私たちはどういう軍隊をつくってきたのか。自衛隊は、日本独立後2年して生まれた(=1954年)。冷戦時、総軍28万の勢力となった。極東ソ連軍は40万の勢力だった。だから、日米同盟で日本の防衛力を補う必要があった。
島国の日本は、巨大な濠(ほり)に囲まれた江戸城や大阪城のようなものである。米軍は、大規模陸上戦を考えなくてよい。日本独立後、米陸軍は撤収した。日本から最も近い米国の都市、ワシントン州シアトルに、日本に来援するはずの米陸軍第1軍がいる。また、ハワイには米海兵隊第3遠征師団がいる。
太平洋は、大西洋よりはるかに広い。1万キロある。10万単位の兵員は兵站とともに船で運ぶしかない。船の時速は数十キロである。海軍で劣勢なソ連軍は島伝いに降りてくる。樺太島から北海道に侵攻されれば米軍は間に合わない。
日本の陸上自衛隊と航空自衛隊は玉砕覚悟で、北海道で死力を尽して迎え撃つ。海上自衛隊は米第7艦隊とともに、米陸軍・海兵隊の日本上陸のための輸送を護衛する。
「米軍来援まで持ちこたえろ。東京を陥落させるな」
それが冷戦中の自衛隊の戦略であった。野球に例えれば、3回の裏で米軍のリリーフと交代するだけの軍隊をつくってきたのである。
日本の経済規模が、英国、フランス、ドイツを抜いたころ、日本の軍事力の肥大化に共産圏から強い懸念が示されるようになった。70年代、三木武夫内閣は、日本の防衛力規模を凍結した。初めての防衛大綱が書かれ、防衛費はGNP(国民総生産)の1%を超えないこととされた。
ソ連の限定的で小規模な北海道侵略に対応できればよい。そこで、自衛隊が消滅したら、後は米国に任せればよいという、「無責任な敗北主義、対米依存主義の防衛政策」であった。それはまた、激しい国内冷戦下での左派勢力との妥協の産物であった。
冷戦が終結して30年。日本の防衛態勢が抜本的に見直されることはなかった。
ところが、中国がこの10年で3倍の経済規模となり、米軍でさえ懸念するほど急速な軍備拡大を進めている。核兵器の増強も急ピッチである。台湾有事が勃発すれば、直近に沖縄県・尖閣諸島、先島諸島を抱え、米軍基地を抱える日本は必ず戦争に巻き込まれる。米軍は台湾防衛に集中する。米軍は、自衛隊に「自分の国は自分たちで守ってほしい」というであろう。
しかし、自衛隊には9回の裏まで戦う余力はない。弾がない。部品がない。兵隊が足りない。薬がない。医師が足りない。平時の法制でがんじがらめだ。9回の裏まで戦うのなら、GDP(国内総生産)比2%の防衛費でも足りないのである。
■兼原信克(かねはら・のぶかつ) 1959年、山口県生まれ。81年に東大法学部を卒業し、外務省入省。北米局日米安全保障条約課長、総合外交政策局総務課長、国際法局長などを歴任。第2次安倍晋三政権で、内閣官房副長官補(外政担当)、国家安全保障局次長を務める。19年退官。現在、同志社大学特別客員教授。15年、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受勲。著書・共著に『戦略外交原論』(日本経済新聞出版)、『安全保障戦略』(同)、『歴史の教訓』(新潮新書)、『日本の対中大戦略』(PHP新書)、『国難に立ち向かう新国防論』(ビジネス社)など。