沖縄・辺野古沖事故、転覆前に船長が生徒に操縦させたか…波浪注意報下で「軽率で不適切な行為」指摘も

沖縄県名護市辺野古沖で3月、小型船2隻が転覆し、同志社国際高(京都府京田辺市)の女子生徒(17)と男性船長(71)が死亡した事故で、2隻の船長が転覆前、生徒側に船を操縦させていた可能性のあることが、捜査関係者への取材でわかった。第11管区海上保安本部(那覇市)が詳しく調べている。
事故は3月16日午前10時10分頃に発生。市民団体「ヘリ基地反対協議会」が運航する「不屈」と「平和丸」が転覆し、生徒18人を含む計21人が海に投げ出され、不屈の船長と平和丸に乗っていた同校2年の女子生徒が死亡、生徒ら14人が負傷した。
捜査関係者によると、当時、現場付近で安全航行を呼びかけていた海保や生徒が撮影した映像などから、不屈では転覆する前に、生徒に操船を代わり、平和丸でも同様の動きをした疑いがあるという。海保は映像を精査するなどして調べている。
一方、平和丸の男性船長は関係者に対し、「不屈の船長が生徒にハンドルを持たせているのを見て、同じように持たせた」「船のハンドルを押さえた上で、生徒に操縦させた」などと説明。事故については、反省の意を示した上で「先に転覆した不屈を助けにいかないわけにはいかなかった。遺族に直接謝罪したい」などと話しているという。
船舶職員及び小型船舶操縦者法と施行規則では、船の操縦者に免許の取得を義務づけている一方、免許を持つ操縦者が指揮監督を行う場合などは、免許を持たない人による操船を認めている。ただ、国土交通省によると、無免許の人の操船は、安全が確保され、危険性が小さい状況下であることが想定されている。当日は波浪注意報が発表され、警戒監視中の海保は「波が高いので十分気をつけてください」などと拡声機で繰り返し注意を促していた。
26人が死亡・行方不明となった北海道・知床半島沖の観光船沈没事故で事故対策検討委員会の委員を務めた慶応大の南健悟教授(海事法)は、「免許を持たない高校生に船を操縦させていた場合、法律違反を問われなくとも、当時の気象状況などを踏まえると、軽率で不適切な行為だったと評価されうる。司法手続き上、安全管理に対するずさんさや悪質性を示す事情として考慮される可能性がある」と指摘する。
このほか、海保の捜査では、乗船前に生徒に対し、船長らから安全面に関する詳細な説明がなかったことも判明した。ヘリ基地反対協議会側に同校生徒の乗船名簿はなく、安全管理に関する資料も見つかっていないという。協議会側の安全管理体制に問題があった可能性がある。11管は、業務上過失致死傷などの疑いで捜査を進めている。
沖縄・玉城デニー知事、9月の知事選への影響「ないと言えず」
沖縄県の玉城デニー知事は19日、同県名護市辺野古沖の小型船2隻の転覆事故が、9月の県知事選に与える影響について、「一つの世論の方向性として全く影響がないとは言い切れない」と述べた。
玉城氏は同日の定例記者会見で、2隻の運航団体に県が補助金を出しているといった事実とは異なる情報がSNS上に出ていることに触れた上で、「(誤情報を)拡散することも間違った判断を広め、助長することにつながる。間違った情報によって判断されることがあってはならない」と語った。

クマに襲われ木の棒で命拾いした男性、開発した「クマ撃退用ポール」に注文殺到…青森県警も導入

クマに襲われた経験を生かして開発された「撃退用ポール(棒)」が注目を集めている。距離を保ち身の安全を確保できるとして、岩手県岩泉町の佐藤誠志さん(59)が昨春に販売を開始して以降、県内外で800本以上売れ、クマ出没が相次ぐ青森県警も導入。佐藤さんは「クマと会ってしまった時に致命傷を防ぐことができれば」と話す。(山岸憲伸)
「棒がなければ顔を攻撃されていた」
佐藤さんは2023年9月、同町の早坂高原近くの山林でキノコ採りをしている最中、生い茂った草木の先で何かが動くのに気づいた。木の上に登る子グマと、体を左右に揺する母グマの姿が見えた。「絶対にやられる」。覚悟した直後、母グマがものすごい勢いで突進してきた。
つえ代わりにしていた長さ約1メートル60の木の棒で、何度も襲いかかってくるクマを繰り返したたいた。しかし途中で棒をつかまれ、振り上げたところで足元まで接近されると、肘や太ももをかまれたり引っかかれたりした。程なくしてクマは立ち去った。
佐藤さんの体には今も傷痕が残るが、「棒がなければ、(致命傷になりかねない)顔を攻撃されていただろう」と、クマと対峙(たいじ)した際に距離を保つことの重要性を学んだ。
全7種類でカスタム可能
九死に一生を得た経験から昨年の春前に撃退用のポールを製作した。ポールにはアルミ合金などを使用し、先端が二股に分かれた全7種類。長さは1メートル15~70を用意し、カスタムもできる。クマの素早い動きに対応できるよう最も軽いポールで約500グラムと軽量化を図った。実現に向けて、猟友会員からもアドバイスをもらったという。
パンフレットに記したポールの使い方には、〈1〉振り上げた時に距離を詰められないよう、たたかずに突くこと〈2〉クマにつかまれないように、突いた後はすぐに引くこと――など自らの教訓を生かした。
ふるさと納税の返礼品にも
元々山菜やキノコ類、ペット用品などをインターネットで販売しており、昨春からポールも商品に加えたところ、注文が殺到。これまで累計で800本以上が売れ、今月中には1000本に達する見込みという。
山の近くに住む家族への贈り物として購入する個人客や、仕事で山に入らざるを得ない電力会社、測量会社からも注文を受けたという。ポールは近隣の農家らの手作りで、今年から町のふるさと納税の返礼品にもなっている。
佐藤さんは、山に入る時のクマ対策として「ブザーや笛を携帯し、まずはクマと出会わない工夫が大切」としつつ、「遭遇した場合の想定や道具の準備もしてほしい」と備えの大切さも訴える。
商品価格は7800円~2万7000円(税込み、送料別)。佐藤さんが運営する店舗「原生林の熊工房」のECサイトから購入できる。

ホームセンターから全長1m以上の「マラヤンブラッドパイソン」が脱走、毒はないがかみつく恐れ

新潟県上越市下門前のホームセンターからヘビが逃げ出し、新潟県警上越署が捜索している。毒はないが、手を出すとかみつく恐れがあるとして、発見しても近づかないよう呼びかけている。
同署の発表によると、逃げ出したのは、茶褐色でまだら模様の「マラヤンブラッドパイソン」。大きさは、全長が100~130センチで太さは約15センチという。
店員が18日午前8時半頃、飼育ケースからヘビがいなくなったことに気づき、同日午後6時半頃、同署に通報した。飼育用のガラスケースが内側から割れており、ヘビがケースを割って逃げたとみられる。
情報提供は同署(025・521・0110)へ。

