なぜ旧統一教会は自民党議員にアプローチするのか…議員たちも気づいていない本当の理由

※本稿は、島田裕巳『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
旧統一教会がさまざまな形で自民党の議員と関係を持つ試みをしてきたことは事実だが、果たして実際の影響力はどれだけのものなのだろうか。
200万人を超える創価学会が、多くの票を稼ぎ出し、公明党の議員、さらには連立を組む自民党の議員が選挙で当選することに大きく貢献してきたことは間違いない。
だが、その100分の1程度の旧統一教会に、絶大な集票能力があるはずもない。教団の関係者は、議員に対して、あたかも大きな力があるかのように見せかけたかもしれないが、多くの信者を抱えているわけではないので、稼ぎ出せる票も限られている。
自民党と旧統一教会の政策に合致するところがあるにしても、それは、旧統一教会が自民党の政策にすり寄った結果であり、旧統一教会の政策が自民党に取り入れられたわけではない。それは、旧統一教会よりははるかに自民党に貢献しているはずの創価学会の考え方や政策が自民党に大幅に反映されていないところに示されている。
そもそも、ここで重要なのは、旧統一教会の考える政治がいかなるものなのかである。
一般に政治は、それぞれの人間の利害と深くかかわっている。
たとえば、ある人間が特定の政党を支持するときには、その政党が勢力を拡大し、政権を担うようになれば、自己の利害がそこに反映されると考えるからである。
たとえば、日本医師会は日本医師連盟という政治団体を作り、自民党の候補者の支援をしてきた。そのことを通して医療行政に影響力を発揮しようとしてきたからで、そこには医師としての利害が深くかかわっている。これは、他の圧力団体全般にも言えることである。
では、旧統一教会が政治にかかわる利害はいかなるものなのだろうか。
一連の騒動のなかで、選挙の際に旧統一教会の支援を受けた自民党の議員が一部、教団の示した「推薦確認書」に署名していることが明らかになった。それは、次のようなものである。
「推薦確認書」 一、憲法を改正し、安全保障体制を強化する 一、家庭教育支援法及び青少年健全育成基本法の国会での制定に取り組む 一、『LGBT』問題、同性婚合法化に関しては慎重に扱う 一、アジアと日本の平和と繁栄を目指す「日韓トンネル」の実現を推進する 一、国内外の共産主義勢力、文化共産主義勢力の攻勢を阻止する
以上の趣旨に賛同し、平和大使協議会及び世界平和議員連合に入会すると共に基本理念セミナーに参加する
たしかに、日韓トンネルは、文鮮明の発案によるプロジェクトである。また、共産主義に対抗することは国際勝共連合が結成された目的である。文化共産主義とは、共産主義の価値観にもとづいて家庭を崩壊させる思想としてとらえられている。家庭教育支援法などの制定をめざし、同姓婚合法化に反対することは、名称変更された世界平和統一家庭連合の目的に合致している。
しかし、憲法の改正や安保体制の強化となれば、むしろ自民党の長年にわたる政策である。それに、共産主義の攻勢を阻止するといっても、ソ連邦が崩壊し、冷戦に終止符が打たれてからは、この点をめぐる情勢は大きく変わった。あるいは、家庭を重視する考え方も、自民党を含めた保守勢力が主張してきたことで、旧統一教会に独自なものではない。少なくとも、旧統一教会の影響によって、確認書に示されたことが自民党の政策に反映されたわけではない。
旧統一教会の信者が、自民党の議員の選挙活動を手助けしてきたことは事実である。秘書を送り込むような場合もある。その見返りとして、自民党の議員は、旧統一教会関連団体のイベントに参加し、祝電などを送ってきた。
そうした自民党と旧統一教会の関係は、マスコミには「ずぶずぶ」と評されるが、果たして祝電を送っただけで、そう評価できるものなのだろうか。議員のなかには、相手がいかなる団体であろうと、依頼されれば祝電を送るとしている者もある。
日韓トンネルなどは、日本と韓国を海底トンネルで結ぼうという壮大なプロジェクトで、実現すれば巨額の利権が発生するはずだが、いっこうに実現される気配はない。そもそも不可能なプロジェクトというとらえ方もされている。
勝共連合が発足したのは1968年のことである。その目的は、冷戦下において、ソ連や中国などの共産主義勢力と戦うことにあった。また、日本国内については、日本共産党と対抗する意味があった。
だからこそ、もともと反共思想を持っていた笹川良一が名誉会長になり、岸信介や児玉誉士夫が創立メンバーとなったわけである。保守勢力と勝共連合は、反共運動を展開するという点で共鳴し、特に、国内で共産党を批判し、その勢力を抑えることをめざしてきた。
しかし、笹川はわずか4年で名誉会長の職を退き、勝共連合の運動から手を引いている。それは、彼が全日本空手道連盟の活動に力を入れ、共産圏との交流をしなければならなかったからである。笹川は、反共運動よりも共産圏を含めた国際交流に意義を見出した。そこには、1970年代に入って、左翼の政治運動、学生運動が退潮したことが影響していた。共産主義に対する危機感が薄れたのだ。
1991年末にソ連が解体されると、長く続いた冷戦構造に終止符が打たれた。もちろん、中国や北朝鮮、あるいはベトナムといった共産主義、社会主義の国は存続しており、反共運動がまったく無意味になったわけではない。
だが、世界が共産圏と自由主義圏に二分され、その二つの勢力が拮抗(きっこう)し、世界情勢が両者の対立によって規定される状況ではなくなった。ソ連の解体は、特に当初の段階では、自由主義の勝利として歓迎され、それは反共運動の意義を大きく低下させた。
