施光恒の一筆両断 「グローバル化」と「国際化」の区別を

私の持論だが、「グローバル化」と「国際化」を区別すべきだ。「グローバル化」とは「国境の垣根をできる限り引き下げ、ヒト、モノ、カネの流れを活発化させる現象、およびそうすべきだという考え方」である。他方、「国際化」は「国境や国籍は維持したままで、各国の伝統や文化、制度を尊重し、互いの相違を認めつつ、積極的に交流していく現象、およびそうすべきだという考え方」だといえる。両者の区別をしないと、日本の針路を誤った方向に導いてしまうおそれがある。以前、産経新聞の「正論」欄(令和4年1月11日付)でもこの区別の必要性について論じたことがある。
この区別に関して先日、九州大学の学生を対象に簡単なアンケートを行った。私の授業「政治学入門」(主に1年生向け)の初回に出席した74人の学生が対象である。私の講義をまだ聴いていない状態で回答してもらった。
主に3問尋ねた。1問目は「外国や外国の人々との活発な交流は大切だと思いますか?」というものだ。99%という圧倒的多数が「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と回答した。
2問目の質問では、1問目に「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と回答した学生にのみ、その理由を尋ねた。いくつかの選択肢を用意し、一番近いものを一つだけ選ぶように指示した。結果は、多い方から順に「日本の人々と外国の人々が、異なる文化や習慣を学び合い、認め合うことを通じて、それぞれの視野を広げ成長していくため」(81%)▽「日本や自分自身の狭いものの見方を改め、米国などの先進的で合理的なグローバルな基準に近づけていくため」(7%)…などとなった。
3問目では、次の二つのタイプの「外国や外国人との交流の仕方」のうち、どちらのほうが自分の望ましいと思う交流のあり方に近いかを尋ねた。タイプ①は「国境線の役割をなるべく低下させ、ヒトやモノなどが活発に行き交う状態を作り出し、さまざまな制度やルール・文化・慣習を共通化していく交流」であり、タイプ②は「国境線は維持したままで、また自国と他国の制度やルール・文化・慣習などのさまざまな違いも前提としたうえで、互いに良いところを学び合う交流」である。その結果、タイプ①を選んだ学生は74人中4人(5%)のみで、残りの70人(95%)はタイプ②を選択した。
アンケートでは明示しなかったが 冒頭の区別でいえば、タイプ①は「グローバル化」型の交流であり、タイプ②は「国際化」型の交流だといえる。「グローバル化」型よりも「国際化」型の交流のほうを望ましいと思う学生が圧倒的に多かったのだ。
以上は大学生対象の調査だが、一般社会人を対象としても同様の結果が得られるのではないか。だとすれば次のことが言えよう。
大多数の日本人は、外国や外国人との交流が大切だと思っている。このとき多くの人々が望んでいるのは実は「国際化」型の交流である。
だが周知の通り、1990年代後半以降、財界や政府が力を入れてきたのは「グローバル化」型の推進である。例えば、会計基準や企業統治の方法を米国的な「グローバル標準」に合わせる構造改革、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への加入、大学授業の英語化、実質上の外国人単純労働者や移民の呼び込みなどだ。実現はしなかったが、学校の9月入学の提案もなされた。
残念ながら現在、「グローバル化」と「国際化」の概念はほとんど区別されずに使われている。どちらも、外国や外国人と広く積極的に交流していくことといった具合に曖昧に捉えている人が普通ではないだろうか。
したがって、前述のようなグローバル化推進策を批判するのは、現状では非常に難しい。グローバル化を批判すれば、圧倒的多数の日本人が大切だと思う外国や外国人との交流自体を否定する変わり者だとみられ、ときには「孤立主義者」「排外主義者」「極右」のレッテルを貼られてしまう恐れもある。そのため批判が手控えられ、実は大多数の人が望んでいなかった未来が到来してしまう恐れがある。
「グローバル化」と「国際化」を概念的に区別し、「グローバル化」には批判的だが「国際化」には賛成だと言いうる余地を作る必要がある。
【施光恒(せ・てるひさ)】 昭和46年、福岡市生まれ、福岡県立修猷館高校、慶應義塾大法学部卒。英シェフィールド大修士課程修了。慶應義塾大大学院博士課程修了。法学博士。現在は九州大大学院比較社会文化研究院教授。専攻は政治哲学、政治理論。著書に『英語化は愚民化』(集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など。「正論」執筆メンバー。