高市政権と昭和保守の終焉…古川禎久・山崎拓が語る「少数与党の反動が生んだ政治の歪み」

〈高市首相が”退陣”を口にした日…ホルムズ海峡への自衛隊派遣を止めた側近・今井氏は「何を考えているんだ」と激怒 ガバナンス崩壊寸前の政権の内幕〉から続く
自民党内ではいま「55年体制」の終焉を見据えた危機感が静かに広がっているという。石破「少数与党」政権時代への反動、中道保守の失速、そしてネット世論が攪乱する新たな政治潮流。古川禎久幹事長代理は、自民党がもはや従来型の「国民政党」でいられなくなった現実を語り始めた。
【写真】取材に応じる山崎拓元自民党副総裁
さらに山崎拓元自民党副総裁が、炭鉱、玄洋社、右翼、そして中曽根政治へと連なる自民党保守の源流を辿り直す。高市政権の背後で進む「戦後保守の変質」とは何か。自民党政治の「歴史的転換点」とは。
少数与党の反動が生んだ“高市旋風”
終わりの始まりという酷評があれば、意外によくやっていると庇う声もある。
「国論を二分する政策に果敢に挑む」
そうしきりに訴える高市早苗政権の発足から半年が経過し、賛否が真二つに分かれている。なぜここまで評価が割れるか、といえば、その要素はさまざまであろう。
インターネット空間のSNS(ソーシャル・メディア・ネットワーク)が、新聞やテレビ、雑誌といったオールドメディアにとって代わり、1億総国民が誰でも自らの考えを発信できるようになった。
高市人気がネット空間に支えられている側面は否めない。反面、そのSNSの意見は危うさを孕む。自民党に限らず、日本の政党政治そのものが、激しく遷りゆくそうした情勢の変化についていけなくなっていると感じる。
唐突な衆院の解散から2月の総選挙で大勝した結果、高市独裁の空気が自民党内に充満する裏では、政権の歪みを指摘する所属議員の批判や陰口が絶えない。
党の選挙対策委員長代理や広報戦略局長、副幹事長、青年局長などを歴任し、高市政権でも幹事長代理を務める元法務大臣の古川禎久(60)は今の自民党をどう見るか。
「自民党は一昨年の衆議院選挙に続き昨年の参議院選挙でも大敗して1年半ぐらい前から少数与党に転落しました。少数与党として予算はもちろんのこと、法案一つ通すにしても野党の力を借りなければなりませんでした。すると野党は、協力する代わりにこれを呑め、あれを呑め、と条件を出してくる。それでいて財源はこっちで考えろと。
私自身政治改革特別委員会の筆頭理事でしたので、複雑な国会運営の現場からすると、ものすごく苦しい思いをしてきました。政治改革では政治資金にまつわる問題もあったし、あとになって定数削減の話も出てきた。国会ではそれぞれの委員会で与野党間の駆け引きをしなければなりません。
そんな苦しい状況で衆議院が大勝した。少数与党の苦しさを身に染みて感じる者としては、数はありがたいと率直にそう思います。選挙に勝ったんだから、ある種の勢いが党内に出てきたのは間違いありません」
古川は今度の総選挙大勝について一定の理解を示すが、もとよりそれで満足しているわけではない。高市は自らの衆院解散のせいで予算の今年度内成立が難しくなり、さらにそこを批判されることを嫌った。
そして案の定、結果的に予算の成立は新年度にずれ込んだ。
そもそも古川自身は通常国会の冒頭というこのタイミングでの衆院解散、総選挙に懐疑的ではなかったか。
「物価高で切実な思いをしている人たちがいます。そこに政策を届けるという文脈で議論を重ねてきました。政権を預かる与党としては国民生活や自治体に迷惑をかけちゃいかん。だから普通に考えれば、まずは新年度の予算を上げることに専念するものと思ってきました。そんなところへ解散ですから、驚きました。
加えて仮に総選挙で勝っても、参議院はいまだ少数なんです。予算は年度をまたいで成立したけれど、衆議院の数で無理押しこみしたって政策を実現できない。衆議院と参議院でねじれている国会の足下でいえば、政権政党として税制をはじめ国民に必要な法案を成立させなければならない。
数におごっているように思われないよう議論を尽くす姿を国民に見せていかなければなりません。それが国民に対する責任であり、国民に信頼されるかどうかは、これからの話なのです」
“中道保守”は国民に届かなかった
異論はないが、現実の政治ではなかなかそうはいかない。今度の総選挙では、国民受けしそうな中道保守の旗を掲げて結成された中道改革連合が惨敗した。
古川も日頃から中道保守の必要性を訴えている。衆院小選挙区の宮崎3区で9回の当選を重ねてきた古川は元来選挙に強く、今回の衆院選も圧勝だった。古川の唱える中道と新党の旗印の中道ではどこが違うのか。
「たしかに言葉は共通しているけれども、必ずしも一致している話ではありません。今の時代の瞬間的な国民の評価としては、中道というワードそのものが国民に受け入れられなかったという気はします。これはしっかり分析してみないとわからない。保守中道勢力の人たちが党派を超え、場面場面で力を合わせていく考えは今も変わりません。
しかし、選挙ではそうならなかった。私の肌感覚からすると、これまでの国会では、熟議が深まったという評価がある反面、国民には国会議員たちが手柄争いをやっているように映ったのではないか。それが政党政治に対する不信感として広がったのではないでしょうか。少数与党政治に対する反動批判とでもいえばいいでしょうか。それが今回の選挙に関する私の分析です」
古川は自民と社会の二大政党が対峙してきた保革の1955年体制モデルを変えなければならない、という持論を展開する。極端な右傾化に警鐘を鳴らす穏健保守の論客として永田町で知られる。
「今は政党政治のありようそのものが変わってきています。一昨年来、自民党が選挙で大敗してきた理由の一つが、従来の自民党モデルが崩れているからだと感じます。自民党が謳ってきた国民政党は何か。それは、国民の多様な声や要望を聞いてそれを政策に反映させていくことだと思います。それができなくなっている。
昭和から平成、令和と時代が移り、家族のあり方や働き方、社会の構成にいたるまで国民の価値観がずい分変化してきました。いわゆる55年モデルの政党政治は終わったんだけれど、そういう政治スタイルが続いている。
自民党は人口もどんどん増えて経済が成長していく右肩上がりの昭和の時代の成功体験を引きずったまま、時代の変化をキャッチアップできていない。そこに対する国民の不満が向けられているのではないでしょうか。
