シベリア抑留体験者や遺族らでつくる財団法人「全国強制抑留者協会」(全抑協、東京都)は今秋、第二次世界大戦後に旧ソ連などで労働を強制され亡くなった抑留者らを追悼する慰霊墓参を3年ぶりに実施する。しかし、再開するのはロシア以外の国への墓参のみ。ウクライナ侵攻による状況を考慮してロシアへの派遣は見送らざるを得なかった。それでも墓参再開を喜ぶ元抑留者たち。その思いを聞いた。
100歳超えてなお湧き出す力
極寒の地で無念の死を遂げた犠牲者らを慰霊する同協会の墓参は1990年に始まり、これまでにロシア極東や中央アジアなど計約800地域の埋葬地に、延べ2287人を派遣してきた。2020、21年は新型コロナウイルスの影響で中止を余儀なくされたが、22年5~6月、墓参を望む声を受けて再開方針を決めた。派遣地はモンゴルとウズベキスタンで、協会事務局によると、モンゴルへは9月9日から8日間、ウズベキスタンへは10月14日から8日間の予定だ。
「わしらは(ソ連に)だまされて拉致されたんや。25歳とか26歳とかの若者がね、そのまま死んでいった」。モンゴル・ウランバートルで2年以上の抑留生活を送った同会会長の山田秀三さん(104)=富山県南砺市=は語気を強める。
山田さんは41年に召集されて旧満州(現中国東北部)へ渡り、飛行場で警備にあたっていた錦州で終戦を迎えた。日本に帰れると思っていたら、ソ連軍の貨車に20日間ほど乗せられ、食事も水以外は一切与えられず、隠し持っていた米や乾パンでしのぎ、到着したのが、ソ連の勢力下にあったウランバートル。極寒と飢えに耐えながらレンガ作りなどに携わり、47年11月にようやく帰国できた。
「ウランバートルでは、わしらあ、捕虜でしょ。(強制労働の)作業所と、(寝るための)収容所の間を行ったり来たりしただけで、野原しか見とらんのよ。収容所いうのは、野菜貯蔵庫だった穴蔵でねえ……」
9月22日に105歳になる山田さん。耳はすっかり遠くなり、大きな声で話しかけてもなかなか伝わらないが、抑留中の体験談は話し出すと止まらない。息子の妻の由理枝さん(68)は「この話、2時間続きますよ」と記者に耳打ちした。山田さんの話しぶりは力強い。「私はもう数え切れないくらいお義父(とう)さんの話を聞いてきましたが、私がそれを伝えるのと、(抑留を体験した)当事者が話すのとではやっぱり違うでしょ」と由理枝さん。「抑留の歴史を伝えることだけは自分が最後までやるという気持ちがある。だからここまで長生きできるんだと思います」と語る。
「とんでもないことやっとる」ロシア
戦後、全抑協富山県支部長を長く務め、19年に全国協会の会長に就いた。ハバロフスクなど旧ソ連地域へは08年までに墓参で計4回訪れていたが、自身が抑留されたモンゴルへの墓参は「みじめで悲しい記憶しかない」と長い間断り続けてきた。家族に支えられ、初めてモンゴルに墓参したのは08年7月。ウランバートルで日本人抑留死亡者慰霊碑を目にし、涙があふれた。
「実際にその地へ行くとね、祖国に帰ることもできず、そこで眠っていると思うと家族はね、その土に手を当てて泣くんですよ。ああ、こんな所で亡くなられたのかあ、とね」。山田さんは抑留の記憶を継承するため墓参が欠かせないと考えている。記者が「墓参できなければ眠っている戦友たちはさみしがるでしょうね」と紙に書いて渡すと、「そうですよ。だから、どうやっても墓参はやらねばならない」と力強く言い切った。高齢のため今回の墓参には参加できないが、「人間の命の尊さっちゅうもんを全然考えとらん戦争」で死んでいった戦友たちの無念を語り継ぐためにも墓参再開を歓迎する。
戦争や強制連行のような惨劇が再び起こらないよう願いながら、コロナ禍までは毎年行われてきた墓参だが、ウクライナ侵攻を続けるロシアへの墓参は再開の見通しすら立たない。参加する遺族らの高齢化が進み、一年一年が大切な状況となる中、「ロシアはとんでもないことをやっとる。プーチン(大統領)、あれは戦争犯罪人。戦争は絶対にやったらいかんのや、戦争は」。山田さんは何度もそう繰り返し、悲痛と苦渋の色をにじませた。【萱原健一】
シベリア抑留
日本が第二次大戦に敗戦した後の1945年8月23日以降、旧ソ連の指導者スターリンの指令で、旧満州などにいた日本の将兵や民間人ら約60万人が現在のロシア極東や中央アジアのカザフスタン、ウクライナを含む旧ソ連全土、さらにソ連の勢力下にあったモンゴルなどに連行された。抑留期間は最長11年間。鉄道建設や木材伐採などに強制的に従事させられ、飢えと寒さ、重労働で約6万人が亡くなった。