そうした状況を踏まえ、旧統一教会は、宿敵であったはずの北朝鮮との関係改善に乗り出し、1991年には文鮮明が北朝鮮を電撃訪問し、当時の金日成主席と会談した。韓国の旧統一教会は、宗教団体であるよりも、営利事業の団体としての性格が強いが、それからは北朝鮮での事業に投資するようになっていく。経済的な実利の追求の方が、反共の理念に勝ったとも言える。
だが、重要なのは、これを旧統一教会の側がどのように解釈してきたかである。そこには、旧統一教会に独自の思想がかかわっている。それは、教団の外側にいる一般の人間には見えないものである。
旧統一教会の元信者で、その後はジャーナリストとして活動する多田文明は、文の訪問が実現されるまで教団の内部において北朝鮮は「サタンの国」と位置づけられていたとする。ところが、教団には「恩讐を愛する」という教えがあり、文が北朝鮮を訪れ、金主席と会談したのは、サタンがメシアの愛に屈服したことを意味し、文は「さすがメシアだ」と信者から賞賛された。この出来事をきっかけに、文が南北統一を実現するのではないかとさえ考えられたという(「文春オンライン」2022年9月15日配信)。
旧統一教会の聖典が「原理講論」であり、そこに記された教えは統一原理と呼ばれる。それによれば、世界に起こる出来事は、神の側とサタンの側の対立によるものとしてとらえられている。共産主義はサタンの側になるわけで、反共という政治思想と教義とが密接に結びついている。
神とサタンの対立が世界を動かしている。実はこれは、消滅してしまったマニ教に見られる考え方で、さらにそれは同じくペルシアに生まれたゾロアスター教にまで遡る。キリスト教の教義の形成に決定的な影響を与えた古代の教父、アウグスティヌスは、キリスト教に改宗する前、マニ教の信者で、彼の神学のもっとも重要なテーマは〈マニ教に見られる善悪二元論をいかに克服するか〉にあった。
ところが、キリスト教の歴史においては、くり返し善悪二元論の思想が出現した。というのも、この世に起こる悪を説明するには、善悪二元論の方が説明がしやすいからである。善悪二元論を否定すると、なぜ絶対の善である神が創造した世界に悪が存在するのかという難問を解かなければならない。
キリスト教のなかに生まれてきた善悪二元論は、異端というレッテルをはられ、排除されてきた。悪名高い異端審問なども、そうした異端を撲滅するための試みだった。
アウグスティヌスの流れを汲む現在のカトリック教会からすれば、神とサタンの対立で世界を説明しようとする旧統一教会は異端になる。だが、旧統一教会はカトリック教会に属しているわけではないので、異端として処罰されることはない。
さらに旧統一教会では、韓国と日本の国家を、神側とサタン側に分ける。韓国は神側のアダム国家で、日本はサタン側のエバ国家だというのだ。韓国と近い日本は、本来なら韓国を助けるべきだったのに、植民地化し、韓国を破壊した。日本国民はその罪を贖(あがな)わなければならない。原罪と贖罪(しょくざい)の強調も、アウグスティヌスが説いたところだが、旧統一教会はそれを日韓の国家間の関係に応用し、日本人から霊感商法で金を巻き上げ、高額献金を強制することを正当化するために活用してきたのだ。
このように、統一教会の論理は特殊である。キリスト教の影響が色濃く、その教義を独自に解釈しているが、反共の思想も、そうした宗教的な教えと密接不可分の関係にある。そして、文はメシアとして信仰の対象になっている。
ただ、文は2012年に亡くなっている。その後を、妻の韓鶴子が継いだが、信者は文が亡くなった後も霊界で活動していると信じている。旧統一教会の関連団体が行ったイベントは、霊界にある文の働きによるものとされ、その成功は、神側がサタン側に勝利した証拠としてとらえられているのである。
一般の人間は、旧統一教会の言うサタンなどは存在せず、世界の出来事が神の側とサタンの側の対立によって起こっているとは考えない。そうした見方を知ったとしても、常識から逸脱しており、到底認められないと考えるであろう。
それぞれの宗教には特殊な前提があり、信者はそれを信じ、絶対の真理だととらえているが、信仰を共有しない人間は、そこに普遍性を認めたりはしない。
その点で、旧統一教会の政治戦略というものは、一種の幻想であるとも言える。
幻想の政治学は、それぞれの新宗教の教祖が説き、信者の頭のなかに形作られたものである。外からは見えないが、信者はそれに従って行動している。
その点を理解しなければ、新宗教と政治との関係はわからない。
もちろん、新宗教以外の集団の政治戦略にも、多分に幻想という面がある。カール・マルクスは、彼以前に唱えられた社会主義を空想的社会主義と呼び、観念的なものと批判したが、マルクス主義自体にもそうした面はある。
ただ、新宗教になれば、それが宗教であるだけに、目に見えない神仏という存在がかかわってくる。そうした超越的な存在は、マルクス主義では基本的に想定されない。宗教が考える政治は、一般の人々が考える政治とは大きく異なるのだ。
戦後における新宗教と政治の関係を見ていく上で、幻想の政治学を考慮することは不可欠である。それは、現実とはまったく異なる世界を想定し、信者をその世界の実現へと駆り立てていく。
旧統一教会の信者に選挙活動を手伝ってもらった自民党の議員は、もちろんのこと、そうした幻想の政治学について知らないし、その存在に気づいていない。だが、信者は、選挙活動を手伝うことが神の側の勝利に貢献するものと信じている。
推薦確認書に署名した自民党の議員も、自らの行為がサタンの側を撲滅する行為に結びつくと考えられているとは想像もしていない。
だが、幻想の政治学は旧統一教会の信者の行動に影響を与えてきたわけで、それは幻想ではなく、現実のことである。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)