結果、国民民主党や参政党、れいわ新選組に対する支持につながっている。時代が動いているなかで政党政治や議会政治が変わっていかなければならないのだけれど、そうなっていません」
安倍・菅政権の一強政治から岸田政権を経て石破政権に替わり、昨秋には高市政権が誕生した。石破政権時代の選挙では、まさに旧来の自民党政治そのものがもう終わりを告げているかのような結果だった。反面、現在の高市政権になり、そこから再び日本の政治が逆戻りしているように見える。そこをどう見るか。
「時代の車輪が大きく回り始めたのは間違いありません。この時代の水は激流で、渦を巻いたり、逆流したり、溢れ出たりする。歴史的に見ても、今はそういう過渡期ではないでしょうか。時代はスーッと一直線に流れていくものではないから、何が時代の本流なのか、それを見極める必要があるでしょう。
前から言っているように、今は極右や極左という極端な主張ではない保守中道勢力が国民に受け入れられやすい。というより極右や極左による政権運営だと、結果的に国民はひどい目に遭う。
政策論的には、格差の広がりや分断が起き、政治が不安定化した挙句、ポピュリズムや排外主義につながっている。そうならないような内政が必要であり、政策的に落とし込むとすれば、所得の再分配機能をもっと働かせる必要があるでしょう。穏健な保守が力を合わせて国政を運営していくことが最もいいと思います。それは歴史が証明しています」
山崎拓を形づくった炭鉱と玄洋社
55年体制を紐解くにあたり、建設大臣や自民党政調会長、幹事長、副総裁を務めてきた長老の山崎拓にも聞いた。
戦前の関東州(現中国大連市)に生まれ、終戦を待たず6歳で福岡県に引き揚げてきた山崎は、今年12月に卒寿を迎える。柔道六段、1964年の東京五輪柔道重量級で金メダルに輝いた猪熊功と互角の闘いをしたという逸話もある。今も日本武道館の全日本柔道選手権などを観戦するという。
「あれ(猪熊との試合)は全日本選手権とかそんな大会ではなく、毎月初段から四段までが参加してきた講道館の月次試合というのがありましてね、そこで彼とあたっただけの話なんです。今でも柔道観戦だけでなく、月に2回は福岡から東京に出てきて政界関係者や旧知のマスコミの方と会っています。人と会うのが仕事ですから」
山崎は小学3年生の少年時代に隻眼となるも、国立の福岡教育大附属福岡中学校から江戸時代の黒田藩校を起源とする福岡県立修猷館高校を経て早大第一商学部に進んだ。高校、大学時代を通じて柔道部に所属し、各種大会に出場してきた。
学生としては最高段位の四段になった。早大を卒業したあとは県内久留米市発祥のタイヤメーカー「ブリヂストン」に5年勤務して政界入りする。政治の出発点は1967年の福岡県議会議員選挙だ。
「同じ昭和11(1936)年生まれに日高康という福岡県議会議員がいましてね。私は修猷館と早大で柔道をやっていて、日高は北九州市にある同じ県立の東筑高校と明治大学で野球をしていました。日高の高校時代はのちに西鉄ライオンズの2塁手として活躍した仰木彬が1年上にいてピッチャー、日高はレフトを守って甲子園にも出ました。
私のあとから日高も県議になり、柔道と野球というスポーツだけでなく、彼の家が伊藤伝右衛門に連なる炭鉱を経営していた。私の祖父も、父方・母方ともに炭鉱の経営者だったこともあり、とても親しくしてきました。私は2年間だけ県議を務め、そこから中曽根康弘さんに薦められて(1969年の)衆院選に出て落選しました」
ちなみに日高は映画俳優の高倉健の従弟であり、福岡県議を経て高倉プロモーションの専務となる。柳原白蓮の夫として名高い伊藤伝右衛門の近縁にあたり、高倉健の実父も伊藤系列の炭鉱で現場監督をしてきた。
中曽根康弘に見出されて国政を目指した山崎は、3年の浪人生活を経て1972年12月に衆議院に初当選する。折しも第一次田中角榮内閣で日中国交回復がなされたあとの11月の衆院解散は「日中解散」と称された。
自民党の当選同期には小泉純一郎と加藤紘一がおり、のちに3人は互いの頭文字をとってYKKと呼ばれる盟友関係になる。他の同期当選議員には三塚博や石原慎太郎、村岡兼造や瓦力、保岡興治、越智通雄、野田毅、深谷隆司など、錚々たる顔ぶれが並ぶ。
初当選組のうち山崎、石原、保岡は無所属だったが、選挙後はみな自民党に入り、中曽根に見初められた山崎は中曽根派の新政同志会に加わった。
三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘それぞれが派閥を率いた「三角大福中」時代の総裁争いの真っただなか、中曽根は福田から田中に支持を乗り換え、田中が首相に就いた。山崎はその中曽根派で世襲でないたたき上げ国会議員として頭角を現わしていく。ただし自民党内で出世できた裏には、別の理由もあったようだ。
山崎の祖父は父方、母方ともに石炭の鉱山を切り拓いた炭鉱の大物経営者だった。父方の祖父は山崎和三郎といい、筑豊地域の飯塚炭鉱、母方の祖父である山口慶八は山口鉱山を経営し、佐賀県多久市の小城炭鉱をはじめ幾つもの鉱山を開発した。山崎が解説する。
「簡単にいえば、炭鉱屋同士の親が息子と娘を結婚させたのです。どちらも名の知れた炭鉱で、なかでもいちばん大きかったのが母方の祖父が開発した小城炭鉱でした。もう一方の父方の祖父である和三郎はあの玄洋社の幹部であり、頭山の盟友であった中村徳松がオーナーである飯塚炭鉱の石炭が玄洋社の資金源になっていたと聞いています」
繰り返すまでもなく、玄洋社は頭山満らが結成した日本の右翼団体のルーツである。明治維新後、西郷隆盛や板垣退助に私淑した右翼の巨魁、頭山は、西南の役における西郷の死を獄中で知り、衝撃を受けたとされる。
山崎和三郎は玄洋社の幹部社員として石炭利権を支えただけでなく、1892(明治25)年5月、読売新聞主筆から衆議院議員に転じた高田早苗を仕込み杖で襲い、警察に出頭する。
「玄洋社の来島恒喜が大隈重信を襲って自害したあと、私の祖父山崎和三郎が高田早苗を襲ったのです。高田は大隈が早大の初代総長になったときの学長で、そのあと高田が三代目総長になりました。
高田は(第二次)大隈内閣で文部大臣に起用されたほどで、二人はいわゆる兄弟分でした。同じように玄洋社の来島恒喜と山崎和三郎も兄弟分でしたから、祖父さんは高田を襲ったのでしょう」
