1983年11月から1990年10月まで7年間にわたり、2人の日本人が不当なスパイ容疑で北朝鮮に抑留されていた「第18富士山丸事件」の当事者で、元船長の紅粉勇さんが2月3日に腎不全で死去していたことが「 週刊文春 」の取材でわかった。92歳だった。
紅粉さんは1930年、北海道函館市生まれ。17歳から船乗りになり、日本近海で交易する冷凍運搬船「第18富士山丸」の船長だった1983年、機関長だった栗浦好雄さんと共にスパイ容疑などで北朝鮮に抑留された。
スパイ行為を認めさせられ、死刑に次いで重い刑罰
紅粉さんは現地で受けた取り調べについて、生前こう語っていた。
「何を言っても許されず、最後は言われるがまま『自分たちが密航者を日本に連れてきた』という始末書を書かされた。スパイ行為を認める内容でした」
1988年4月、紅粉さんと栗浦さんは「15年の労働教化刑」を告げられた。死刑に次いで重い刑罰だった。
「日本に帰すと嘘をつかれて汚い建物の20畳ぐらいの空っぽの部屋に通され、座らされた。後から思えばあれが裁判所だった。『北朝鮮の沿岸で6年間もスパイ活動をしていた』と、全く身に覚えもない罪状を告げられて手錠をかけられ、監獄に連れていかれた」(同前)
2年半の間過ごした監獄は汚くて寒く、冬に警備員に「寒くて死んでしまう」と訴えたが、ヒーターは壊れていた。毛布を手縫いで下着にしてなんとかしのいだが、風邪もひいた。
紅粉さんらは1990年、金丸信・元副総理ら訪朝団の働きかけで解放され、帰国する。帰国前日には、北朝鮮の役人から「北朝鮮で見たり聞いたりしたことを外の人に言ってはいけない」「喋ったら家族に影響を及ぼす」と告げられ、実際に自宅の特徴も言い当てられた。
早朝から東京五輪に見入り…紅粉さんの晩年
帰国後、紅粉さんは家族との再会を喜んだのも束の間、鬼気迫る表情で「孫を一人で遊びに行かせるな」と伝えたという。記者会見でスパイ容疑について尋ねられた紅粉さんは、「神様だけが知っている」と答えるしかなかった。
2016年、妻の峰子さんが92歳で亡くなった時には大泣きに泣き、しばらく調子を崩した。3年ほど前に福祉施設に入所。他の入所者のお見舞いをするなどして職員からも感謝される人柄だった。また、紅粉さんは東京五輪を楽しみにしていて、大会中は早朝の競技に食事そっちのけで見入っていたという。
紅粉さんの死は、本人の希望で近隣住民やキリスト教会関係者にも伝えられず、親族のみで家族葬が執り行われた。
6月14日(水)12時配信の「 週刊文春 電子版 」及び6月15日(木)発売の「週刊文春」では、紅粉さんの壮絶な獄中生活や晩年の暮らしぶり、亡くなる前の「最期の言葉」などについて報じる。また「週刊文春 電子版」ではロングバージョンのオリジナル記事を配信する。
(「週刊文春」編集部/週刊文春 2023年6月22日号)