「黒い雨、証言が救済の力に」40年越しの手帳申請 4月から新制度

原爆投下後の広島に降った「黒い雨」を巡る新しい救済制度の運用が4月1日から始まる。広島県と広島市への被爆者健康手帳の申請は2000を超え、認定基準を満たした人に順次交付される見通しだ。この中には40年以上前に被爆者援護の対象拡大を求める運動を始め、ようやく申請にこぎつけた男性がいる。「被爆者救済には証言が何より大事」と声を上げ続けた男性は、亡くなった仲間との歩みや流れた時間の重みをかみしめる。
国の線引きに憤り「不平等をただす」
広島市中心部から車で約1時間。3月下旬、爆心地から北西に約19キロ離れた同市佐伯区湯来町(ゆきちょう)に、武田知明さん(77)=同市安佐南区=はいた。かつて国の援護対象区域を分ける境界線となった水内川にかかる橋の上に立ち、小高い山に囲まれた集落を見渡す。「川向こうは認められて、こちらは認められない。国の線引きに対する住民の憤りは、ものすごかった。不平等をただすところから、黒い雨運動は始まったんです」
国が、戦後調査で「大雨地域」とされた爆心地の北西方向に広がる楕円(だえん)状の地域(南北約19キロ、東西約11キロ)を援護対象区域に指定したのは1976年のこと。安古市町(やすふるいちちょう)(現広島市安佐南区)の町議となり、被爆者支援にも携わっていた武田さんは旧町が区域内に入り、救済対象が広がったことを喜んだ。しかし、間もなく「区域外」とされた住民から怒りの声が届き始める。「わしらの地域にも雨が降った」「国は、ここらにも雨が降ったことを知らんのんじゃないか」――。
ただ、当時は「そんな遠方にも雨が降ったんじゃろうか」と半信半疑だった。武田さんが暮らした湯来町も「区域外」とされた。そこで、市民運動家だった村上経行さん(2011年に93歳で死去)と共に、区域の境界線をなぞるように歩き始めた。その中で、自身も黒い雨を浴びていたことを知る。米軍が原爆を投下した45年8月6日、当時1歳だった武田さんは同町にあった田んぼに祖母と出かけていた。草取りをしていたところ黒い雨が降り出し、地元の言葉で「恐ろしい」を意味する「いべせえのう、いべせえのう」と言って急いで帰った、と祖母は聞かせてくれた。
実際に境界線が引かれた場所を歩いてみると、集落を横切る小川などで「線引き」とされている地域が多く、「川向こうの同級生はもらえてるのに」といった不満を数多く聞いた。武田さんが雨を浴びた地域も、川と山の稜線(りょうせん)で線引きされており、境界線は集落を分断していた。78年には村上さんを事務局長に、「県『黒い雨』原爆被害者の会連絡協議会」の前身団体を設立。ただ、まだ自身には「被爆者」との自覚はなかった。「当時の記憶も乏しかったし、手帳がもらえず困っている人のために、という一心だった」
「天国のみんなに報告したい」
その後、武田さんは運動の前線からは退いたが、思いは引き継がれた。行政による検討会議に2度援護拡大を否定され、連絡協議会が中心となった区域外の住民は15年に手帳交付を求めて県市を提訴。21年、原告全員を被爆者と認める高裁判決が確定し、武田さんが雨を浴びた地域も援護対象となる新制度ができた。ただ、村上さんをはじめとする連絡協議会の当初の役員はほとんど死去し、原告も高裁判決確定までに19人が死亡した。「一生懸命頑張った人が、みな手帳ももらわずに亡くなったんです。彼らの顔が頭に浮かんで、涙が出る」
武田さんが雨を浴びた地点も救済対象に加わったが、手帳申請にはためらいもあった。「自分のために運動を始めたのではない。これまでの運動を否定することになるんじゃないか」と思ったからだ。しかし、かつての仲間に勧められて決心。申請は現在市が審査中で、認められれば武田さんの元にも手帳が届く。今は「続けてきてよかった。成果として受け取りたい」と心待ちにしている。
「この40年『黒い雨が降った』と真実を訴えてきた」。記録などがない中、声を上げ、証言することが、そのまま黒い雨を歴史に刻み、核廃絶を目指す歩みになった。武田さんは言う。「手帳を取れたら、天国のみんなに報告したい」【小山美砂】
黒い雨の救済拡大
国の援護対象区域外で黒い雨を浴び健康被害を受けたと訴えた広島県内の男女84人全員を被爆者と認めた2021年7月の広島高裁判決を受け、菅義偉首相(当時)が原告と「同じような事情にあった人」を救済する方針を表明。厚生労働省が一定の疾病にかかっていることなどを要件とする新たな認定基準を定めた。