熊本地震7年で追悼式 遺族「何気ない日常、あるだけでありがたい」

観測史上初めて最大震度7の激震に2度襲われ、熊本、大分両県で災害関連死を含め276人が亡くなった2016年4月の熊本地震から、14日で7年になった。熊本県庁(熊本市)では県主催の犠牲者追悼式があり、遺族ら23人が参列した。
熊本県内では一時約4万7800人が仮設住宅で暮らしたが、今年3月、益城(ましき)町の「木山仮設団地」を最後の入居者が退去した。
公共施設などの復旧も相次いでいる。2度目の最大震度7を観測した16年4月16日の本震で当時の庁舎が損壊した同県宇土市と益城町は、いずれも5月8日に新庁舎の供用を開始。同県阿蘇市の阿蘇神社では「日本三大楼門」の一つとされる国の重要文化財で、高さ18メートルの楼門が倒壊したが、本体の修復が完了した。
地震当時、同県南阿蘇村にあった旧東海大阿蘇キャンパスは校舎が使えなくなって閉鎖したが、今春、益城町に新たなキャンパスがオープン。熊本空港(益城町)では、天井が崩落するなどした旧国内線ビルに代わる新ターミナルビルが3月に開業した。部分運休が続く第三セクターの南阿蘇鉄道(同県高森町)も7月15日に全線復旧する。
地震前の町並みが戻りつつある一方、災害の教訓をどう伝えていくかが課題になっている。蒲島郁夫知事は式辞で「私たちには地震の記録と記憶を継承していく責務がある。大きな犠牲の上に得た教訓を後世に伝え、未来の命を守ることに力を注ぐ」と述べた。
追悼式に参列した遺族代表の冨永真由美さん(64)=熊本市=は、地震当時89歳の母を災害関連死で亡くした。あいさつでは「何年たとうとこの悲しみが尽きることはないが、くじけず前に進めば、その歩みは御霊(みたま)に守られると信じている」と力を込めた。
母の津崎操さんと夫の3人で暮らしていた冨永さんは、16年4月14日午後9時26分、最初の最大震度7を観測した前震に襲われた。地震の半年ほど前から寝たきりだった操さんを夫と一緒に抱きかかえて軽乗用車に乗り、近くの駐車場に避難して車中泊した。
夜が明けて、壁に亀裂が入った自宅に戻った。しかし16日午前1時25分、2度目の最大震度7を観測した本震で再び車に。助手席を倒して操さんを寝かせたが、狭い車内では喉に絡んだたんを出すのが難しく、操さんは次第に呼吸が浅くなった。夜明けとともに連れて行った病院も停電で吸引できず、本震の約4時間半後、操さんは息を引き取った。窒息死だった。
長崎県佐世保市で生まれた操さんは戦時中、家族と中国に渡り、戦後は東京で洋裁を学びながら身を立てた。生真面目で無口だったが、冨永さんら双子の姉妹が子供の頃は全ての服を手作りしていた。成人式で着たロングドレスも縫った。黙々と手を動かし、いっぱいの愛情を注いだ。
地震で母を突然亡くした冨永さんは「つつがなく過ぎていた何気ない日常は、それがあるだけでとてもありがたいことだと実感した」。熊本地震から半年の16年10月15日、熊本市であった慰霊祭で遺族代表あいさつをした際は「地震で失ったものより、学べたことを大切に前向きに生きていく」と述べていた。地震から7年。改めて「今ある命に感謝し、何かの形で世の中にお返しすることが、地震を経験した私たちに託された使命だ」との思いを強くしている。
悲しみは消えない。それでもこの日のあいさつでは、つらい経験から得た教訓を語った。「地震という経験を風化させず、普段の生活に防災の視点を持ちながらしっかり日ごろの備えをすることは、地震大国・日本で生きるための大切な知恵です。そんな毎日の小さな積み重ねは全て、皆が助け合って生きる社会の大きな力になると私は信じています」【野呂賢治】