かつて「人間を捨てた島」と呼ばれた離島が瀬戸内海にある。今では国際的なアートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」の舞台の一つになった。島を訪れ、歴史をたどった。【西本紗保美】
瀬戸芸の春会期最終日の5月18日。快晴で少し汗ばむ陽気の高松港から、小型船に乗り込んだ。約30分後に船から大島に降り立つと、エメラルドブルーの澄んだ海が陽光を浴びてキラキラと輝いていた。辺りにはオルゴール調の「乙女の祈り」が鳴り響き、穏やかな雰囲気が漂っている。
音楽が流れている理由は、瀬戸芸のボランティアによるガイドツアーですぐに分かった。「目の見えない方に方角をわかりやすくする『盲導鈴』です」。ハンセン病の後遺症で目に障害を負った人に配慮した工夫だという。大島は国がハンセン病患者の隔離政策を始めた2年後の1909(明治42)年から、島全体が隔離施設となった過去を持つ。
ハンセン病は感染力が弱い「らい菌」による慢性感染症で、現在は治療法も確立されている。だが、かつては「恐ろしい伝染病」と誤解され、差別や偏見の対象だった。国による隔離政策は1996年に「らい予防法」が廃止されるまで、約90年にわたって続いた。現在大島にある国立療養所には、入所者39人が後遺症治療や高齢に応じた介護を受けながら静かに暮らしている。
ハンセン病患者をテーマにした主なアート作品は、50年代には700人近い患者が分かれて暮らしていた寮のうち5棟に展示されている。その一つが、絵本作家の田島征三さんが2019年に制作した「『Nさんの人生・大島七十年』―木製便器の部屋―」。かつて1人当たり2畳程のスペースで暮らした長屋の部屋ごとに「離郷」「強制労働」「結婚・中絶」などとタイトルがつき、ポップな色調のオブジェや絵が並ぶ。
その中で壁に書かれた「けっこんして やんがて こどもが できたがよ。本当は うれしいことやのに、 つらい かなしいことばかりやった」という文章にひときわ目がくぎ付けになった。患者は子どもを持つことを禁じられ、断種・中絶手術を強制されたという。ガイドツアーで説明を受けた事実が胸の中に重くのしかかった。
田島さんは高知県出身の「Nさん」から聞き取った内容を元に、軽症者が重症者の看護を担わされ、物資不足から当時手作りしたという木製の便器も再現した。香川大の授業の一環で訪れた台湾人留学生の(と)名(めい)淇(き)さん(23)は「大島の景色はすごくきれいだけど、歴史を聞いて切なくなった」と話した。
山川冬樹さんが19年に手がけた「海峡の歌/Strait Songs」は、多くの患者が泳いで島から脱出しようとした歴史を表現した。潮に流されて亡くなった遺体が、対岸の高松市庵治町に流れ着くこともあったという。作品を見たコーヒー店経営で県内の直島町出身の奥山尚久さん(47)は「大島をタブー視する風潮があり、離島同士でも交流はなかった。瀬戸芸で有名になり、大島に行けるんだと知った」と明かした。
10年に瀬戸芸が始まって以来の12年間で、地元の人々にも大島の存在が広く知られるようになった。瀬戸芸の作品管理などの事業を担うNPO法人「瀬戸内こえびネットワーク」の笹川尚子さん(38)は、09年から大島の担当として芸術家の制作のサポートをしてきた。「初回は県外の観光客が中心だったが、3回目ぐらいから香川の人が増えてきた。『人権学習』で島を訪れるのはハードルが高いが、瀬戸芸によりイメージの変化が起きていたのではないか」とみる。
笹川さんら瀬戸芸のスタッフは、入所者と一緒に島で収穫した甘夏や梅を使ってジャムやお菓子を作り、島内の「カフェ・シヨル」で販売するなどの交流を続けてきた。「歴史だけではなくさまざまなことを体験して学んでいくのが瀬戸芸の醍醐味だと思う。アートを通して、ハンセン病のことを柔らかく伝えていきたい」と話す。
「ハンセン病の啓発に頭悩ませ」
