「沖縄県民斯ク戦ヘリ」父・大田中将の「遺言」に思い新た…海自OBの三男「惨事繰り返さぬ」

県民の4分の1が犠牲になったとされる沖縄戦で、海軍の地上部隊を率いた大田実少将(死後に中将)は、本土宛ての電文の末尾にこう記し、命を絶った。<沖縄県民


(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ>。大田中将の三男で元海上自衛官の落合


(たおさ)さん(82)は、本土復帰50年の節目に、父が「遺言」に込めた思いをかみしめている。(狩野洋平)(●は田の右に俊のつくり)

27日夕、沖縄県豊見城市にある旧海軍司令部


(ごう)で慰霊祭が開かれた。那覇空港に近い一帯は戦後、焼け野原となったが、今では住宅街が広がっている。「道半ばだが、着実に沖縄は発展してきた」。自宅がある神奈川県鎌倉市から参加した落合さんは、父の電文が刻まれた石碑の近くに花をささげ、感慨深げに語った。
1945年1月、大田中将は沖縄に着任し、この場所に置かれた司令部で約1万人の海軍部隊を指揮した。陸軍とともに米軍を迎え撃ったが、圧倒的な火力の前に苦戦を強いられ、同6月13日、司令部壕で自決した。
その直前、東京の海軍次官宛てに電文を送っていた。軍が戦闘に専念して県民を顧みることができなかったことや、若い女性までも砲弾運びに志願したこと、そして一本の草木さえ残らないほどの焦土と化した惨状を切々と伝えた。

落合さんは11人きょうだいの9番目に生まれた。「父は大好きな酒を飲んでいたとき膝にのせてくれた。沖縄に赴く前は死を覚悟していたためか、とにかくかわいがってくれた」と話す。

63年に防衛大を卒業し、海自に入隊。本土復帰2か月後の72年7月、沖縄県名護市の自衛官募集事務所に初代所長として赴任した。壮絶な戦闘を経験した県内には、反自衛隊感情が渦巻いていた。
事務所には連日デモ隊が押し寄せ、入り口の鍵穴がコンクリートで固められ、中に入れないこともあった。大田中将は電文で県民への配慮を訴えたが、「その息子が県民を戦争に連れて行くのかと批判されたこともあった」と振り返る。
そんな状況を知り、当時の沖縄県知事・屋良朝苗氏が面会を申し出てくれた。「戦後27年間、沖縄は里子に出されていたのです。その苦労を理解してあげてください。一度滅びた国の再興は50年、100年の計で考える必要があります」。知事公舎で手を握りながら諭された。
落合さんは毎朝、電柱に貼られた「人殺し」と書かれたビラを一枚一枚剥がし続けた。理解を示してくれる住民も増え、抗議は沈静化していった。

約20年後の91年、湾岸戦争後のペルシャ湾で、イラクが敷設した機雷を除去する掃海部隊の指揮官を任された。賛否が分かれる中で行われた、自衛隊初の海外派遣活動だった。
現場の海域は流れが速く、砂漠の砂で濁っていた。「父は部下の命を大切にしていた」。ダイバーが機雷に接近し、手作業で処分する過酷な活動に臨む際に、「迷ったら安全な方に転ぶ」との方針を示した。511人の隊員は1件の事故も起こさず34個の機雷を処分した。
翌92年には国連平和維持活動(PKO)協力法が成立し、自衛隊による国際貢献の流れができた。96年に退官した後も各地の講演会で経験を伝えた。
沖縄での慰霊祭にも毎年のように参加してきたが、本土復帰50年の今年は思いを新たにして臨んだ。国際法を踏みにじり、多くの市民を戦闘に巻き込んだロシアによるウクライナ侵攻が起きたからだ。
「沖縄戦では住民を避難させるのが遅れ、多くの犠牲者が出た。惨事を繰り返さないよう、父の思いを後世に伝え続けていきたい」。その願いを強くしている。
陸幕長「住民保護、高い優先度」

太平洋戦争末期の沖縄戦は、日米で計20万人以上が戦死する激戦地となった。戦後は米国の統治下に置かれ、ベトナム戦争では米軍の出撃拠点となり、1972年の本土復帰後も米軍基地が集中した。
2010年代からは、強引な海洋進出を強める中国を念頭に、自衛隊が防衛力強化を急いでいる。陸自トップの吉田圭秀・陸上幕僚長は19日の記者会見で、「沖縄が先の大戦で極めて悲惨な経験をしたことを強く認識しなければならない」としたうえで、「住民保護は沖縄県において特別に優先度が高い任務であり、関係自治体などとの連携を深めていく」と述べた。