民民主は先の衆院選の重点政策に、消費税一律5%減税の公約を掲げていた。それなのに高市さんの消費税減税のやり方が気に入らないからとケンカ腰で反対するのは支持者への背信ですよ。何が対決より解決だ」といった具合である。
「高市首相の消費税減税が物価高騰対策なのに対して、国民民主は消費税一律減税を景気喚起策と位置づけている。だから玉木代表は反対なのですが、一般の消費者からすれば、小難しいことはともかく、同じ減税なんだからサッサと賛成・実施してくれよが本音。それで“公約と違うじゃないか”と批判が集中しているのです」(全国紙デスク)
かと思えば、玉木国民民主は、世論調査で反対や慎重論が多い「愛子天皇」潰しの皇室典範の改正や国旗損壊罪法案ではあっさり高市自民党に手を貸している。これも根っからの支持者にはチグハグに見える。
保守本流、穏健保守の象徴的存在だった故・大平正芳元首相の後継を名乗り政界入りした玉木が掲げる保守リベラル、中道保守の旗印に期待を寄せてきた支持者は少なくない。しかし、高市首相の男尊女卑政策や右傾化暴走に手を貸し、庶民が望む消費税減税にはイチャモンをつける。これに、古くからの支持者はクビをかしげ始めているのだ。
国民民主の代表選が9月6日実施される。立候補者向けの説明会には玉木の他、若手ら3陣営が出席した。玉木の再選は動かないとみられているものの、今の特色なしの“ゆ党”のままでは2、3年前の国民民主に対する熱狂と支持は期待しようもない。支持率低迷が続く国民民主は瀬戸際に立たされている。 (=文中敬称略)
(特命記者X)

宇部市のコンビニに軽乗用車が突っ込む 酒酔い運転容疑で68歳男を逮捕

1日午後、山口県宇部市でコンビニエンスストアに軽乗用車が突っ込む事故があり警察は酒酔い運転の疑いで68歳の男を逮捕しました。
酒酔い運転の疑いで逮捕されたのは宇部市東岐波に住む自称無職の男(68)です。
1日午後6時半頃、「車が建物に衝突している」と110番通報がありました。
警察が駆け付けたところ国道190号沿いにあるコンビニエンスストアに軽乗用車が突っ込んでいて
この事故で店内にいた40代の女性客と50代の店長の女性が軽いケガを負いました。
軽乗用車を運転していた男の呼気からは1リットルあたり0.5ミリグラム以上のアルコールが検出されたため、警察は酒酔い運転の疑いで現行犯逮捕しました。
調べに対し「酒に酔って運転したことに間違いありません」と話し容疑を認めているということです。

熊本市で38・9度、熱中症に注意呼びかけ…高知や和歌山で40度台の「酷暑日」観測・国内5日ぶり

2日は西日本を中心に気温が上昇した。気象庁によると、午後2時までに高知県四万十市の江川崎地点で40・8度、中村地点で40・1度を観測、和歌山県田辺市でも40・6度となり、国内で5日ぶりに40度以上の「酷暑日」になった。
先月28日に震度7を観測した熊本県内でも熱中症になりやすい危険な暑さになることが予想されるとして、熊本地方気象台が引き続き熱中症予防のための行動を取るよう呼びかけている。
熊本市では38度が予想されていたが、地域気象観測システム(アメダス)によると、午後2時21分には38・9度となり、2年前の8月4日に記録した38・8度を上回り、この地点の観測史上1位となった。3日はさらに気温が上がる見込みで、40度が予想されている。
東京都心の最高気温は午後1時43分の35・3度で、前日より1・2度低くなっている。