立岩陽一郎【ファクトチェック・ニッポン!】
安倍晋三元首相の国葬が9月27日に開かれることが正式に決まった。警備費を除いても2億5000万円かかるというが、国会で議論されることもない決定だった。ある意味、この元首相の国葬にふさわしい。この元首相は国会を軽視し続けることで強いリーダー像を演出した政治家だ。国会で事実と異なる(虚偽とまでは言わない)発言を乱発し、時には野党議員にヤジを飛ばした。重要な決定は閣議決定によって進めた。恐らく、その政治家に最もふさわしい国葬の決定だといえるだろう。
一方で、その元首相が民主主義に殉じたかのように装う動きには注意が必要だ。岸田首相は国葬の判断について「民主主義の根幹たる選挙運動中の非業の死」だったことを理由のひとつに挙げた。加えて、元首相の殺害事件をテロとしてとらえる識者も少なくない。本当にそうなのか? ここは、明確にしておかないといけない。
昭和のテロとして語られる事件のひとつが、1932年に海軍の青年将校が中心となって犬養首相を射殺した5.15事件だ。「話せばわかる」と将校を制した犬養首相を「問答無用」と射殺したエピソードはあまりにも有名だ。戦後では、60年に当時の社会党委員長、浅沼稲次郎氏を山口二矢が刺殺した事件だろう。
青年将校は当時の不況と貧困とそれらをもたらした政治状況に対して、山口は日本の「赤化」を進める社会党に対する反発という背景があったとされる。認められはしないが、そこには彼らなりの義憤があった。では、山上容疑者はどうか? まだ逮捕段階の供述ではあるが、少なくとも、容疑者の言葉から義憤を見いだすことはできない。
■山上容疑者の凶行は、私怨であり私憤
事実はどうであれ、旧統一教会が安倍元首相との親密さを教団内で流布し、それが母親を通じて山上容疑者に伝わり、教団によって自分の人生が破壊されたと考えた容疑者が凶行に及んだと考えるのが合理的だ。それは義憤ではない。私怨であり私憤だ。山上容疑者は安倍元首相を殺害することで社会を変えようとしたのか? そう考えるのには、相当な無理がある。
ただし、声高に国葬を批判する気はない。やりたければやればいい。それは戦後の唯一の前例として吉田茂元首相が国葬になったことからもいえる。吉田氏は戦中に軍部と一線を画したことや戦後の日本を軽武装経済重視に導いたことなどから高く評価されているが、一方で、民主主義とは相いれない言動も見られた。
例えば、戦後の連合軍の占領期に放送の民主化と自由化を確立するために電波管理委員会が設置された。政府から独立して放送を監督する機関であり、特に民放開局に大きな役割を果たした。この設置に一貫して反対し、日本が主権を回復するとすぐに廃止して放送を政府の監督下に置いたのが吉田氏だった。そういう人物も国葬なのだから、安倍元首相が国葬になっても不思議ではない。
知人のジャーナリストが今度の国葬を「民主主義の国葬」と評した。笑えない冗談だ。そうならないように、我々は覚悟しなければならない。
(立岩陽一郎/ジャーナリスト)