「東京を暗黒にして革命をやるつもりだ」共産党が画策していた電力供給の破壊…そのとき“右翼の黒幕”が行った豪快すぎる“武力革命への対抗手段” から続く
内閣総理大臣・中曽根康弘、山口組三代目組長・田岡一雄、禅僧・山本玄峰、財界の鞍馬天狗・中山素平、全学連委員長・唐牛健太郎、ノーベル賞学者・ハイエク、UAE大統領兼アブダビ首長・ザーイド、神聖ローマ皇帝の末裔・オットー・ハプスブルク大公、そして、昭和天皇……。
国際的な資源外交を裏で操るフィクサーとして、資本主義の真っただ中で暗躍し続けた田中清玄氏は、右、左の別なく幅広く複雑な人間関係を築いてきた。そのぶん、同氏の実像について一言で語ることは難しい。
そんな“昭和の怪物”の在りし日の姿に迫った一冊が、ジャーナリストの徳本栄一郎氏による『 田中清玄 二十世紀を駆け抜けた快男児 』(文藝春秋)だ。ここでは同書の一部を抜粋し、武力革命を画策する共産党を抑え込んだ、田中氏の辣腕ぶりについて紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)
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民同派の総決起大会
1950年8月13日、若松市の中心部にある公会堂は、朝から600名もの群衆が詰めかけ、異様な熱気に満ちていた。猪苗代を始め、東北各地から集まった民同派の組合員、その総決起大会である。
演壇に立った各代表から、次々に電源地帯の状況が報告される。工事用のダイナマイトが紛失した。用心のため、鉄条網のバリケードを設置している。口々に各地の状況を訴えた後、真打ちのように登場したのが、東京から駆けつけた田中だ。
GHQのファイルに、この日の彼の演説内容が記録されている。共産党は食料の自給や重工業の発展などと言ってるが、じつは全く逆の方向を向いている――今こそ、われわれは、自らの力で国を守らねばならない――。
太田によると、田中は時折、自ら反共集会に顔を出し、演説をぶっていたという。
「朝鮮戦争が始まる前、ロシアから復員軍人が帰って来てたでしょ。幻兵団って言って、あれが、日本の革命をやるんだと。共産党はのし上がっていたし、発電所を止めて東京を暗黒化するとか。今の人は想像もできんでしょうが、当時、それだけの情勢があったんだから。そんな時、講演に来てましたよ」
だが、本人の激しい気性と殺気立った会場では、平穏に済むはずもなかった。
「一度、田中がどっかで講演しておったら、会場の隅の方から、野次が飛んだ時があった。『田中清玄! そんなこと言っても、革命が起きたら、お前は真っ先に銃殺だ!』。そしたら、うちの田中が激怒してね。『じゃ、今すぐここで、俺と勝負しろ』って、演壇から降りて、殴りかかろうとするんだ。慌てて止めたけど、相手もビビッて逃げてっちゃった。あの頃は、演説する時も用心棒をつけたね。もう、要するに戦争だから」
こうなると、もはや映画か小説の一場面である。
レッドパージの前哨戦
そして、この若松の総決起大会の様子は、GHQの特別調査局に詳細な報告が送られた。
今から考えると、当然である。この日の大会は、日発からの共産党員の強制排除、「レッドパージ」の前哨戦だったのだ。
8月26日、電気事業経営者会議は電産に対して、全国で2137名を指名解雇すると通告した。電気事業の公共性から不適格と見た者で、円滑な事業運営に非協力的との理由だ。これだけの人員を一気に首切りするのは異例で、共産党排除が狙いなのは明白だった。
日発の会津支社でも125名の解雇が発表され、一部は団体交渉を要求した。だが、太田によると、猪苗代の空気は概ね平穏だったらしい。
「うちの発電所でも、28名ばかり指名解雇したんです。全員を集めてから。普通なら連中も大暴れするが、こっちも周りを固めたからね。支店長にも、空手のボディーガードをつけてた」
三幸建設の事務主任としてやって来て、すでに1年以上が過ぎた。
その間、太田たちの切り崩しで、猪苗代の電産から民同派への大量離脱が起きた。その上、周りを見回すと、目つきの鋭い、お世辞にも柄がいいと言えない男らが睨んでいる。かつて甲高い声で役員を責した党員も、うなだれるしかなかったのだろう。
だが、彼らも、ただでは引き下がらなかった。
警官隊の連携プレイ
解雇通告から3日後、29日の夕方、首を切られた約50名が、若松市内の料亭「水林」に集まった。今後の策を話し合うためだ。そこで酒が入ったかどうかは分からないが、その後、20名ばかりで会津支社へ押しかけようという話になった。