高田襲撃は明治維新後の動乱の事件であり、山崎和三郎は物騒なテロリストとして後世にその名を刻んだ。高田は大隈の率いる立憲改進党(のちの進歩党)の国会議員であった。だが、改進党は維新後に自由民権運動を唱えた自由党の板垣退助とたびたび対立していた。そこでこのような事件に発展したのであろう。
もとより自民党はまだ影も形もないが、自由党は今の自民党の源流といわれる。玄洋社の頭山が西郷や板垣に心服していたのは先に書いたとおりで、この頃の政党には明治維新や玄洋社の尊王、右翼思想も息づいていた。
1936年生まれの山崎はむろん、祖父たちの引き起こした事件についてあとから見聞きしただけにすぎない。その実、本人はのちに自民党という日本の政党政治の中核に座るようになる。明治の古い出来事もまた自民党をさかのぼるうえで不可欠な要素といえる。少なくとも山崎の目にはそう映っていると感じた。
右翼団体の玄洋社が石炭利権で潤う一方、山崎の母方の祖父山口家もまた繁栄した。炭鉱王だった山口慶八の邸宅は福岡市内の古小烏というところに所在し6000坪の敷地に建ち、延べ床面積が300坪もあった。
孫は大連生まれだが、拓という名の由来は「福岡県柳川市開村に着炭した日に生まれたこと」に由来するといい、両親とともに中国から引き揚げてきたあとはここで育っている。屋敷の母屋はのちに九州電力が買い取って高級料亭さながらの接待施設に使ってきたという。
山崎の実父である進は1908年8月に生まれ、東大経済学部に進んで炭鉱経営のあとを継いだ。そこから転じて経済学者となるのだが、山崎は実父の進について、右翼の和三郎とは真逆の思想の持ち主だったと振り返る。
「つまり私は玄洋社の資金源であった炭鉱屋のあとを継いだ両親のあいだに生まれたわけですが、父は左翼系でした。祖父が筑豊で飯塚炭鉱を経営し、父は地元の嘉穂中学に通って旧制一高を経て東大に入っています。
嘉穂中から一高、東大に行ったのは珍しい。父の嘉穂中時代の友人が元経団連副会長の花村仁八郎さんでした。父は東大経済学部で有澤廣巳教授のゼミに所属し、弟子になってマルクス・エンゲルスを学んだ口でした。それで(商社の東洋棉花を経て1936年4月に)南満洲鉄道に入社したのです。
マル経学生だから左翼運動をやって警察につかまったりしたので、有澤教授が満鉄に避難させたらしい。あの頃の満鉄調査部にはそうした左翼系の共産主義者学生が多く、父も官憲から免れるために逃げ込んだのでしょう。
そして父は満鉄調査部の大連支局から上海支局に転じて、戦後に引き揚げてきて炭鉱経営に加わったわけです。母方の杵島炭鉱や小城炭鉱、父方の飯塚炭鉱は合わせると麻生炭鉱よりずっと大きかった」
周知のように花村仁八郎も山崎進と同じ1908年の3月に福岡県飯塚市に生まれ、嘉穂中から山口高校(いずれも旧制)、東大経済学部に進んだ。
福岡少年院教官から戦中に企業の雇用問題を扱う重要産業協議会に入り、ここが終戦後の1946年8月に日本商工経済会や日本経済連盟会などを統合して経済団体連合会(経団連)となる。2002年5月に経団連に日本経営者団体連盟(日経連)が加わり、現在の形になる。
経団連会長が財界総理と異名をとり、自民党と密接につながってきたのは言うまでもない。なかでも花村は1954年の造船疑獄事件を機に、自民党に対する個別の企業献金を廃止し、団体献金に改めた〝功労者〟とされる。経団連では事務総長と副会長を兼務し、「財界総理」と称されるようになり、日本航空会長に招聘された財界人だ。
なお山崎の言った麻生炭鉱とは、飯塚にあった麻生太郎の実父である麻生太賀吉が経営した石炭鉱山であり、こちらも麻生コンツェルンの要となった。犬猿の仲とされる山崎と麻生のライバル関係は、こうした二人の生い立ちが影を落としているのかもしれない。
もっとも周知のように九州の石炭事業は1950年代半ば以降、斜陽産業となって炭鉱も次々と廃鉱の憂き目に遭う。すると山崎進は炭鉱経営を離れ、1955年に民間の日本生産性本部が設立されると参事になり、1960年1月には消費者教育室初代室長に就任した。
進は恩師の有澤とともに渡米し、生産性本部の経済学者として政府の経済政策にかかわっていく。経済界、労働界、学識者から構成される生産性本部はのちに公益財団法人に改組されるが、設立当初から政府と連携して終戦後の高度経済復興のために活動してきた。
そして進の息子の拓が政治を志して自民党入りした。山崎が自民党で存在感を示すようになったのも、こうした生い立ちと無縁ではあるまい。
保革が相対した55年体制の高度経済成長を経てバブル景気を経験した日本社会は目下、長い成熟期に入っているといわれる。そんな現在の国の形をつくった自民党政治は、田中角栄と中曽根康弘という二人の稀有な政治家抜きには語れない。
よくも悪くも今なお日本社会は田中や中曽根時代の政治を引きずっていると言い換えてもいい。中曽根派の自民党議員だった山崎は、自らの体験が今の政治状況に通じると次のように語った。
「私の父の一高東大時代の同級生には、橋本龍太郎さんの父親である橋本龍伍さんや齋藤邦吉さんもいました。二人とも非常に勉強ができ、1番、2番の成績を競っていたそうです。
齋藤邦吉さんは自民党幹事長になり、足が悪くて運動ができなかった橋本龍伍さんは厚生大臣を務めました。それで、息子の龍太郎さんも厚生大臣をやったんです。龍太郎さんが大臣のとき親父同士が同級生っていうことで、私を政務次官にしてくれました。
橋本龍太郎さんは私より一つ歳下ですけれど、1963年11月に26歳で初当選していますから、私が当選1回目のときはすでに5回生でした。私の初当選時、彼はボーイスカウト議員連盟の会長でした。お父さんがボーイスカウト運動を支援していて、息子が個人主義者にならないようにそこに入れたそうです。
で、私はボーイスカウト議連の事務局長になってくれと頼まれたので、それ以来私もボーイスカウトにかかわるようになりました。それから彼が自民党総裁になった1995年9月に私は政調会長になり、幹事長が加藤紘一。翌96年1月からスタートした橋本政権では3年間ずっと党役員のその顔ぶれは変わらなかった。それは父親同士の関係でもあったわけです」
冷戦外交と“戦後保守”の終幕
先述したように自民党は、頭山満の率いた玄洋社の流れを汲む保守右翼思想がその根っこにある。
