親子でも、血のつながりなくても 語り継ぐ被爆体験 長崎原爆77年

原爆投下から77年を迎え、長崎の被爆体験を語り継ぐ「証言者」の担い手が、被爆者本人から子供や血縁関係のない戦争を知らない世代に移ってきている。被爆者の平均年齢は84・53歳(3月末)で、本人が実体験を語れるタイムリミットが迫る。記憶を受け継ぐ人たちは「自分のものではない体験をどう語り継ぐか」と模索している。
「目の奥まで貫く真っ青な閃光(せんこう)は、忘れることはできない」「(爆心地の北約500メートルの)大橋の所まで来ると4、5人が倒れ、誰かが足を力なくつかんできた」。7月24日、長崎市の長崎原爆資料館で、山本ハルさん(92)の体験に来館者が聴き入った。語ったのは本人ではなく次女の谷口須賀子さん(63)。市が育成する「家族証言者」だ。
1945年8月9日、看護師の実習中だった15歳のハルさんは、爆心地の北東約3・1キロの自宅に一時帰宅していた。閃光と爆風を受けたハルさんは足を切った程度ですんだが、市街に野菜を売りに行っていた母はそのまま帰らぬ人となった。
終戦の日の15日、ハルさんは爆心地から約1キロの看護学校に向かった。人や牛、馬が倒れた焼け野原を無我夢中で歩いたが、寮のあった場所は柱一本ない荒れ地になっていた。一時帰宅前に約束した友人との再会もかなわなかった。
ハルさんはつらい体験を須賀子さんら3人の子に語らなかった。同い年で、国鉄に学徒動員されていた時に被爆した夫和俊さんも、体調不良で休んだ自分の代わりに出勤した同僚が爆心地近くで亡くなったことを思い悩み、ほとんど語らないまま2003年に72歳で死去した。須賀子さんはハルさんが90歳を超え記憶が薄れる中「今のうちに聞いておこう」と決意。定年退職後の20年、市が公募する家族証言者になった。
須賀子さんはハルさんから体験を聞くだけでなく、看護師の実習を受けていた病院にも足を運んだ。被爆後、ハルさんが歩いた学校までの道をたどって証言を体の中に染みこませていった。須賀子さんは「長崎に生まれたことに意味があると考え、両親に代わって戦争と原爆の悲惨さを伝えたい」と語る。
長崎市は家族証言者の育成を14年度に始め、16年度からは血縁関係のない「交流証言者」も養成。家族証言者と交流証言者を合わせて被爆者52人の証言を引き継いできた。一方、長崎市から家族・交流証言者事業の委託を受け、被爆者本人も証言者(継承部会員)として所属する長崎平和推進協会(同市)によると、被爆者本人の証言者は徐々に減り、20年度には家族・交流証言者の数が被爆者を上回った。広島市は12年度から血縁関係を問わない「被爆体験伝承者」、22年度から「家族伝承者」を養成している。
血のつながりがない被爆者の証言を受け継ぐ交流証言者も努力を続けている。長崎市の山野湧水(ゆうみ)さん(26)は18年、爆心地から約700メートルで被爆した池田道明さん(83)=長崎県長与町=の交流証言者になった。山野さんは池田さんへの聞き取りを重ね、一緒にいた友人を捜す場面など当時の状況をイメージして絵に描き、納得するまで何度も池田さんに確認した。講話では33枚になったその絵を見せながら小学生らに語っている。「ただ単に、代わりに体験を語るだけでなく、人生を背負った重みを感じながら活動していきたい」【高橋広之】