待てど暮らせど来ぬ、待ちわびた5日間
真っ暗な山道の向こうにリムジンバスが見えた。2002年5月24日、大分県中津江村(現・日田市)。サッカー・ワールドカップ(W杯)日韓大会のカメルーン代表がキャンプ地に到着したのだ。
待ちわびること5日間。アフリカの強豪、愛称「不屈のライオン」は予定日を過ぎても姿を見せず、出場見送りかとマスコミが殺到した。それでも村の人たちは信じていた。「きっと来てくれる」と。
ついに訪れた到着の瞬間は、午前3時過ぎにもかかわらず、村の約150人が笑顔で出迎えた。その光景は、全国に報じられ、国内初のW杯の熱狂を彩る一コマとなった。
振り返る時、元村職員の長谷俊介さん(68)は、不思議な気持ちになる。すべてが自分のひょんな発案から始まったということに――。
赤字施設の改修予算を狙い、誘致立候補
九州の小さな村とアフリカの強豪「不屈のライオン」の心温まる交流――。
ちょうど20年前、2002年サッカー・ワールドカップ(W杯)日韓大会のカメルーンキャンプが、そんな美談で語られる時、大分県中津江村の元村職員、長谷俊介さん(68)は、ちょっとばつの悪さを感じてしまう。誘致の最初の動機は、あまり純粋ではなかったから。
「国際交流とか、おもてなしとか、スポーツ振興ではなかったのは確かです」
1998年当時は後にキャンプ施設となる「
鯛生
(たいお)スポーツセンター」所長で、考えていたのは「お金」のことだった。センターは中高生の部活の合宿向け施設だが、大分と熊本の県境という立地もあり、利用者が増えず、「村のお荷物」になっていた。
赤字続きの中で改修時期が迫り、予算に悩んでいた時、目に留まったのが、W杯日本組織委員会から送られてきたキャンプ候補地の募集要項だった。条件は、グラウンド2面、体育館、宿泊施設、プールなど。何とかクリアはできていた。
「立候補するだけで宣伝になる。実際にチームが来るかは別にして、候補地にさえなれば準備のために改修補助金が得られるのでは」
我ながら名案だと、村長室に足を運んだ。
「また、『珍しがり屋さん』が始まったな」。話を聞いた当時の村長、坂本
休
(やすむ)さん(91)は、そう思ったそうだ。
長谷さんは、税務課、企画課なども経験していたが、お役人というより、アイデアが豊富なタイプ。音楽祭を開いたり、カヌー教室を企画したり。そして、時にそれが周囲を振り回す。
坂本さんの了承を得て動き出したものの、村内の小中学校にはサッカー部がなく、関心の高いスポーツといえば相撲や高校野球ぐらい。村は「W杯ってなに?」という雰囲気だった。
ともあれ、2000年秋、村は審査を通過し、県内ほか3か所と合わせ「キャンプ候補地」に認定された。
ただし、長谷さんは酒の席で組織委の関係者から言われた。「中津江には、たぶんどの国も行かないよ」。W杯を盛り上げるため、小さな村も候補地に選んだのだと。
気にしなかった。有名スタジアムの名が挙がる中、こちらは村営施設で、「『キャンプ候補地』の看板で、改修予算の相談に大手を振って県庁に出入りできるだけで満足だったわけです」。
その村にカメルーンの大使らが訪れたのは01年6月のことだ。候補地になって半年後。型どおりの視察で、期待はしなかった。
ところが2か月後、彼らはまたやってきた。今度はサッカー関係者らが中心で、半日ほど施設を見て回り、マネジャーと称する一人が帰り際に言った。
「我々は中津江村に決めるつもりです」
長谷さんは半信半疑だったが、秋に県庁で正式にカメルーンとの調印式が行われ、候補地から「キャンプ地」になった現実を認識した。
世界のスター選手、なのに部屋は畳敷きで共同風呂
「おらが村にカメルーンがやってくる」。スポーツ紙の1面に見出しが躍った。
Jリーグで活躍した「浪速の黒ヒョウ」エムボマ、後に4度のアフリカ年間最優秀選手賞に輝くエトー――。相手は、高額な年俸を稼ぐスター選手たちだ。
かたやセンターは1泊3500円程度の合宿施設だ。部屋は畳敷き、風呂は共同、食器はプラスチック製で、寝具は布団しかない。
大改修が始まった。床をフローリングに換え、カーペットを敷き、ユニットバスを設置した。椅子やベッドは、隣村の破綻したリゾートホテルから借りてきた。
ボランティアの募集、送迎バスの手配、警備の計画。次々湧いてくる仕事が、長谷さん一人で完結するわけがなく、巻き込まれた職員の一人、片桐由美さん(52)は「全てが初めてで、一つ一つが綱渡り。結局、『オール中津江』でやることになった」と笑う。
何とか準備が整った時、例の遅刻騒動が起きた。