第二次大戦末期に中国・上海の児玉機関で荒稼ぎした児玉誉士夫、辻嘉六という二人の黒幕が、日本自由党の結党資金を出したという有名な話もある。
児玉は頭山に私淑して書生となり、のちに自らの側近である太刀川恒夫を中曽根康弘事務所に送り込んだ。かたや辻は反東條英機内閣で干されていた鳩山一郎や三木武吉の後ろ盾として児玉とのパイプ役となった。二人は1955年の日本民主党と自由党の保守合同の自民党誕生にも尽力したといわれる。
自民党に右翼思想が通底しているのは間違いない。しかしそれは現代のタカ派思想とも異なるように感じる。山崎はそこについてどうとらえているか。
「今の自民党と昔の自民党の違いは、戦争経験者が党内にいるかどうかです。戦争体験者である田中角栄さんは『戦争体験者がいなくなったときが怖い』と言っていました。田中さんはどちらかといえば保守のなかでも左派なんです。中曽根さんと田中さんは当選同期で年齢も同じですけれど、中曽根さんは右翼思想の持ち主でした。
ただし、今の右翼とは違う。
たとえば高市政権で非核三原則の見直し問題が浮上しています。たしかに中曽根さんは日の丸を大切にし、『憲法改正の歌』をつくったナショナリストではあったけれど、終生変わらず原子力の平和利用は推進すべきだが、非核三原則は厳守すべきだとも言い続けてきました。
私はその中曽根さんの家来として、内閣の官房副長官もやったし、そばでそれを見てきました。 中曽根さんは東西の冷戦構造解消をずっと追い求めていた。日米首脳会談に何回か同席し、米国大統領のロナルド・レーガンに提唱している姿を見てきました。それだけでなく、崩壊前のソ連のミハイル・ゴルバチョフがコンスタンティン・チェルネンコのあとに書記長に就任したときも、冷戦構造解消の必要性を訴えてきた。中曽根さんは決して戦争主義者ではありませんでした」
もっとも中曽根には常に米国追従イメージが付きまとってきた。「ロン」「ヤス」と互いにファーストネームで呼び合う首脳外交は、現在のトランプと高市のあいだでも続いている。中曽根はそれでも米大統領と渡り合うことができたのか。
「レーガンはアジアの地政学的な事情をよくわかっていませんでした。韓国は中国やソ連と国交がなく、北朝鮮は日本やアメリカと国交がなかった時代です。中曽根さんは旧西ドイツでおこなわれた1985年のボン・サミットのとき『たすきがけ承認をしましょう』とレーガンに迫りました。
レーガンははじめその意味がよくわからなかったようですが、西側のわれわれが東側の北朝鮮と国交を結び、東側の中国やソ連が西側の韓国と国交を結ぶという提唱です。
中曽根さんの提唱を受けたレーガンは会議を中断し、同行したシュルツ国務長官とワインバーガー国防長官、リーガン財務長官などとともに別室に下がって、たすきがけ承認について30分ぐらい協議していました。で、結果的に認めようとなりました。
つまり当時の冷戦構造の象徴が朝鮮半島であり、東西ドイツのベルリンの壁でした。ベルリンの壁はNATO(北大西洋条約機構)の担当だから、NATOの盟主であるアメリカの方でやってくれ、その代わり朝鮮半島は日本の至近距離にあるから、日本が担当しようという話です。そうしてたすきがけ承認をレーガンと密約し、動くようになったのです」
それが1990年9月の自民党と社会党の「金丸訪朝」として実現する。自民党の金丸信が中国に働きかけ、平壌で北朝鮮国家主席の金日成と会談した。山崎はその金丸訪朝にいたるまでの秘話を明かす。
「たすきがけ承認は日米の密約でした。官房副長官だった私は、報道記者に対するブリーフィングをしなければならない立場でもありました。しかし、あまりに機密の話なので発表すると計画が壊れる恐れがある。だから、伏せるべきだとして捨ておきました。
その一方で中曽根さんは韓国大統領の全斗煥に連絡を入れていました。全斗煥もたすきがけ承認をOKし、1990年には韓国がソ連と、1992年には中国と国交正常化を果たしました。だから今度は日本が北朝鮮と国交正常化しなければならない。それで、金丸訪朝団を派遣したんです。あの訪朝、本当は中曽根さんが仕掛けてやったことなんです」
中曽根は1987年11月に竹下登を後継指名し、首相の座から降りる。そのあと竹下から宇野宗佑、海部俊樹と政権が目まぐるしく移るなか、中曽根は自民党内で影響力を保ってきたという。
しかし90年の金丸訪朝は「土下座外交」と批判を浴びた。金丸訪朝の裏では、88年に拉致被害者の石岡亨から欧州経由で送られた手紙が家族にもとに届き、家族が日本社会党委員長の土井たか子へ相談した。だが、彼女は事実上それを無視した。土井はこの年浮上したリクルート事件などでマドンナ旋風を巻き起こしたが、91年4月の統一地方選で惨敗し、田邊誠に委員長ポストを譲った経緯がある。山崎に聞いた。
「社会党の訪朝団には社会党の田邊誠副委員長も加わり、いっしょに行きました。土井たか子は金日成から拉致問題は存在しないと言われ、問題にしませんでした。だからあのときの訪朝では北朝鮮の拉致問題はまだ顕在化しておらず、わからなかったと言う以外にありません。
日朝会談で金日成は開口いちばん『あなたの先祖はわが国の出身だ』と金丸に切り出した。 向こうはそれを調べてたんでしょうか。そのあと田邊を外し金丸と金日成の二人きりで会食し、先祖は共通している、と意気投合した。あのときはそれでうまくいったけれど、その後、拉致問題が露見したわけです」
小泉純一郎訪朝団が北朝鮮総書記となった金正日のもとを訪ね、囁かれてきた日本人拉致という重大事件が判明したのは、金丸訪朝から12年も経った2002年9月のことだ。自民党副総裁の金丸と社会党委員長の田邊の二人は、文字どおり55年体制の時代の象徴でもあった。保革伯仲の対立といわれながら、実のところ双方が馴れ合ってきたにすぎない。
自民党はリクルート事件以降、政治とカネで揺れ動いた。竹下、宇野、海部と移り変わった内閣は、微妙な権力バランスで成り立っていたといえる。この間、最大派閥を率いた経世会竹下派の威勢の下、金丸が訪朝したのだが、もともと竹下政権を生んだのは中曽根であり、竹下と中曽根の二人は脱田中支配という共通の利害があった。
永田町で「風見鶏」と揶揄された中曽根康弘は、田中曽根内閣とも皮肉られた田中の傀儡政権であった。中曽根は田中後の自民党政治に大きな影をもたらす。(敬称略)
取材・文/森功

