新型コロナウイルス「オミクロン株」の急拡大を受け、全国では中高生の修学旅行の中止など、各種行事の取りやめや縮小開催が相次いでいる。
それを受けて、若者たちがいまもっとも活発に利用してコミュニケーションをとっているSNSである「TikTok」では、まさしく「阿鼻叫喚」としか言いようがない光景が広がっている。修学旅行の縮小、延期、旅程変更を我慢した末につきつけられた「中止」の二文字――泣き崩れたり、怒りをあらわにしたりする中高生の姿がそこかしこに映し出されていた。
かれらの心痛は想像に余りある。現時点でも数多くの投稿があり、毎日のように追加されている。本来ならばここで動画を埋め込み、若者たちの姿を読者の皆さんに直接ご紹介したいところだ。しかしかれらが悲しみの涙を流す姿を不特定多数の見るメディアでことわりなく公開するのはしのびない。気になる人はご自身でTikTokのアカウントを取得して「修学旅行中止」などのキーワードで探してみるとよいだろう。いや、この機会に、ぜひそうしてもらいたい。
TikTokはもっぱら中高生が活発に利用しており、中高年層がTwitterやFacebookを活用するように、ある種のコミュニケーションツールとして利用している。大人世代の多くはアカウントを持ってすらいないので、TikTokにて現在進行形で拡散している若者たちの悲痛な声を目にする機会がない。
私は若者たちがTikTokで悲嘆の声をあげていることについて、ツイッターで言及した。その報告は大きな驚きをもって迎えられた。若者たちの悲しみに心を寄せる同情的な言及も多くみられた一方、どこか他人事、もっといえば冷淡ともいえる反応も少なくはなかった。
TikTokで展開される当事者たちの訴えに対して、Twitterではまるで異なる意見が噴出する様子を見るに、ひとつのSNSだけを通して「世の中の空気」をわかったつもりになることが、いかに危険な認知的偏りを生むのか、改めて思い知らされた。
実社会ではいまもなお「なにはともあれ自粛して感染を抑制することこそが最善の策」という社会的合意が――さすがに自粛が一切のデメリットもない絶対の正解であるとする見方にはわずかずつ陰りが見えつつあるものの――いまだ支配的である。そのため、若者が「修学旅行に行きたい」と訴えることそれ自体を(炎上してしまう)リスクに感じて黙ってしまうのも無理はない。選挙権もなければ、世に自らの情況を大々的に訴えるすべもないかれらは、TikTokという同世代がアクティブに利用する空間でせいぜいお互いの傷を慰め合うことしかできない。
私はこれまで、さまざまなメディアを通して「新しい生活様式」に協力だった若者たちについて、肯定的に述べていた。
とりわけワクチン接種に対しても積極的だったことについて重点を置いた。というのも、若者たちにとって、新型コロナワクチンを接種するのは(統計的に見ればかれらが新型コロナウイルス感染によって死亡するリスクはほぼ皆無であるため)自分のためではなく「社会貢献」「社会的連帯」の名目であることが明白だったからだ。
私は当初「ワクチン接種に若者は非協力的になるのではないか」とも予想していた。責めるつもりはなく、若年層での強い副反応から、非協力的になったとしてもそれは無理もないことだと考えていた。だが実際はそうではなく、かれらは自らすすんで接種した。驚くべき献身だと私はかれらに敬意を抱いた。
しかしながら、思うに若者側からすれば、ワクチンを打つことは「社会貢献」であった以上に、大人がつくった社会とのある種の「社会的な取引」のようなものだっただろう。ようするに、「ワクチンを打てば個人的な生活を正常化させてもかまわない」という譲歩を大人たちから得るための「落としどころ」と期待したのだ。
大人の側からすれば「そんな取引を決めた覚えはない」と言ってしまえばそれまでだ。しかし当の若者たちからすれば、ワクチン接種は「頼むからこれで手打ちにしてくれ」というメッセージが込められた、最後の献身だったのである。
だがその献身は顧みられなかった。2月に入り、修学旅行をはじめとする各種行事の縮小・中止が次々と通告され、若者たちは「裏切られた」ことに憮然としている。大人たちのつくった社会は、自分たちが若者と知らず知らずのうちに約束をして、そしてその約束を知らず知らずのうちに反故にしてしまったことに、まったく気づいていなかった。
もっとも「ワクチンを打つから、その引き換えに、自分たちに自由を返してくれ」というのは、若者が一方的にとりつけた身勝手な希望かもしれない。けれども、かれらがなぜ(本来なら自分たちにとってはそれほどメリットがないどころか、大きな副反応が出てしまうことがわかりきっていたはずの)ワクチン接種にも、あるいは「新しい生活様式」にも大多数が協力的だったのか。その真意をくみ取れなかったことはたしかだ。それこそ「分断」と呼ぶほかない。
かれらはウイルスを怖がっていたのではなくて、二度と戻らない自分たちの青春を失いたくなかったからこそ、社会に対して犠牲を払ったのだ。これだけ犠牲を払えば、きっと大人たちはわかってくれると期待して。
自分たちの献身によって社会がいきなり元通りになる保証などどこにもないことは、若者たちも十分にわかっていた。一か八かの賭けに近かったかもしれない。けれどもかれらは恩着せがましく「これだけやったんだからもういいだろ! 自分たちを解放しろ!」などと言ったりもしなかった。ただ大人たちが「ゆるしてくれる」のを期待していた。かれらには投票権すらない。社会的な決定を下す権力が少しもなかったのだ。
その祈りは届かなかった。泣いたり、怒ったり、絶望したりするのも無理はない。
コロナウイルスが刻み付けてしまった世代間の分断に、いま世間の大人たちのほとんどが気づいていない。大人たちが気づいていないからといって、それが存在しなくなったわけでも、今後消えてなくなるわけでもない。若者たちは「自分たちが裏切られた」という感覚を持って生きていくことになる。分断はたしかに横たわっている。しかも深く広い。
なぜいま20代の若者を中心として、仲間内だけを信頼して生活の確立を目指すような、「マイクロ共同体主義」的な価値観が急速に広がっているのか。それは私たち大人の側が、かれらの声なき声に耳を貸さなかったからだ。大人たちから犠牲を強いられ、感謝もされず、ついには「感染拡大の立役者」のような扱いすらも受けたかれらは、社会に対する基本的信頼感を失っている。
いわゆる「コロナ禍」と呼ばれる時期において、大人たちの世界はあまりにも「若者のことを考えていません」というメッセージをあけすけに発信しすぎた。若者がそのことに気づかなかったわけがない。人間社会が発明した社会・政治思想の最高傑作のひとつである民主主義が「投票権を持っていない・まだ世に生を受けていない世代」に対していかに不公平で冷酷にふるまうかを、この2年間のうちに若者たちに嫌というほど見せつけてしまった。
社会に対する基本的信頼を棄損された世代がやがて大人になったとき、かれらはこの社会に対して貢献しようと思うだろうか。自分の生み出してきたリソースを公共のための使おうとか、次の世代のために分け与えようと考えるだろうか。この2年間に失ったものは、経済や人命だけではない。目には見えない、大切なものが失われてしまった。
人種間対立や経済的格差といった分断と同じくらいに、「当たり前にあったはずの日々」を味わえた(選択できた)世代とそうでない世代との分断は根深い問題としてやがて浮かび上がってくる。
この分断を癒すことを望むのであれば、まだ世に物申す力も権限もない10代の子供たちがこの2年間にひたすら費やしてきた犠牲、献身があったことを知り、かれらの期待や祈りに思いを馳せなければならない。
———-
———-
(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)