現在、大島の療養所で暮らす入所者は、瀬戸芸のアートをどう受け止めているのか。田島さんの作品のモデルとなった「Nさん」こと野村宏さん(86)に聞いた。初回に会場の一つが大島と決定した当時の経緯について「芸術祭なんかやっても人は来やせんと思っていた。でも(実行委員会から)豊島は『産業廃棄物の島』、大島は『人間を捨てた島』だ、大島を外すわけにはいかないと聞き、やってもらおうということになった」と回想。「(国の隔離政策が違憲とされた01年の)国賠訴訟判決後は、ハンセン病についてどうやって啓発していこうか頭を悩ませていた。瀬戸芸で若い人がたくさん来て良かった」と笑顔を浮かべる。
瀬戸芸を通じて今まで届かなかった人たちに触れてもらうきっかけができた大島に、コロナ禍が影を落としている。施設の関係者に限定されていた大島―高松間の定期船が19年から観光客も自由に乗れるようになったが、コロナの感染拡大が始まった20年2月下旬以降は島外者の受け入れを中止している。22年は瀬戸芸の期間中のみ行き来できるが、感染防止のため入所者と直接交流する機会は失われたままだ。
足もとでは国立療養所の入所者の高齢化も進む。全国13カ所の入所者は1950年代のピーク時に約1万2000人だったが、5月に1000人を下回った。大島の入所者の平均年齢は85歳を超えた。大島に住む全国ハンセン病療養所入所者協議会長の森和男さん(82)は「高齢の入所者には残された時間がないが、家族への差別や偏見は今も続いており、解決の途上だ。(啓発活動を)やめるわけにはいかない」と話す。森さんと野村さんは小中学生への語り部の活動をオンラインに切り替えて継続している。
「息苦しさ」から生まれた作品
2019年の瀬戸内国際芸術祭で、かつて大島青松園の入所者が切り開いた散策路をよみがえらせた作品を発表した芸術家の鴻池朋子さん(62)。自然の中に身を置き、体全体で感じるアート表現について聞いた。
鴻池さんは大島を舞台とした展示を依頼され、「とにかく息苦しかった」と一度は断ったという。「息苦しさ」とはハンセン病への厳しい差別の歴史を予備知識として持った人たちが島を訪れた際、「学習する姿勢」に固執してしまうことを指す。「初めて(亡くなった患者の)解剖台を見た時、私は『反省モード』になった。でも差別はいつでも生まれるもので、資料や整理された文章を見ただけで分かった気になるのは危ういと感じた」
すぐに制作に取りかかることはできなかった。引き受けた後も締め切りが迫る中、「息苦しさ」から逃れるように島の山道をぐるぐると歩き回っていた時だ。1933年に軽症者の青年たちが自力で整備した散策路の痕跡に気づいた。かつて「相愛の道」と呼ばれ、集団生活を送っていた患者が一緒にツツジを眺めたり、恋人同士で歩いたりと、数少ない娯楽の一つとなっていたという。
鴻池さんはチェーンソーで荒廃した散策路約1・5キロを再び切り開いてアートに昇華させた。タイトルは登山中に方向感覚を失った人がぐるぐると回り続ける意味のドイツ語「リングワンデルング」。作品の途中では「逃走は開所以来珍しくなく、風のない海の静かな晩は、『逃走日和だ』と挨拶(あいさつ)がわりにしたほどだ」などと、入所者の言葉が書かれた札が置かれている。
一方、島内の「カフェ・シヨル」内にある作品「物語るテーブルランナー」は、自ら入所者らに聞いたエピソードを元に下絵を描き、手芸が得意な知人女性らの協力を得てランチョンマットに仕上げた。賑やかな祭りの様子や、入所者の高齢女性が語った故郷のひな人形の思い出など題材はさまざまだ。「一人一人のうれしかったこと、悲しかったこと、病気と関係ない出来事は歴史に残らない」と鴻池さん。1枚1枚に物語が紡がれている。
8月5日に開幕する瀬戸芸夏会期で、散策路から崖下へと降りる石組みの階段「エスケープルート」が新たに登場する。鴻池さんは「相愛の道を作った人たちは手で山道を切り開くことで、地球をまるごとドローイングする感覚を味わっていたのではないか。目で見るだけではなくて、触ったり匂いを嗅いだり、季節を感じることで、日常で使っていない身体を目覚めさせて」と語る。
高松市で「みる誕生 鴻池朋子展」
鴻池さんは現在、高松市美術館で「みる誕生 鴻池朋子展」を開催中。国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」(熊本県)の入所者が描いた絵画も展示されている。一般1000円、大学生500円、高校生以下無料。9月24日までで、月曜休館。問い合わせは同美術館(087・823・1711)。