〈白バス暴走事故〉「部活は全て丸投げしてました」理事長の無責任発言は“事実”「顧問任せは全国どこの高校でも同じです」部活強豪校顧問にのしかかるプレッシャーと構造的問題

〈《白バス暴走事故》「オレの指導を受ければ早稲田に入れてやる」と豪語していた“元名監督”のバス運転手は高級クラブに入り浸り…バス会社と学校は異なる主張で無責任の連鎖〉から続く
私立北越高校男子ソフトテニス部の生徒1人が死亡した6日の磐越道のマイクロバス事故。取材を通して浮かび上がってきたのは、部活の安全対策に学校が関与せず顧問任せにしていた実態だ。しかし部活のためバスを運転していたという元高校教諭は、この危険な状況は「全国の学校で同じ状況ではないか」と話し、こうした問題を生み出す構造があるというのだ。
≪画像多数≫酒好き、スーツ姿の若山容疑者が輝いていた頃の写真、離婚して最近は覇気がなくなっていたという
「顧問任せは私学、公立を問わず全国どこでも起きています」
事故は6日、無職、若山哲夫容疑者(68)=福島県警が過失運転致死傷容疑で逮捕=が運転するマイクロバスが高速道の道路わきに突っ込み生徒1人が死亡した。
レンタカーのバスを借り出し、若山容疑者を運転席に座らせた蒲原鉄道(新潟県五泉市)の営業担当、金子賢二氏は、男子ソフトテニス部の寺尾宏治顧問から「費用を安く抑えるためレンタカーと外部運転手の手配を頼まれた」と主張。
これに対して寺尾顧問は「そんな依頼はしていない」と反論している。若山容疑者が交通事故の常習者だったことも発覚し、なぜそんな人物に運転が任されたかの経緯もわかっていない。
特に注目すべきは、北越高校の幹部・経営陣が安全対策は顧問に任せていたと主張する点だ。
灰野正宏校長は会見で「安全に関わる契約や実際の運行に関することを部活動任せにして、学校としてしっかりと管理する体制に重大な不備があった」と発言。
学校運営法人の和田晋弥理事長は「部活は全て(顧問に)丸投げ状態だった」とまで言った。
責任逃れ目的にも聞こえるが、部活動運営の実態は恐ろしいことにこの言葉通りだと指摘する人がいる。
石川県で県立高校教諭を約20年間務め、今は別の教育機関で教壇に立つAさんだ。約10年前、女子ソフトテニス部の「副顧問」を務めていた際に起きた危険な経験について語る。
「主顧問が知り合いとの間で組んだ練習試合の遠征で、金沢から約450キロ離れた香川県東かがわ市まで18人の生徒を乗せた学校のバスを1人で運転したことがあります。
金曜日の午前8時20分から通常の授業を夕方まで行ない、そのまま夕方に学校を出発し、未明に到着する強行軍でした。
出発当日、病床にいた私の母が危篤になったとの知らせを受け、私は行けないと申し出たのですが、主顧問は『ホテルをキャンセルできないんです』と聞く耳を持たず、私がひとり心身ともに疲弊しきった体で運転しました」(Aさん)
石川県は部活動の規定で深夜の運転や走行距離が1人で1日400キロを超えて運転することは認めていないが、当時の校長はこうした日程を把握しながら遠征に許可を出していた。
「このような顧問任せは私立、公立を問わず全国どこでも起きています。しっかりと安全を管理する者がいないんです。教育委員会は学校長に、学校長は顧問に任せている構造的な問題があるのです」とAさんは話す。
「遠征の付き添いがなぜ寺尾さん1人だけだったのか」
背景にあるのが部活動の位置づけだ。文部科学省は現行の高校学習指導要領で部活動を「生徒の自主的,自発的な参加により行われる」と記載。スポーツ庁は「教師による献身的な勤務」で成り立っていると記載している。
部活が正規の教育課程に置かれず“生徒の自主活動を顧問が献身的に支えている”ものとみなされているため「管理職は完全に教員任せにするのです」と指摘するAさんが続ける。
「じゃあ教員が喜んでやってるというのかと違います。部活に熱意を持たない先生もやらざるを得ない状況に追い込まれます。
石川県では毎年4月に職員会議で担当する部活の“割り振り”が発表されていました」(Aさん)
生徒や親からは他校と練習試合をしたいという声も出る。
「練習試合の要求は顧問にはプレッシャーになります。県内の高校だと大会でよく当たるので県外に出ることが多かったです。
そうした練習試合は顧問が企画をして考えたものだというのが学校の考え方で、遠征にかかる費用の会計も高校とは完全に分かれて部内で独立して行なわれました」(Aさん)
強豪校の部活になると顧問の負担も増える。北越高校ソフトテニス部は県内の強豪で、スポーツでの大学進学が視野に入る選手も指導した寺尾顧問は熱心で知られた。
知人は「彼は毎日朝6時半に家を出て帰りは夜10時だと言っていました。部に入ってくる子も親も強くなりたいという思いは強く、それに応えるんだと土日も8時間は練習をしていました」と話す。
Aさんはいう。
「強豪校の先生は肉体的にもきついし勝ち続けないといけないっていうプレッシャーに押しつぶされそうになってて大変です。
そして今回の事故で、顧問が生徒と一緒にバスに乗らなかったのはあり得ないです。どこでも顧問は2人以上いるはずで、報道のように遠征の付き添いがなぜ寺尾さん1人だけだったのか。頑張ってる顧問だけが追い込まれる構造もあると思いますね。
その結果、教員は一緒に(バスに)帯同して責任を持たないといけないという基本が抜けるという信じられないことになっていました」
と話すのだ。
実はAさんは香川県まで危険な運転をさせられたことについて県知事を相手取った少額の慰謝料を求める訴訟を起こしていた。金沢地裁は校長らの安全配慮義務違反を認めなかったが、疲弊した状態での長距離運転の事実は認めている。
「こういう状態はおかしいとわかってほしくて訴えました。『いつか事故が起きますよ』と裁判官に陳述もしました」(Aさん)
磐越道の事故は顧問がハンドルを握ったバスではなく、顧問として危険な運転をしたAさんのケースとは異なるが両者の根っこは同じだとみるAさんに、では、どうすれば問題は解決するのか聞いた。
「生徒をしっかり守るためにはリーダーシップを誰かがとらなければなりません。教員の運転でもバス会社への発注でも、しっかりしたガイドラインをつくってそれを順守させるよう監督する。そしてできる限り貸し切りバスのプロの運転に任せるようにする。
それができるのは都道府県の教育委員会しかありません。それによって過剰競争が生む無理な遠征も減らすことができ、教員自身も守ることができると思います」
部活動の成績は高校の知名度を上げ、入学を志願する生徒を集める大きな武器になっている。学校がその“果実”を得ながらリスクを顧問だけに押し付けてきたこれまでの構造は、異常というしかない。
※「集英社オンライン」では、今回の事故にまつわる情報を募集しています。下記のメールアドレスかX(旧Twitter)まで情報をお寄せください。 メールアドレス: [email protected] X(旧Twitter) @shuon_news
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班

