「東京を暗黒にして革命をやるつもりだ」共産党が画策していた電力供給の破壊…そのとき“右翼の黒幕”が行った豪快すぎる“武力革命への対抗手段”

戦前期、非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長として武装闘争を指導。その後、母が自害したことを獄中で知り、転向を表明。そして、戦後には右翼の黒幕となり、共産党を襲撃するようになる……。なんとも振れ幅の大きな前半生を生きた男がかつて日本にいた。男の名前は田中清玄という。
昭和の怪物と称されることも多い田中清玄氏。しかし、これまで、彼の本当の姿は明らかにされてこなかった。そんな中、ジャーナリストとして活躍する徳本栄一郎氏は、著書『 田中清玄 二十世紀を駆け抜けた快男児 』(文藝春秋)で、謎多き男の実像に迫った。ここでは同書の一部を抜粋。終戦直後、共産党の武力革命の標的となった、現・東京電力の発電所での「電源防衛戦」における、田中氏の暗躍ぶりについて紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)
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会津にやって来た異様な集団
会津若松の近代は、血みどろの悲劇と共に始まった。明治維新の際の戊辰戦争である。
幕末の会津藩主、松平容保は、京都守護職として、尊王攘夷派の薩摩や長州を厳しく取り締まった。それに恨みを抱く者も多く、江戸の無血開城後、官軍は進撃を続け、戦火は会津へ迫った。
藩士らは、本拠の若松城に立て籠もって抵抗したが、最新式の大砲を持つ官軍の前に為す術もなかった。激しい砲撃で、城内には死傷者が溢れ、足手まといにならぬよう、城下の屋敷で婦女子が自刃した。
凄惨な戦いの記憶は、会津の悲劇として今も語り継がれる。
その戊辰戦争から80年余り経った1950年の夏、市内には、再び戦火が迫りくるような緊迫した空気が漂っていた。
と言っても、今度やって来たのは、官軍ではない。
東京から続々と乗り込んだのは、目つきの鋭い復員兵や元特攻隊員、空手の達人の大学生たちだ。中には、背中一面に刺青を彫ったヤクザもいて、まさに異様な風体の集団であった。
何かを探るように城下を闊歩し、共産党のポスターがあると、乱暴に引きがす。それを見咎め、ヒステリックに抗議する者がいれば、無言のまま、胸倉をんで殴り倒した。あちこちで乱闘も見られ、一体、何が起きているのかと市民は囁き合った。
謎の男たちの正体は…
騒動の最中の8月上旬、会津若松駅に、この集団の親玉らしき男が降り立った。
年の頃は40代半ば、痩せ型の、刺すような目差しで、当時では珍しい、背広に蝶ネクタイ姿である。プラットホームに降りると、出迎えた数人の用心棒が傍らについた。
男の名前は、田中清玄、東京の築地で三幸建設という会社を経営する実業家だ。
だが、彼が会津入りしたのは、橋や道路の工事の指揮のためではない。猪苗代湖から流れる日橋川、その上流に位置し、首都の電力供給基地である猪苗代第一発電所、それを共産党の破壊から守るためである。

戦後史の裏で暗躍して、どこかへ去っていった謎の男たち、それが田中率いる「電源防衛隊」だった。ドラマは、一人の若者が会津に送り込まれたところから始まる。
敗戦から4年後、1949年の夏、まだ復員兵も目立つ会津若松駅で、太田義人は、期待と不安の混じった目で行き交う人を眺めていた。長身が人目を引くが、顔には、まだ学生と言っても通用するあどけなさを残していた。
当然である。その春、東京大学を卒業して三幸建設に入社、たった数ヵ月で、いきなり会津出張所長に抜擢されたのだ。
