1年前、川崎市内にある創業70年の工場が全焼する火災があった。この工場は2019年10月の台風19号に伴う多摩川の氾濫による浸水被害にも遭い、再起に向けて歩み出した直後だった。絶望の淵に2度突き落とされた経営者の70代男性は、いま再び立ち上がろうとしている。何が彼を突き動かしているのか。匿名を条件に取材に応じてくれた経営者の口から出てきたのは、仕事への愛情と町工場の誇りだった。【洪香】
パチパチパチ――。21年4月20日午前7時すぎ、自宅でうとうとしていたところ、外が騒がしく目が覚めた。家を飛び出すと、長年見慣れた木造平屋建てのメッキ工場と2階建ての社宅を大きな火が飲み込んでいた。「中に人はいませんか」「従業員の皆さんの安否はどうですか」。消防士の矢継ぎ早の質問に、真っ白になった頭で答えた。
1951年に創業し、父親から受け継いだ工場を火の手が丸ごと包む様子を、ただぼうぜんと見つめるしかなかった。「息の根を止められた」。そんな言葉が駆け巡った。
男性が後日、消防署から聞かされた考えられる火災の原因の一つは、変電設備の一次配線異常によるショートだった。前日夜、仕事を終えた男性が工場のすべての電源を切ったときは、設備の異常を検知する警告はなかった。
リーマンショックによる不景気など数々の困難を乗り切ってきた工場にとって、2度目の危機だった。1度目は2019年10月の台風19号水害。多摩川の氾濫で変電設備とメッキ電源コンプレッサー、排水処理設備などが浸水し、買い替えを余儀なくされた。3カ月間、メッキ工程の主工程であるメッキ加工ができなくなった。被害総額は2000万円以上。貯金を切り崩しても経営資金は足らず、借入金は膨らむ一方だった。「品質の良い物を安く早く届ける」をモットーに約30年変えなかった料金を上げざるを得ず、取引先に頭を下げた。
設備を整え、ようやく再起に向けて道筋が見えた時、火災が起きた。「水害のときはなんとかもう一度頑張ろうと思えたが、火事のときは『もうだめだ』と思った」。その理由は、メッキ職人にとって命にも代えがたいメッキ設備のほとんどが灰と化したことだ。水害では無事だったが、炎からは逃れられなかった。
長年使い込み「こなれた」状態になったメッキ液があって初めて、きれいなメッキができる。メッキ工場で働く職人にとってメッキ液は、ウナギ店や焼き鳥屋の秘伝のタレに等しい。水没してしまった機械は火災保険や借金で新調できても、メッキ液はなかなか復元できない。
絶望に打ちひしがれる中、男性を救った一本の電話がある。消防本部で事情聴取を受けているときだった。「磨き品の納品はできますか」。取引先からだった。はっと我に返り、「あしたならできます」と答えた。工場を必要としてくれる人がいる。そんな思いが、背中を押してくれた。
研磨剤がついた製品をから拭きして洗浄する技術は自動化できない手仕事だ。汚れがついているままだとメッキ不良、作動不良の原因にもなる。住宅地にある小さな工場だからこそ、大企業にはない長年培った独自のノウハウがあるという自信を、この注文で取り戻した。
火災の後、13人いた従業員は家族や親族だけの6人に減らした。現在はメッキの一部工程を請け負っているが、ゆくゆくは環境汚染防止にも目配せした小さなメッキ作業場をつくりたいと思っている。
資金面など課題は多い。それでも続けるのは「メッキ加工の仕事が好きだから」。その思いがある限り、何度でも立ち上がる。