「愛子天皇への道は閉ざされつつある」皇族数確保の“小手先”議論に専門家が警鐘…旧宮家“養子案”に高まる疑問

5月12日、「令和8年 全国赤十字大会」が開催され、雅子さまや、紀子さまなどの妃殿下たちが明治神宮に集われた。
皇室典範改正の議論は愛子さまの将来に直結する
「本大会は名誉総裁の雅子さまが、医療で大きな実績を残した方へ記章を授与されました。雅子さまは終始、笑顔を絶やすことなく、受章者に優しくお声をかけておられました」(皇室担当記者、以下同)
柔らかい表情を浮かべる一方で、その胸中には、なかなか方向性が定まらない“愛子さまの今後”について複雑な思いを抱えていらっしゃるのかもしれない─。
「5月15日、“皇族数確保”をテーマに与野党が集まる全体会議が再開しました。会議では『女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持する』(1案)、『旧宮家の男系男子を養子に迎える』(2案)の2つの案が話し合われています。まさに、愛娘の将来に直結する議論が行われているのです」
協議自体は4月15日に開始されていたが、中道改革連合の党内見解がまとまらず、1か月延期されていた。
「5月7日に中道が2案を『容認』する方針を示すと、SNS上には立憲民主党や中道改革連合の元議員による批判の投稿が相次ぎました」
こうした背景を受け、12日の執行役員会での報告では「認めることも考えられる」という点を「将来的には制度化する可能性」へと変更した。
「党内では反発の声も少なくないようです。党の検討本部で本部長を務める笠浩史氏は“この問題は全議員が全て賛成するという解はない”と報道陣に語りました。一方、悠仁さままでの皇位継承順位を維持しつつも、将来の女性天皇も引き続き議論することを確認した姿勢や、女性皇族の議論を優先しつつ、養子案には慎重な姿勢を明示した点には、バランスが取れていると評価する声もあります」(全国紙社会部記者、以下同)
雅子さまは天皇陛下が選ばれたお方
注目された15日の全体会議では、早急に皇室典範の改正を目指す方針が明らかに。
「森英介衆院議長は『立法府の総意』をまとめ、今国会会期中に皇室典範の改正を目指す考えを示しました。現在の国会中となれば、あと残り約2か月で改正案の作成までこぎつけることになります。これまで長年議論が停滞していたとは思えないスピード感での決着となりそうです」
中道の見解で注目されている2案について、象徴天皇制に詳しい名古屋大学大学院人文学研究科の河西秀哉教授は現実性のなさをこう指摘する。
「正直、国民が受け入れるのは難しいというのが私の考えです。象徴天皇制というのはその方の人柄が大切です。幼少期から成長を見守ってきたからこそ、国民の支持を得てきたのです。これまで一般人だった人が過去にどのような活動をされていたかもわからない状況では、戸惑いが生じるでしょう」
一方、美智子さまや雅子さまは、ご結婚により、民間から皇室に入られたが、人々から広く受け入れられてきた。
「例えば、雅子さまの場合は、天皇陛下(当時は皇太子)が選ばれたお方です。“恋愛結婚”ということもあり、日本中は祝福ムードに包まれました。しかし、養子案については、血筋があるとはいえ、陛下が選んだということではありません。そのような方に、年間に数千万から数億円の税金が費やされるということに、国民の理解が追いつかないのは当然のことです」(河西教授)
それほどまでに差し迫った「皇族数確保」の問題。一方で、皇位継承については「悠仁さままでは揺るがせない」と、今回の議論に含まない姿勢を一貫している。この政府の姿勢に疑問を抱くのは、皇室の制度史と文化史に詳しい京都産業大学の所功名誉教授だ。
天皇制そのものの必要性を問う議論が生まれる可能性も
「本来、この協議は平成29年の『天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議』に基づいているはずです。その決議には『安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、皇族方の御年齢からしても先延ばしすることはできない重要な課題である』と明記されていることを忘れてはなりません」(所名誉教授、以下同)
約10年前に危機感を持つように示された問題が事実上、棚上げされているのが現状。
「ところが、その後の政府では、安定的な皇位継承と女性宮家の創設という大切な命題を棚上げして、皇族数の確保という“小手先の対応策”に矮小化しています。そうであるならば、せめて1案の皇族女子を当主とする宮家を創設し、その夫も子も皇族の身分にして皇族数の確保をはかり、皇族としての公務をしていただけるようにすることが急務だと思います」
今回の中道の見解では、他党派と同様に「悠仁さままでの継承を揺るがせない」という記述が明記された。
「立憲民主党などは、これまで女性天皇の容認を掲げてきたこともあり、愛子さまが天皇になることを望む国民の受け皿となってきました。しかし、今回の明記により、その可能性が薄まったといえます」(前出・皇室担当記者、以下同)
各党の意見がまとまる中でも、愛子さまの即位を望む国民の声は根強い。
「今年3月の毎日新聞の世論調査では女性天皇に賛成する声は61%に上り、昨年12月の読売新聞でも69%という高い賛成率を得ています。週刊誌やネットニュースでも連日“愛子天皇”をテーマにした特集が組まれるなど、国民の関心は非常に高いのです」
しかし、15日の会議では、こうした国民の声が反映されることはなかった。
「今回の中道の見解により、愛子さまが天皇になる道は閉ざされつつあるといえます。国民の意見との乖離は無視できない問題です。国会議員が皇室の将来を真剣に考えていないのではないか、と思われても仕方ありません。こうした不信感から、天皇制そのものの必要性を問う議論が生まれる可能性も十分に考えられます」(河西教授)
国民が望む皇室の姿を、政府は実現できるのだろうか。
所 功 京都産業大学名誉教授。日本法制史・皇族文化史などを専門とし、近著には『天皇の歴史と法制を見直す』『「天皇学」入門ゼミナール』(共に藤原書店)など
河西秀哉 名古屋大学大学院人文学研究科教授。象徴天皇制を専門とし、『近代天皇制から象徴天皇制へ―「象徴」への道程』など著書多数

北海道新幹線の札幌延伸巡り談合の疑い、開業時期のさらなる遅れを懸念…沿線自治体に募る不信感「すでに少なくない費用を負担している」

北海道新幹線の札幌延伸工事の入札をめぐり、談合疑惑が浮上した。公正取引委員会が19日、工事に関わった建設会社9社などに立ち入り検査に入ったことを受け、沿線の自治体や関係者からは、開業時期のさらなる遅れなどの影響を懸念する声が相次いだ。
公取委は軌道工事の入札で談合した疑いがあるとして、独占禁止法違反(不当な取引制限)容疑で関係先に立ち入り検査を行った。道内では、JR北海道グループで線路の工事や保守を担う「北海道軌道施設工業」(札幌市)のほか、工事主体の独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」の札幌市内にある北海道新幹線建設局の事務所も対象となった。
北海道軌道施設工業は「立ち入り検査を受けた事実を真摯(しんし)に受け止める」とのコメントを発表。JR北広報部は「ご心配をおかけし申し訳ない。調査に全面協力するよう指示した」とし、機構の北海道新幹線建設局の担当者は取材に、「必要な調査に全面的に協力している」とした。
北海道新幹線の新函館北斗―札幌間の延伸工事は当初の予定より遅れている。
2012年の着工後、政府は15年、開業時期を30年度としていた。しかし、札樽、羊蹄、渡島の3トンネルで工事が難航し、国土交通省の有識者会議は25年3月、開業は38年度末頃になるとの見解を示した。
機構によると、今月1日時点でトンネルの掘削率は92%だが、札幌市と小樽市を結ぶトンネルの一部工区では4月に天井の崩落があり、工事が中断している。線路は敷設場所の基礎を設置する工事が行われているものの、全体の16%にとどまり、敷設は道南でわずかに進んでいるのみだ。
札幌市の秋元克広市長は19日、「事実とすれば、今後の工事への影響が懸念される。一刻も早く事実関係が究明されるよう求める」とコメントを発表した。
上京中の鈴木知事は19日、首相官邸で報道陣の取材に応じた。鈴木知事は「札幌延伸は道民の悲願。極めて重要な取り組みに影響を与えることがないよう、しっかり整理する必要がある」と話した。
新駅の建設が予定されている沿線の自治体も、不信感を募らせる。
長万部町の担当者は「すでに少なくない費用を負担している。高止まりする工事費を自治体や道民が負担していることを、関係企業などは理解しているのか」と語気を強める。八雲町の担当者も「もし不正によって(工費を)過剰に負担しているのなら、抗議をする必要もあるかもしれない」と話す。
札幌開業に期待をかける経済界も、工事への影響に懸念を示す。札幌商工会議所の役員の一人は「大雪で飛行機が欠航した際の代替手段としても、新幹線は重要だ。これ以上遅れることがないようにしてほしい」と求めた。

【困惑】「夜逃げ同然」院内はもぬけの殻 歯科医院が突然閉院 100万円超を支払い済みの患者も…返金はどうなる?