本社では経理部だったが、これから猪苗代の山中で、年上の労務者を指揮せねばならない。日橋川に架かる橋や道路の工事の事務だが、それが、あくまで仮の姿なのはよく分かっていた。自分の正体は、当分、絶対に知られてはならない。
まるで敵地に潜入する工作員だが、これも思えば、あの日、田中と出会ってから運命付けられていたのかもしれない。
金回りがいいという、大学空手部の先輩
「あの人は昔、東大の空手部にいてね、私も空手をやってたんで先輩に当たるんですよ。戦争中、入学したはいいけど、すぐ一年で海軍に入った。それで敗戦後、和歌山で海外からの引き揚げの世話をしておった。それで復学したんだが、先輩に田中清玄というのがいて、横浜で神中組っていう会社をやってて、金回りがいいっていうんだ。それで、カンパをもらいに行ったのが、そもそもの始まりですよ」
北海道室蘭出身の太田は、幼い頃、両親に連れられて、台湾に移り住んだ。戦争中、東京帝国大学の文学部インド哲学科に入学したが、すぐ海軍予備学生として兵学校に入り、少尉で終戦を迎えた。
その後は、和歌山県の田辺で、海外からの引き揚げ業務に従事し、四六年暮れに東大へ復学した。だが、古巣の空手部へ顔を出すと、戦後の混乱で活動資金もない。監督兼主将の太田は、部員らと警備のバイトに精を出すが、所詮、焼け石に水だった。
「共産党が発電所をぶっ壊そうとしてる」
そんな時、部室の机で、長い間埃を被っていた古い冊子が目に入った。開くと、創立以来の空手部員の名簿である。それを頼りに先輩を訪ねて回り、カンパを募ることにしたのだった。
「それで、神中組が三幸建設に変わって、大学を卒業する時、『お前、これからどうする。よかったら、うちに来んか』と。『空手続けたけりゃ続けていいし、大学院行きたきゃ行っていい』って、随分いいこと言うんでね。それで、まぁ、大学の先輩という感じで入社したんです」
そして、経理部に配属されて数ヵ月経ったある日、太田は突然、社長室に呼び出された。
「すぐに会津若松の猪苗代に行け、って言うんです。共産党が発電所をぶっ壊そうとしてる、東京を暗黒にして革命をやるつもりだ、とにかく行って準備しろ、後で行動隊を送る、と。確か、5000円もらって行きましたね。行くと、発電所で赤旗立てて朝礼やってるんだ。インターナショナル、歌ってね。でも、課長も係長もびびっちゃって何もできない。地元の警察は、『うちも、どうしていいか分かりません』なんて言ってるし」
労働組合運動の先駆となった電産労組
若い太田が見たのは、まるで共産党の解放区のような光景だった。戦前、治安維持法で弾圧された共産党は、連合国総司令部(GHQ)によって合法化された。そして、自由を得た彼らは、次第に過激化していく。
一部は公然と武力革命を唱え、その波は政界から官界、経済界、言論界まで及んだ。その格好の標的となったのが日本発送電、いわゆる日発だった。戦前に発足した国策会社で、全国の発電と送電を一手に担い、後にその一部は関東配電と合併し、東京電力となる。その労働組合が、共産党に牛耳られていたのだ。
当時の関東配電の理事で、労務部長として組合と真っ向からぶつかったのが、木川田一隆である。後年、東京電力の社長と会長を歴任したが、回顧録で、生々しい証言を残している。
「アメリカの占領政策は、日本人が予想したよりもはるかにきびしいものだった。きびしいばかりではなく、次々と矢継ぎ早に手を打ってきた。電気事業の受けた第一の大きなウネリは、労働大衆の解放により、怒濤のように押し寄せてきた労働組合運動であった。その先駆としてリーダーとしてわれわれの前に立ちはだかったのは電産(日本電気産業労働組合)だったからである」(『私の履歴書 経済人13』日本経済新聞社)
交渉とは言えない修羅場
