「ゲート、開放」
1日午前10時、福島県飯舘村長泥地区の道路に号令が響き渡った。地区の入り口に設置されていたバリケードが開放され、「帰還困難区域」と書かれた看板が撤去された。
「これを待ちわびていた」「12年もな」「やっと長泥に来たって感じ」
その様子を見守っていた住民らは、歩いて長泥地区に入った。帰還困難区域に指定されてからは、ゲートの前で証明書を見せ、車で通っていた道路。避難解除の喜びをかみしめた。
「ゲートで証明書を出して入るのと、自分の地区にすっと入れるのはだいぶ気持ちが違う」
住民の鴫原清三(しぎはらきよみ)さん(68)は笑顔で話した。
清三さんは、震災当時に長泥地区の区長を務めていた親戚の鴫原良友さん(72)とともに、平成24年7月17日午前0時にバリケードの扉のカギが閉められた際にも立ち会った。「真っ暗な中、あの時は悔しかった」と良友さんは振り返る。
震災前、約280人が暮らしていた長泥地区は、住民同士のつながりが強い地域だった。清三さんと良友さんはよく家を行き来しながら、仕事を手伝い合い、地区の未来について語り合ってきた。
原発事故後、2人はそれぞれ福島市に避難した。清三さんは福島市で花のトルコギキョウの栽培を再開。良友さんは令和2年まで区長を続け、住民が集まる交流会を開催し、国や村との協議を続けてきた。飯舘村の避難解除でも長泥だけが取り残された悲しさ、除染で出た土を農地造成に再利用するという世界でも例がないという環境省の実証実験を受け入れるなど、苦渋の決断の連続だった。
解除された拠点区域内には、197人が住民登録しているが、宿泊しながら帰還の準備を進める「準備宿泊」を利用したのは、3世帯7人。長引く避難生活で傷んだ自宅を解体した人は多い。良友さんも自宅を解体し、更地にした。
長泥地区の拠点外の地域の解除や営農再開の見通しは立っておらず、先行きが不透明な部分がある。それでも地区の一部が避難解除され、ゲートが取り払われたことは大きな第一歩だ。
この日、長泥コミュニティーセンターの竣工(しゅんこう)式などを終えた後、清三さんは良友さんとともに解除前日の4月30日にリフォームを終えた自宅に向かい、避難中も飼い続けた猫に餌を与え、新しいテレビを搬入した。清三さんは「やっぱり小さいころから住んでた家は最高だ」と話し、今後は福島市から行き来しながら、長泥での生活も再建していくつもりだ。
まだまだ課題はある。しかし、2人には長泥でかなえたい夢がある。清三さんは長年培ったトルコギキョウの栽培技術を伝承しながら、長泥地区を「花の里」にしたいという。良友さんは住民同士のつながりを再び持てるような取り組みをしたいと考えている。
清三さんは「これからできることがたくさんある。いつでも泊まっていいよってみんなに伝えている」、良友さんは「解除されたこれからが大事。みんなで助け合って乗り越えていい方向に向かう。2人は負けないし、折れない」
2人は力を込めた。(大渡美咲)