高額な費用がかかる歯の治療を巡り、東京都内の歯科医院が突然閉院して音信不通になっているトラブルが発生し、患者たちからは「治療を継続できなくなってしまった」「お金を返してほしい」と被害を訴える声が上がっています。取材班が患者たちとともに歯科医院を訪れると、そこには驚きの光景が広がっていました。
トラブルの渦中にある「富岡矯正歯科」は、JR上野駅のすぐ近くにあります。1991年に開業し、院長は日本矯正歯科学会の認定医資格を取得し、歯科医師向けのセミナーも開催していたとみられます。『Happy with a Smile. 全身の健康を考えた優しい治療』といった独自の技術を掲げ、患者に寄り添う診療を売りにしていました。
この歯科医院に通っていた30代の女性は、治療費として約63万円を前払いし、その後の診療費などを含めて合計約100万円を支払ってきました。
(30代の患者)
「最初の治療は、メジャーなブラケット(ワイヤ)の一般的な治療だった。1年ぐらいしたら、先生独自の方法に急に変わった。高さの調節のために、樹脂みたいなものを着けられました」
セメントを活用した独自の治療を受けていたといいます。一般的には、2~3年ほどで完了することが多い矯正治療ですが、女性は12年間治療を続けても満足する結果は得られませんでした。
(30代の患者)
「先生に『いつ終わるのか』と聞いたら『もうちょっとだから、最後まで責任を持って治しますから』って…」
すでに約100万円を支払っていることもあり、医師の言葉を信じて治療を続けていましたが2026年3月、歯科医院が突然音信不通となってしまいました。
2026年3月、音信不通になった時期の歯科医院の入り口には次のような貼り紙が掲示されていました。
『現在、院長の体調が大変悪く、診療できない状況です』
治療途中にもかかわらず、実質的に閉院状態となっていました。
Q. 現在、治療は完了していますか?
(30代の患者)
「まだ途中です。(先生独自の)樹脂が(歯に)着いていたりして、今もまだ残っています。これからどうしたらいいんだろう…」
患者たちの困惑の声は後を絶ちません。
アルバイト代や祖父母の支援で約130万円の治療費を支払っていた20代の女性も「4年間通院していて、治療が未完了のまま医院が閉鎖してしまったので、自分の歯が、どこまで治療が完了しているかわからないので不安が大きい」と語ります。
この女性は2025年秋ごろ、院長に異変を感じていたといいます。
(20代の患者)
「ちょっと院長の手元がおぼつかない様子で、器具の位置が定まらず、何度も違う歯に当たることもありました。歩きづらそうではあったと思います」
2025年10月にも、院長の体調不良を理由に診療がキャンセルされたこともあったといいます。
ある夫婦は高校生の娘が小学生のころから8年通院しており、歯並びや生え替わりに悩んでいたので、治療を始めました。娘のために治療費として約86万円をすでに支払いましたが2026年に入ってから、歯科医院と連絡が取れなくなりました。
(娘が患者)
「入り口に、手紙をポストに入れてくださいと書かれていたので、娘の歯の状態も心配でポストに投函しましたが、全く返信いただけていません」
歯科医院はいつ再開するのか、今後の治療はどうなるのか、多くの不安にさいなまれる中、改めて歯科医院に電話してみるも、電話は通じません。
夫婦が歯科医院に向かうと…。
(娘が患者)
「何もありませんでした…。解体が終わってて、壁紙もなかったです」
これまで治療用の椅子などが置かれていた院内が、もぬけの殻になっていました。歯科医院の形跡もなくなっています。
(娘が患者)
「もう夜逃げ同然ですよね、これはちょっと許せないです。本当にこれからどうしようっていう気持ちでいっぱいですね。今後の治療をどうしたらいいのか…」
2026年4月、多数の患者から相談を受けた台東区保健所が医療法に基づき立ち入り調査を行ったところ、医療機器やカルテがなくなっており、廃業状態であることが確認されました。5月時点でも、区は富岡矯正歯科と連絡が取れていないといいます。
富岡矯正歯科をめぐる相談は増え続けており、2026年5月8日午前時点で48件に上っています。
Q.払ったお金は返ってくるのでしょうか?
(亀井正貴弁護士)
「履行遅滞、もしくは履行不能という債務不履行責任があるので、損害賠償請求をすることはできます。問題はそれが回収できるかどうかですが、医療法人としての資産があるかどうか、個人としての資産があるかどうかということによります。破産手続きされてしまうと、税金や社会保険などに持っていかれてしまい、最後に残ったものを債権額に応じて案分比例することになります」
(「情報ライブ ミヤネ屋」2026年5月8日放送)

関東は20日も季節外れの暑さ…天気は下り坂で「夜には雨」も

関東地方は20日(水)も強い日差しが照りつけて、30℃以上の真夏日が続出しそうです。ただ、午後になると次第に雲が広がる見込みで、夜は所々で雨が降り出すでしょう。熱中症に注意するとともに、お帰りが遅くなる方は傘を忘れずにお持ちください。
関東地方は、20日(水)も朝から広く晴れて強い日差しが照りつけています。朝の最低気温は平年と比べ3℃~6℃ほど高かった所が多く、前橋で18.4℃、東京都心で19.3℃、横浜で20.6℃、千葉で21.9℃など、今シーズンもっとも暖かな朝となった所もありました。
このあとも、日差しとともに気温はぐんぐん上昇し、最高気温は、前橋や熊谷で32℃、宇都宮で31℃、水戸で30℃など真夏日が予想されているほか、東京都心や横浜でも29℃まで気温が上がる予想です。
5月とは思えない暑さが続いていますので、意識してこまめに水分を補給するなど、熱中症にご注意ください。
昼ごろにかけては日が差しますが、午後は関東でも次第に雲が広がり、時間とともに厚みを増すでしょう。夜には所々で雨が降り出す見込みで、午後9時以降は東京都心でも雨が降り出す可能性があります。お帰りが遅くなる方は傘を忘れずにお持ちください。

郵便物回収委託の入札で便宜図り金品受領か 容疑で日本郵便元社員を逮捕 贈賄側業者も

郵便物回収の委託契約の入札などに関して便宜を図る見返りに、受注業者から金品を受け取ったとして、警視庁捜査2課が日本郵便株式会社法違反(加重収賄・収賄)の疑いで、日本郵便東京支社の元社員、米田伸之容疑者(37)=東京都足立区=を逮捕したことが20日、捜査関係者への取材で分かった。
受注業者の運送会社「ハルキエクスプレス」代表、西村光一容疑者(56)=東京都北区=と、会社役員、橋本英孝容疑者(64)=堺市=も同法違反(贈賄)の疑いで逮捕した。
捜査関係者によると、米田容疑者は令和6年10月ごろ~7年5月ごろ、郵便物の取り集め委託契約の入札で便宜を図るなどした見返りに、現金やテーマパークの宿泊代金など計約120万円相当の金品を受け取った疑いが持たれている。
米田容疑者は当時、委託契約の担当を務めていた。ハルキ社が業務を受注しており、橋本容疑者は同社の経理担当だったという。
日本郵便の業務や罰則を定める日本郵便株式会社法は、職員が賄賂を受け取るなどして不正な行為をした場合は5年以下の拘禁刑を、贈賄側には3年以下の拘禁刑または100万円以下の罰金を科すと規定している。