そして、電産執行部は、賃上げや労働協約の締結など、次々と要求を出した。それに対し、日発と各配電会社は、電気事業経営者会議を設立、組合との団体交渉に臨んだ。こう言うと、ありきたりの組合運動のようにも聞こえる。
だが、それは、およそ交渉とは言えない修羅場だった。木川田の回想を続ける。
「戦時中、職場を死守し、会社のためには命をささげると誓ったひとびとが、こんどは赤旗をふりまわし、社長や役員をへいげいして、自己批判させるようなことになってしまった。関東配電本社の4階ホールは、一時電産が占領し、わたくしは地下室で、賄の親父とボソボソ食事をとる日がつづいた。かつては日本の電力の宗家ともいうべき場所が、完全に赤旗に包まれ、怒号はくり返された。わたくしは昼夜の別なく、激情にわく多数の組合員に包囲されながら、はげしい折衝をつづけねばならなかった」(同)
「バカと呼ばれ、つらを洗って来い! とどなられるのは日常のこと。その罵声の中には、いつも女闘士のカン高い声がまじっていた。わたくしの会社のある支店長のごときは、非民主的と呼ばれて、組合幹部の前に土下座してあやまらされるといった暴挙が随所に行なわれた。経営権を守るどころか、経営側の人格は完全に蔑視される有様であった」(同)
「背後で操っているのはソ連」という主張
こうした事例は、大なり小なり他の業種でも見られた。いわば、国中が左翼思想に覆われる中、いち早く共産党の脅威を指摘したのが、田中だった。そして、電産の背後に、単なる組合活動以上の意図を感じ取ったらしい。
当時のインタビューに本人の言葉がある。
「日発は共産党の牙城であり、われわれは昨年の夏から準備して、この三月から対共産党直接壊滅攻勢の火蓋を切ったものです。われわれとしては命をかけて電源防衛の配置についてきた」(「産業と貿易」1950年11月号)
「もはや共産党自体は日本の労働者階級の前衛党ではなくて、ソ連赤軍の第五列に変質して来ています。今日の共産党はソ連の赤軍を日本に導入し、彼らの軍政権を樹立させるための第五列部隊だという点が本質でしょう」(同)
また、猪苗代周辺の村議会も共産党が押さえ、ちょっと反共的な発言をすれば吊し上げられ、脅迫され、行方不明になった者さえいるとし、
「こんな暴力沙汰はザラですよ。そこは赤色暴力地帯だ。これが一体、民主々義ですか……。笑わせますョ……。労働省や通産省の役人でわれわれの電源防衛運動に反対するって云うなら、自分で発電所を回ってから文句を云えッてもんですよ」(同)
電産を背後で操っているのはソ連で、その最終目標は、日本の共産革命だ。そのため、基幹産業の電力供給を破壊し、騒乱状態を作り出そうとしているというのだ。
武装闘争路線へ走った共産主義運動
強烈な告発だが、昭和の時代、それも戦争直後を見れば、必ずしも荒唐無稽ではなかった。
1949年1月の総選挙で、共産党は298万票、35議席という空前の支持を集めた。国政への影響力も増すが、翌年5月、GHQのダグラス・マッカーサー総司令官は、共産党非難の声明を発表、翌月に、徳田球一や野坂参三ら中央委員24名を公職追放した。法と秩序を蔑視し、虚偽と扇動、破壊的手段で日本の立憲政府打倒に努めている、との理由だった。
そして、51年10月、共産党は、第5回全国協議会で新しい綱領、いわゆる「51年綱領」を採択した。
それまでの方針を転換し、暴力革命を採ることを表明、武装闘争路線へ走ったのである。その前年、国際共産主義組織コミンフォルムから、平和革命路線を批判されたのも、背景にある。
治安当局の焦り
以降、共産党はこれに沿って非合法活動を展開し、世間に衝撃を与えた。54年に国家地方警察本部が作った報告からも、治安当局の焦りが、はっきり伝わる。