ちょうど守衛の警備が手薄な時間でもある。口々に絶叫しながら、建物に乱入していった。
「今すぐ、支社長を呼べ!」
「解雇の理由を説明しろ!」
居合わせた社員は顔面蒼白となり、呆然と見守るだけである。その瞬間、ドアを蹴破るように現れたのが、またもや電源防衛隊だった。
猛獣が咆哮するような声を上げ、たちまち乱闘が始まった。組合員たちは殴り倒され、叩き伏せられ、敷地の外へ追い出された。
そこへ、タイミングを見計らったように到着したのが、警官隊である。引き渡された者はトラックに乗せられ、署へと連行されていった。
「結局、自分は、会津若松に一年ちょっといたね。それで、全部終わってから東京に引き揚げましたよ」
「右翼の黒幕」の誕生
こうして、会津若松を舞台にした電源防衛は幕を閉じた。
猪苗代第一発電所では赤旗もインターナショナルの合唱も消え、かつての静寂が戻ってきた。日橋川の最上流にあり、赤煉瓦の外壁が美しい建物は、今では日本遺産に認定された。約70年前、ここで血みどろの戦いがあったなどとは信じられない静けさである。
そして、電源防衛は、「右翼の黒幕」という田中のイメージを確立させた。
戦後の混沌とした時代、経営者の誰もが共産党の脅威に凍りついた時、単身で立ち向かったのが、田中だった。その後も、いくつもの大企業の争議で、組合潰しやスト破りの黒幕として名前が隠見していく。財界にとって、彼は救世主であり、恩人でもあった。
当然ながら、対立する共産党からは、激しく憎悪された。
「資本家の走狗」「体制側の黒幕」、ありとあらゆる雑言が浴びせられる。新憲法が認めた労働運動を、力で圧し潰したのだから無理もない。が、その彼らも認めざるを得ない、一つの明確な事実があった。
それは、電源防衛で田中が見せつけた、共産党潰しの技量である。
でっち上げられたスキャンダル
組合の人脈や指揮系統を調べ上げ、誰が、どのぐらいの影響を持っているかをむ。また、彼らの過激さを執拗に宣伝し、一般の労働者から孤立させる。さらに、内部の対抗勢力を支援し、組合の主導権を奪ってしまう。
共産党の強みと弱点、駆け引きを熟知した見事な戦術だった。
必要とあれば荒くれ男を動員し、自らも殴りかかるなど、その行動力は、大企業の青白い役員たちには望むべくもない。
今も太田は、会津での、あるエピソードを忘れられないという。猪苗代の電源防衛の際、最大の障害が皮肉にも、雇い主の日発にいたのだ。
「猪苗代の支社長の中山さんは、技術屋だけど、マルクスを読んでて、共産党の話が分かる。だから、連中と互角に話しちゃうんです。平和な時なら、それでいいよ。だけど、あの時は戦争なんだ。それじゃ、首切りとか、徹底的なことができない」
ここで言う中山とは、日本発送電の猪苗代支社長だった中山俊夫を指す。早稲田大学の電気工学科を出て、日発に入り、後に東京電力の沼津支店長や電源開発の資材部長も務めた。根っからのエンジニアで、電産の組合員とも正面から向かい合う、温厚な性格だったらしい。
だが、この非常時に、彼が現場の責任者だと共産党に勝てないと、太田らは判断した。
とは言え、一下請けの三幸建設に、雇い主を追い出す権限などない。そこへ田中が、ある「友人」を送り込んできたという。
「あの時やって来たのが、元共産党員、筋金入りの活動家だ。それが、一人で会津の山に籠ってね、ずっとビラを書いてるんだ。架空の団体のね。中山さんが、どこそこの芸者と遊んでた、共産党員と会ったとか。それをばら撒いてから、本店に乗り込む。『支社長を替えろ』って。それで、中山さんは首になった。そりゃあ、凄かったよ、共産党の昔の奴は」
現代風に言えば、フェイク・ニュースだろうか。
弾圧を生き抜いた者の凄み
自分たちに目障りな人物や組織のスキャンダルを流し、社会的に葬ってしまう。今ならビラでなく、ソーシャルメディアだが、すでに半世紀以上も前、それを自在に駆使していた。戦後、流行りで共産党に入った連中とは違う、戦前の弾圧を生き抜いた者の凄みである。
それは同時に、田中の生涯を通じた大いなる矛盾、ドラマ性を、見事に照らし出してもいた。そして、彼のいかがわしいイメージを増幅もした。その理由を最もよく理解していたのは、当の本人だったはずだ。
かつて過激なストライキを扇動し、警官を殺傷し、暴力革命を画策したのは、他ならぬ彼なのだ。それは左翼運動にのめり込んだ青春時代の、決して消えない傷でもあった。田中清玄は共産党員、それも最高責任者の委員長だった。
(徳本 栄一郎/ノンフィクション出版)