必死に逃げ回る人間を的にするドッジボールは「人間狩猟ゲーム=弱肉強食思想」の教育だと断言できる理由

※本稿は、松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら社)の一部を再編集したものです。
休み時間に、一人ぼっちの子どもがいる。担任としては、当然気になる。もし気付かないとすれば、これは観察力において問題がある。クラスの子どもに関心があれば、またある程度の力量があるならば、気になって当然なのである。
もう一人ないしは二人、よく気にしている人がいる。その子の親である。我が子が教室で一人ぼっちというのは、真っ先に解決すべき一大事と考えていることが結構ある。面談でよく聞かれることの上位に「他のお友だちと上手くやれているでしょうか」が来ることからも、その心配ぶりが伺える。
担任は、子どもを「みんな」の輪に入れようと試行錯誤することになる。休み時間に声をかけるのはもちろん、全員遊びの日を設定して、確実に輪に入るように仕掛ける。これ自体は悪いことではない。これによって助かる子どももいる。特に、本当はみんなの輪の中に入りたいのに上手く入れない子どもにとっては意味がある。
ここで大切なのは、全員がそう思っているわけではないと理解しておくことである。中には、休み時間は一人でのんびり過ごす方が心地よいという子どもも、クラス内に存在する。
不親切教師の休み時間の原則としては、子どもに不必要に関わり過ぎない。子どもの主体性を尊重するのであれば、やたらな声掛けは迷惑となる。助けが必要ならば手を差し伸べるが、心の内はなかなかわからない。どうしても気になるようなら、たまに自分も教室で一緒に日向ぼっこでもして過ごす機会をつくればいいのである。それをして初めて見えることもある。
次は、私が「一人ぼっち」を過剰に怖がる親や子どもたちに向けて書いた言葉である。(『「考える力」を育む 子どものための名言集』金田一秀穂監修 池田書店 167頁)
一人でいる。健全なことです。人間は、本来一人なのです。一人で立てる人間同士が必要に応じて助け合うというのが健全な社会です。寄りかかっているというのとは違うのです。
一人でいるということを肯定する基本姿勢が必要である。これは大人にも言える。やたらと周りとつるんで大声で騒ぐというのは、自信のなさと不安の裏返しである。本当に自信のある人は、一人でいようがたくさんの人といようが、泰然自若としているものである。
休み時間は、休憩する時間である。仲間と外で思い切り遊ぶ行為が休憩になる子どももいれば、ゆったり過ごすことが休憩になる子どももいる。不親切教師のスタンスをもって、一人でいたい子どもの権利をゆったりと見守る姿勢をもちたい。
休み時間、子どもに「何して遊ぼう?」と問いかけると必ず挙がるものの一つが、ドッジボールである。そこで「さあ、みんなでやろう!」と声をかけ、みんなが「イエーイ!」となる。
今、あえて「みんな」という言葉を使った。この「みんな」という類の言葉には特に気を付ける必要がある。なぜかと言うと、それに同調しない人も必ず一定数以上存在するのだが、「みんな」という言葉を使うことによってそれらの人の存在を見えなくするからである。
そして彼らを「ノリが悪い」マイノリティとして苦しませる結果につながる。
先に結論から言う。休み時間にドッジボールをみんなでやろうと誘うのはやめよう。
「一人ぼっちになりがちな子どもをみんなの輪の中に入れよう」という親切心も、このドッジボールという遊びにおいては特に有難迷惑になりやすい。
なぜならば、ドッジボールでは、活躍するのが往々にして「一部の強者のみ」という事態になり、その他大勢は、「時々投げるチャンスが来ることがある」という程度になるからである。そして、強い子どもの投げるボールに当たると、ものすごく痛い。相手の手元が狂うと、顔面直撃という悲劇も起こり得る。そのため「当たりたくないからずっと外野」という超消極的参加の子どもも出る。この子どもたちは、本心としてはもう参加自体したくないのである。「先生はわざわざ気を遣って声をかけてくれているのかもしれないけれど、不親切でいいから本当に放っておいて欲しい」である。
この「逃げ回る人間を的にして当てる」ゲームは、狩猟遊びそのものである。必死に逃げ回る獲物を、狙いすまして撃ち殺し、悦に入る。古くから世界各国で行われているあたり、動物としての人間が本能的に好む遊びであると思われる。
言うなれば、ドッジボールにおいて、強者にとって弱者は必死に逃げ回る面白い「的」であり「獲物」である。弱肉強食教育推進運動である。実際、かつてこんな光景を目にしたことがある。全学年の同じ組の子どもが一緒になって遊ぶ「縦割り遊び」で、ドッジボールをレクリエーションとして高学年が企画した。そこで、心ない一部の高学年男子が容赦なく低学年の子どもたちにバシバシとボールをぶつけ、大喜びしていた。最低である。
これを学校教育で行うべきなのか。学校で育てるべきは、「思いやり」や「協働」といった社会の中で協力して生きる力である。利己的な「動物的本能」ではない。ドッジボールで育つ力は、はっきり言って、必要なものと真逆の方向である。
そういう中でこその譲り合いを学ばせる、という意図も、あるにはある。しかし現実は、強者が弱者に譲るだけで、他の学習のような学び合いにはならない。
実際、体育科の種目にドッジボールはない。なぜかと言うと、この運動には次の運動への発展性がないからである。学習指導要領に定められた「ゴール型」「ネット型」「ベースボール型」のいずれにも当てはまらない。人間を的にして楽しむような運動は、体育科教育には存在しないのである。
最近は、これを電子空間上で行う取り組みも出てきた。実際のボールが当たるわけではないので、身体的な痛さがないのはいい。ただ、人間を的にするという基本は同じである。新しいエンターテインメントゲームとしては有り得ると思うが、体育科教育、もしくは小学生への教育そのものとしていいものであるかどうかについては、正直懐疑的である。
実はこのドッジボールの問題点に気付いたきっかけは、海外で暮らしていた子どもたちからの一言だった。これまで外国の学校で学んできた子どもたちが日本に来て、日本の学校文化を学ぶ。そこでびっくりする遊びが、このドッジボールなのである。これを見た時の感想は、次の一言に集約される。
「何なのこれは?」
海外では、一切やったことがなかったらしい。そして「なぜ人に思い切りボールをぶつけていいのか」が、どうしても理解できなかったらしい(通常は明らかにダメな行為であるので、考えてみれば当然である)。
ドッジボールは、血気盛んでエネルギーの有り余った子ども同士の遊びとして留めておくことが妥当であり、本当は読書でもして過ごしたい穏やかな性質の子どもを巻き込まない方がいい。
多様性を認めるこの時代だからこそ、そういった自由を認める姿勢も必要なのではないだろうか。親切心からどうしても「みんな」で遊びたいのであれば、せめてもう少し穏やかなものを選択しようという提案である。
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(公立小学校教員 松尾 英明)