「共産党の革命方式は、国会に議席を多数占めることによって政権を獲得するとか、単にゼネストやデモの圧力によって政権を獲得するとかという方式のものではなく、労働者のゼネスト武装蜂起とこれを援護する都市及び農村の遊撃戦によって政権を奪取しようとするものである」(『共産主義運動の実態』国家地方警察本部)
そして、党には軍事委員会が、各地の司令部には中核自衛隊、独立遊撃隊といった実力部隊が置かれた。
彼らは「武装行動綱領」も作り、基幹産業の労働者に食い込み、武器の調達と訓練をしているとされた。報告ではそれを裏づける事実として、50年代初めの武装活動を列記した。党員の家宅捜索で、拳銃やダイナマイトが見つかり、九州や福島、青森で、射撃や火炎瓶の訓練が行われた。
「共産党が発電所をぶっ壊そうとしてる」
そして同時期、各地の発電所や送電施設で、原因不明の事故や事件が相次いでいたのだ。
水力発電所で鉄管が突如、破裂し、高圧送電線が切断される事例が続いた。猪苗代でも夜、戸ノ口堰第三発電所に賊が侵入し、変圧器を冷やす送風機を盗み出そうとした。幸い、宿直員が発見し、賊は逃走したが、下手をすると変圧器が焼き切れたかもしれない。国鉄の常磐線でも信号機が壊され、警察電話が切断される事件があった。
猪苗代は首都圏の生命線だった。
ここは、日橋川上流の第一発電所を始め、小野川、秋元、沼ノ倉などいくつもの水力発電所を抱えていた。総発電量は50万キロワットに達し、京浜地区の需要のじつに3分の1をまかない、大正時代に完成した送電線で首都へ送られる。その出発点が、第一発電所付近の膳棚開閉所で、一帯の電力はここに集められた。
つまり、この開閉所のスイッチ一つで大停電が起き、首都は混乱に陥る。
「共産党が発電所をぶっ壊そうとしてる、東京を暗黒にして革命をやるつもりだ」という田中の言葉は、それを指していた。
社員の名簿を手に入れて…
共産党の脅威を唱えたのは田中だけではない。地元紙の福島民報も当時、社説でこう書いている。
「たとえ赤旗をふり回そうが、デモをしようが政治的信念の宣伝としてすなおに受けとれるのだが、そうでなくてそれらはウワベのことで、何か別の破壊的意図をもつていたり、または別の仕事をやるのが本旨で政治結社というのは表面上のつくろいに過ぎず、正体は暴力団体であつたり、テロ陰謀団であつたりしたのでは政治活動は自由だからという理由だけで、そのまま手をつけずにおくことは出来ないのである」(「福島民報」1950年6月7日)
風雲急を告げる中、その防衛の最前線に立ったのが25歳の太田だった。
「まず、発電所の所長に挨拶に行って、社員の名簿を手に入れたんです。二百数十名かのね。それを電産と民同に色分けして、下調べから始めた。民同派は最初、3名ぐらいしかいなかったね。そういう連中とも会いました。警察は全然ダメで、どうしていいか分からないんだ。こっちに『いろいろ、ご指導下さい』なんて言うし。警察力もないから、共産党もしたい放題やってたね」
先に述べた通り、日発の労働組合の電産は共産党が牛耳っていた。役員に罵声を浴びせたのは彼らで、それとは別に、共産党を排した民主化同盟派、いわゆる民同も存在した。その後者を支援し、組合の支配権を奪い取るという戦略だった。
作業服を纏った太田は、工事現場の指揮を装いながら、社員たちの様子を探った。少しでも組合に不満を漏らせば、それとなく勧誘をかけてみる。
その間、若松市内に下宿したのだが、そこは何と、共産党の女性党員の自宅だった。正体がバレたらただでは済まないが、情報収集の一環と腹をくくったのだろう。
共産党討伐部隊による「第二工事」
そうこうしているうちに、東京の本社から「行動隊」が到着した。その面々を出迎えた際、太田は思わず、目を大きく見開いたという。
