先の大戦中、陸軍戦闘機「飛燕(ひえん)」の整備員を経て特攻隊員となる予定だった岐阜県海津市の樋口一(かず)さん(96)は、当時の経験をほとんど話してこなかった。「思い出すのも嫌だし、生き残った身で不幸自慢はしたくない」。しかし戦後77年となる今年、ロシアがウクライナに侵攻し、国際情勢は緊迫化した。平和がいつ失われるか分からないと感じ、初めて孫に伝えた。「平和でありがたい時代を、お前たちの代が守り続けろ」と。
孫の史典さん(21)は父親から「親父(樋口さん)は戦闘機をいじっていたらしい。その後、特攻するはずだった」と聞いていた。今年4月、飛燕が岐阜県内に展示されていることを知り、樋口さんに尋ねた。「行ってみる?」「連れて行ってくれ」
訪れたのは、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館(同県各務原市)1階の戦前・戦中エリア。零戦の原型とされる「十二試艦上戦闘機」の傍らに「飛燕」はあり、樋口さんは足を止めた。
他の展示機とは違い、塗装もされていない。非情な時代を物語るようなたたずまいだった。「これが自分のかんおけになっていたかもしれん」。そう史典さんに伝えた。
19歳で「飛行機乗り」に
樋口さんは海津市内で農家の長男として生まれた。義務教育を終え、名古屋市にあるシャツの製造会社へ就職。「平和産業だよ」と樋口さんは振り返る。
だが15歳で徴用され、川崎航空機工業(現川崎重工業)の岐阜工場(各務原市)に移った。細くとがった機首、長く伸びた飛翼。憧れを抱いた飛燕や別の爆撃機のエンジン油圧などを整備する作業を担ったが、工具の扱い方をめぐって「心を込めろ」と先輩に殴られたこともあった。
「前線で働く兵隊さんにとっては、機体の一つ一つがかんおけになるかもしれん。全ての作業を誠実にやることを求められた」
まもなく、上司に呼ばれ突き放すように言われた。「お前も行かなあかんぞ」。すでに熟練の先輩整備員は次々と徴兵されていた。「(先輩に)ついてこいよと言われた。やらなきゃいかん」。生まれつき、赤と黄の判別が困難な視覚障害のある樋口さんだが、覚悟は決まっていた。
昭和20年、19歳で徴兵された。戦闘機の整備経験から、課されたのは「飛行機乗り」。搭乗経験が少ない兵員にとってそれは特攻を意味していた。連日、各務原から木曽川上空を飛び体を慣らし、操縦を覚えた。「特攻機には飛燕もある」と聞かされた。
「まさか俺のかんおけになるとは」。だが、陸軍八日市飛行場(滋賀県)に転属する直前に終戦を迎え、玉音(ぎょくおん)放送を聞いた。
「俺は死んでやれんかった」
「まだやるぞ」といきまく者もいたが、命が助かったことがうれしかった。同時に、日本が敗れたことへの喪失感もあった。
操縦を覚え、死ぬ運命を受け入れたとき、脳裏に浮かんだのは、子供の頃よく相撲を取った同級生だ。海軍に入り、マリアナ沖海戦で戦った後、特攻で戦死したと聞いた。「あいつは死んだが、俺は死んでやれんかった」。組み合った幼い日の汗のにおいは、いまも忘れない。
この同級生だけでなく、数え切れない〝無名の兵士〟が命を捧げた。「戦争とはそういうもの」。正座し両手を地面につけて玉音放送を聞いてから77年。終戦の日に樋口さんは手を合わせ、亡き友に語りかける。「こんなにありがたい時代になった。いずれ行くけどもう少し待っていてくれ」
若くして亡くなった戦友たちは、孫と過ごす時間など持ち得なかった。この先の人生は決して長くないからこそ、史典さんに伝える。「戦争はあかん。みんな後で結果を知るが、それでは遅い。平和を当たり前と思うなよ」
■陸軍三式戦闘機「飛燕」 昭和18年に旧陸軍に制式採用され、川崎航空機工業(当時)が終戦までに約3千機を製作。主任設計者は零式艦上戦闘機(零戦)の設計者である堀越二郎氏と東京帝大(現東大)で同期だった土井武夫氏。陸海軍の他の戦闘機が搭載した空冷エンジンと異なり、ドイツ発の液冷エンジンを搭載した。最大時速610キロ、高度1万メートルで飛行できる性能を誇ったが、エンジントラブルも多かったとされる。(五十嵐一)