熊本県南部の球磨川などが氾濫して被害が広がった2020年7月の九州豪雨を機に、国土交通省や県はダム、遊水地の整備、宅地のかさ上げといった複数の対策を組み合わせる「流域治水プロジェクト」を打ち出している。しかし遊水地計画をめぐって、自宅が候補地に入った住民の中には「移転したくない」と考える人もいる。利害がぶつかる住民同士の分断にもつながりかねず、事は容易に進みそうにない。
「この年になってどこに移り住めというのか。生まれ育ったこの場所に住み続けたい」。九州豪雨で21人が亡くなった熊本県人吉市。自宅が被災し、仮設住宅で暮らす一橋国広さん(78)は悲痛な表情を浮かべた。一橋さんの自宅がある球磨川沿いの田園地帯・中神町大柿地区が遊水地の候補地になったと伝えられたのは21年11月。計画が進めば地区の58世帯は移転を求められる可能性がある。
遊水地は大雨で川の水位が上がった時、近くの農地などに水を逃して下流域の氾濫を防ぐ。流域治水プロジェクトでは大柿地区など人吉市や同県球磨村、相良村などの計5地区が候補地で、東京ドーム約5杯分に相当する600万立方メートルの水をためる計画だ。国交省は河道掘削や川幅を広げる引堤(ひきてい)などと合わせて、およそ10年かけて整備する見込みという。
「寝耳に水だ。ちょっと待ってくれ」。農業をしながら今年3月まで地区の区長を務めた一橋さん。豪雨で農地も農機具も水につかったが、21年夏には農林水産省や県の補助を受けてトラクター、田植え機などを買い直した。農地に流れ込んだ大量の石を取り去って、生活の糧を取り戻そうとしていたところに降って湧いた遊水地計画だった。
候補地に入った58世帯のうち、10世帯前後は移転に反対しているという。国や県から事前の相談はなく、突然計画が示されたことにも住民らは反発する。「なぜ我々が古里を離れなくてはならないんだ」。一橋さんは気持ちの収まりがつかない。
一方、計画を容認する住民らの思いも切実だ。豪雨で自宅が全壊した才尾弘太郎さん(79)は「大量の流木と一緒に水が流れ込んできたあの日のことを思い起こせば、もうここには住めない。子や孫には住まわせたくない」と話す。才尾さんも生まれ育った大柿地区への愛着は人一倍だ。つらい気持ちはあるが「移転は自分たちのためでもある。やむを得ない」。
九州豪雨で浸水被害が広がった大柿地区には依然として被災リスクが残る。6月3日にあった市主催の住民懇談会では、安全を優先して移転するしかないと考える住民から「農地買い上げと補償の額が決まらないと先の見通しが立たない。早く進めてほしい」「跡継ぎもいないし、いつかは限界集落になるだけだ。早く移転した方がいい」と声が上がった。
地区には70~80代の住民も多く「やるなら早くやってほしい」と焦りが募る。「地区の意見がまとまらず計画が進まない場合、反対している住民の土地を収用する考えはないのか」。そう訴える住民を市の担当者が「(国、県とともに)皆さんに納得してもらって進める」ととりなす一幕もあった。被災住民の思いには隔たりがあり、埋め合わせていくのは容易ではない。【西貴晴】
流域治水
ダムや堤防など従来のハード面の対策だけでなく、場合によっては住民にも移転や農地の買い上げといった負担を強いながら流域全体で水害を減らす取り組み。豪雨被害が頻発する中、国が2020年7月に打ち出し、21年3月までに全国109の1級河川などで「流域治水プロジェクト」が策定された。九州豪雨で氾濫して被害をもたらした球磨川では、復活が決まった球磨川の支流・川辺川のダムを軸に遊水地や田んぼダムの整備、河川掘削、川幅を広げる引堤(ひきてい)、既存の市房ダム再開発などが盛り込まれた。