「田中が、配下の勇ましいのを送ったんだが、凄い連中がやって来た。復員兵や特攻隊員、大学で空手やっとった学生、あと、背中に彫り物入れた本物のヤクザね。一部は、田中が神中組の頃から付き合ってたと思う。昔、横浜で土木会社を始めた時、組んだのが前科6犯の男だし。所長に言って、皆、発電所で雇いましたよ」
社長直属で、ごく一部の社員しか存在を知らない、共産党討伐の部隊、それが三幸建設から来た行動隊だった。とても堅気に見えない集団の出現に、さぞ共産党も驚いたはずだ。
「で、猪苗代で工事をやりながら、若松市内で共産党のビラをがす。こっちのビラを貼ってね。連中と殴り合いもしょっちゅうだけど、負けちゃいけないから、人員を増強してやった。最後は、こっちが勝ったね。こういうのは、うちで『第二工事』って呼んでたけど」
橋や道路の修理が「第一工事」で、共産党討伐が「第二工事」か。
平気で役員を怒鳴りつける若い党員も、本職のヤクザには敵わなかった。やがて市内からは共産党のポスターが消え、代わりに「ソ連の犬を叩き出せ!」「民族の産業はわれわれの手で守れ!」といった言葉が目立つようになった。
田中家に出入りしていた大山倍達
また、田中の周囲には空手の達人など、腕に覚えのある者が揃っていた。戦後の武道家として有名な大山倍達も、その一人だ。
大山は、戦後間もない頃に全日本空手道選手権で優勝し、後に渡米。プロレスラーやボクサーと対戦を重ねる。帰国後は、直接打撃制の実戦空手を唱え、国際空手道連盟極真会館を設立し、国内外で多くの弟子を養成した。その彼が、20代の頃、田中のところに出入りしていたのである。
その姿を、おぼろげに覚えているのが、田中の長男の俊太郎だ。終戦直後、田中家は静岡県の三島に居を構えたが、そこへ、大山も姿を見せていた。
「まだ、幼稚園くらいですから。私は、小学校一年から東京なんです。大山倍達さんが、三島の家に来たっていうのは、うろ覚えに覚えてますよ。親父が、『空手の先生だ。お前も、少し習え』みたいなことを言ったのは、記憶にあります」
大山自身が、電源防衛隊に参加したかどうかは不明だ。ただ、田中の後輩の東大空手部に顔を出し、稽古をつけたこともあった。
秘密工作の資金の出どころ
この頃、太田はもう一つ、田中の指示で別動隊を組織していた。共産党に反発する地元の有志や若者を集めた、「会津再建青年同盟」である。
「地元で青年団体も作ったんです。鎌田弌っていう男がいてね。自分と同年代で、意気投合した。一緒にやって、随分助けてもらったね。初め、若松市内は共産党のビラだらけだけど、こっちは青年同盟のを貼った。学生たちを連れて行っては、殴り合いだよ。その鎌田君の上にいたのが、山王丸茂だった」
山王丸茂は、後に福島県経営者協会連合会の専務理事を務めた地元の有力者である。ヤクザも動員した電源防衛には、福島財界からの陰の支援もあったのだった。
だが、ここで疑問なのは共産党討伐の秘密工作、もとい第二工事の資金である。東京からの荒くれ男の旅費や給与、ビラの製作費など結構な金がかかったはずだ。それは一体、どこから捻出したのか。
ちょっと苦笑いしてから、太田が答える。
「そりゃ、やはり電力会社ですよ。自分が事務主任だった時は、工事で20人使うのに10人ばかり余計に入れるんです。本当の工事費に乗せてね。三幸に仕事をくれて、電源防衛の拠点にするということだった。所長に話をつけて、向こうで(現金を)出してもらってました。今から考えると、無茶苦茶だけどね」
紛うことなき裏帳簿である。土木工事の経費を水増しし、共産党討伐の工作資金を捻出した。これらは日発でも、ごく一部の幹部しか知らない、極秘の取り決めだった。
「演説する時も用心棒をつけたね。もう、要するに戦争だから」“右翼の黒幕”が見せた“共産党潰し”のためにとった凄味あふれる行動とは へ続く
(徳本 栄一郎/ノンフィクション出版)