想像力とは知識である、とかねてより思っている。知識がないと、想像することができない。だから想像力を養うのなら、まずはいろいろなことを知ることからはじめなくてはならない。
貧困家庭の抱えている複雑な問題、機能不全家族や虐待などの問題について取材したり自分の経験を執筆したりすると、必ず「作り話」や「創作」だと決めつけて、問題に向き合おうとせず「そんな人がいるわけない」と、困窮者の存在をなかったことにしようとする人々が一定数いる。
「いつでも逃げられたはず」といった典型的な自己責任論
せっかく実情を広く周知して問題意識を共有し、課題の解決に向けて活動を続けていても、そうした人々の「無自覚な無知」が、困窮者や被害者の声をかき消してしまう。実在する社会的格差や就労問題、男女格差や家庭内暴力など、社会や組織で権威勾配の下の方に属する人たちを「見たくないもの」と無意識に、または悪意を持って無視をし、考えることをやめ、最終的には「自己責任」と排除すること。それは至って簡単なことだから、これまで自己責任論が世の中を跋扈していた。
例えば、私は貧困家庭出身で、家庭内で母親と兄から暴力を受けながら育った。毎日、いつ殴られるかわからない生活を15年以上も続け、重度のトラウマによる障害を発症させつつも就職して実家から逃げ出した。「普通の人」と同じ生活を送ることができないので、今も治療を続けながら生きている。そんな私に向けられたのは「大人になったのなら自己責任」「いつでも逃げられたはず」といった典型的な自己責任論や、「そんな家庭があるわけがない、周りでも聞いたことがない」というような、無知による“存在否定”だった。
しかしここ数年は、そうした社会の醜悪な構造そのものが、いよいよメッキが剥がれ落ちて露出しつつあるように思える。
彼ら彼女らは、テレビのニュースで流れる悲惨な虐待事件には本気で怒り、悲しみ、涙を流したりする。かと思えば駅の構内や路上でぐったりと寝転んでいるホームレスを避けて歩き、子ども食堂で食事にありつく少年少女のドキュメンタリーを観て、心を痛めたりもする。
だから、もちろん彼ら彼女らは「虐待」の存在も、「貧困」の存在も知っている。なのに、それが“現実味”を帯び始めると途端に、嘘くさく、理解できないものに思えてしまうのだろう。
フィクションに勝てるエピソードがなければ…
おそらく彼ら彼女らがイメージする「虐待」や「貧困」は、ごくごく限られた形をしていて、自分の思う「かわいそうな人像」に当てはまらない人(例:子供の頃に虐待されていたけれど、幸い壮絶な死を迎えるわけでもなく、今は“普通”に生活している人、貧困家庭に生まれたがボロボロの衣服を着ていたり飢餓状態にあるわけではない人)たちのことは、そもそも知らないというか知ろうともしていないし、共感もできないし、「なんか認めたくない」という気持ちがあるのかもしれない。
以前、自分の体験を綴ったエッセイに寄せられたコメントに、思わず笑ってしまったことがある。
「この人とおしん(※)、どっちがかわいそうなの? おしんよりかわいそうじゃなければ、まだいいじゃん」
※『おしん』は、1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日まで放送されていたNHK連続テレビ小説第31作。8月15日から8月20日までの6日間は『もうひとりのおしん』放送、ならびに12月29日から翌年1月7日までは年末年始特別編成につき中断、NHKの連続テレビ小説では『鳩子の海』以来の1年間放送となった。全297話。NHKテレビ放送開始30周年記念作品(『Wikipedia』より)。
どうやら『おしん』(フィクション)に勝てるエピソードがなければ、まあまあひどい虐待や貧困も「まだマシじゃん」で済まされる可能性があるらしいということを、このとき初めて知った。
多分こういう人たちの頭の中には「理想的な弱者像」みたいなものがあって、それはおそらく、どんなにつらくても声を上げず、健気に耐え忍ぶように「本当につらくて困っている人は声を上げない」みたいな美談的解釈なのだろうし、実際「自分がイメージする弱者」の理想像から離れている人間が声を上げていることを「なんか気に入らない」と思う人たちは決して少なくない。だからこそ、気に入らない存在が目に入った途端に「嘘だ」「作り話ならもっと現実味のあるものにしろ」というような言葉が真っ先に出てくるのだ。美談としてエンタメ的に消費できないものは、事実だと認めない。なんてさもしいのだろう。
「ホームレスに配られる弁当が豪華すぎる」という非難
以前、インタビューか何かで「食糧支援としてホームレスの人たちに配られているお弁当の内容が豪華すぎる、という批判が相次いでいる件について、どうお考えですか」と聞かれたことがある。一瞬意味がわからず、「ホームレスの人が豪華な食事を摂ることの何が悪いんですか?」と答えたのだけれど、記者の人によれば、どうやら「働かずに食糧支援に並んで飯を食っているような連中に無駄な金を遣い、甘やかすのはいかがなものか」といった批判が一部で過熱していたらしい。
要するに「働かない」「国に貢献していない人間が」、無償で温かく、栄養満点のハンバーグやとんかつ弁当を口にして満腹になり、「努力もせず」「のうのうと生きている」のが死ぬほど気にくわないのだろう。こうした食糧支援のほとんどは民間の団体によるものであり、寄付金などが財源となるため、別に彼ら彼女らに良い食事が提供されようがされまいが我々の財布を圧迫するものでもないし、何か迷惑がかかるわけでもない。
生活に困窮している人たちのほとんどは好きで働かずに生きているわけでもなければ、職を選んだせいでホームレスになったわけでもない。何らかの事情があって就職できないか、そもそも働ける状態ではないのだ。
批判者たちが本当にホームレスの人たちを「国に貢献させたい」と思っているのであれば、豪華な弁当を叩くのはお門違いも良いところであり、ホームレスになるほど困窮してしまう前に頼れるはずだった生活保護制度や生活再建相談窓口などの存在の周知など、既存のセーフティネットが当事者に届けられていない現状(行政の窓口で生活保護を申請させず、違法に相談者を追い返す「水際作戦」が横行している現状も含む)について議論すべきだろう。ホームレス本人を叩いても意味がないことなど、誰の目にも明らかなはずだ。
本当は、国に貢献しているかどうかなんて、ただのこじつけではないだろうか。自分は毎日ストレスを溜めながらあくせく働いて、税金を払って自腹で衣食住を賄わなければならないのに。本当は、それが本音なんじゃないだろうか。
自分でさえも、自分の苦しみに気が付いてあげられない
みんながんばっているから、弱音を吐いてはいけない。子供の頃から「人に迷惑をかけずに生きなさい」と教わってきた。本当に困ったとき、助けを求める方法を誰からも教えてもらえなかった。困窮していることを誰にも言えない。言えば、一体周囲からどんな目が自分に向けられるかわかっているから。
不健全な社会では「自分が今苦しんでいる」という「状態」そのものですら、誰からも肯定も、承認もされない。だから自分でさえも、自分の苦しみに気が付いてあげられない。皆が自分自身に「甘えるな」と鞭を打ちながら、毎日を生きることに必死だ。
INFORMATION
【全国の自立相談支援機関】 https://www.mhlw.go.jp/content/000614516.pdf
お金、仕事、住宅など生活に関する困りごとを相談できる公的な窓口一覧です。お悩みの場合はひとりで抱え込まず、お近くの窓口にぜひお問い合わせを。
(吉川 ばんび)