到着予定は02年5月19日。その2日前、長谷さんはインタビューを受けていた。相手はテレビ朝日の番組「ニュースステーション」のキャスターだった久米宏さん(77)=写真、オフィス・トゥー・ワン提供=。村からの夜の生中継で、芝生が緑に輝くセンターのグラウンドを背景に、準備の苦労話を披露した。
ところが、一行は現れない。代わりにマスコミが殺到した。役場前に報道の車が連なり、電話は鳴りやまない。「村がだまされた」「施設に不満があるのでは」。無責任なうわさも飛び交った。
一日、また一日。気づけば10日間のキャンプ日程の半分が過ぎた。来ると信じていた長谷さんも、残り日を数え、心もとなくなってきた。
胃の痛い日々が、どこかユーモラスな騒ぎだったのは、連日取材に応じていた坂本さんの人柄ゆえだろう。
久米さんは振り返る。
「待っても、待ってもやって来ないのに、坂本村長は『大丈夫、大丈夫。そのうちやってきますよ』とニコニコしている。それが中津江スタイルでしたね」
待ちに待った到着からは、お祭りのような日々だった。
村の人たちが、緑、赤、黄の国旗を振り、同じ3色をあしらった手作りの「カメルーンハット」姿で出迎えると、チームの面々はすぐに打ち解けた。
最初はおっかなびっくりの子どもたちも、手をつなぎ、一緒に花笠音頭を踊ると、大きくて陽気な客人に魅了された。ステーキを食べたいとか、髪を染める美容室を紹介してくれとか言い出し、振り回されたこともあったけれど、遅刻で日程が押す中、選手らは交流行事にも協力してくれた。
長谷さんは後で知ったが、選手らは、村が何も聞かず「よく来たね」と受け入れてくれたことに感謝していたという。遅刻の理由は、大会出場を巡るボーナス闘争で、内輪のトラブルで村に迷惑をかけ、到着前は神経質になっていたそうだ。
大会でチームはグループリーグで敗退したが、2戦目での初勝利の後には、主将のソングは村に電話をくれ「この1勝を中津江村の人たちにささげます」と伝えてきた。
「アバウトだけど、繊細で。カメルーン人は義理と人情なんですよ」。長谷さんは懐かしそうに振り返る。
あの「中津江村」の名、合併後も残せた
「サッカーが好きになった」「カメルーンに行ってみたい」。W杯キャンプの後、村の子らは文集にそう
綴
(つづ)った。中でも、長谷さんらを喜ばせたのは「胸を張って『中津江村出身です』と言いたい」と書いてあったことだ。
村も活況に沸いた。村の名前が流行語大賞に選ばれ、観光客が押し寄せ、カメルーングッズが飛ぶように売れた。東京での物産展では村のシイタケやお茶までもが人気で、センターも知名度がアップし、サッカーの強豪校が訪れる人気施設になった。
しかし、村は平成の大合併にのみ込まれていった。
長谷さんは複雑な気持ちだった。「行政マンとして理屈は分かるけど……」。財政試算では村単独での学校や役場の維持が難しく、近隣の日田市など1市2町3村の合併は不可避だった。
村は消えるのだ。皆が思っていた時、W杯キャンプが思わぬ効果をもたらした。
合併で村は「日田市」になることになっていたが、同時に「中津江村」の名も残すことになったのだ。
合併協議会で、坂本さんが村の思いとして働きかけたからだが、「カメルーンの件で、あれだけ有名になったのだから」と異論は出なかった。そして05年3月、「中津江村」は「日田市中津江村」になった。
気づかされた「自分たちが、自分たちを一番軽んじていた」
かの国との交流はその後も続く。昨年の東京五輪では合併先の日田市が同国選手団のキャンプ地に選ばれた。駐日カメルーン特命全権大使のピエール・ゼンゲさん(71)=写真=は語る。「村の人を総動員しての『不屈のライオン』への温かい歓迎。そこから始まった友情は時を超えて強化されたのです」
さて、その発端となった長谷さんといえば――。
実は、合併の1年前に役場を退職した。「40歳を過ぎた頃から考えていた。W杯も終わり、合併もあったし、もういいかなと」
その後も村に住み、バックパックを担いで世界を旅したり、カメルーンにサッカーシューズを送る活動をしたり。誘致で学んだ芝育成のノウハウで会社も設立した。相変わらずの「珍しがり屋さん」だ。
長谷さんは言う。「あのキャンプでカメルーンの人たちが気づかせてくれた。自分たちが一番、自分たちを軽んじていたって。勝手に限界を作り、『無理だろう』『選ばれるわけがない』と考えてね」
最初から結果なんて絶対にわからない。だから長谷さんは、きっと、また新しい何かを始めるのだろう。
社会部 岡本遼太郎(おかもと・りょうたろう)記者 2015年入社。さいたま支局で警察やスポーツ取材を担当し、21年12月から東京本社社会部。W杯日韓大会当時は小学6年生で、カメルーン―サウジアラビア戦をスタンドで観戦した。31歳。