“フォークの神様”杉下茂さんが死去 97歳 60年以上前にメジャー誘いも…54年に球団初の日本一導く

元中日投手の杉下茂さんが12日、都内の病院で間質性肺炎のため亡くなくなっていたことが分かった。中日球団が16日、発表した。97歳だった。通夜、葬儀は家族葬で執り行われた。遺族によると、12日午前まで普段通りの生活をしてたが、午後になって体調に異常を訴え、病院へ搬送され、午後10時18分になくなったという。
日本のプロ野球界に「フォークボール」の礎を築いた大投手が息を引き取った。
当時としては大柄だった182センチの身体を躍動させ、落差の激しい変化球を投げ込んだ。「打撃の神様」巨人・川上哲治や、初代「ミスター・タイガース」阪神・藤村富美男ら名選手と対峙(たいじ)。フォークボールを代名詞にして一時代を築き上げた。
日本人メジャーリーガー“第1号”になっていたかもしれないほどの逸材だった。1951年の2月。3Aサンフランシスコ・シールズのキャンプに参加。当時は「どこに行くか分からない」と自ら封印していたフォークをメジャー候補生相手に投げ込んだ。屈強な打者たちのバットはおもしろいように空を切り、シールズの監督から「メジャーへ来ないか」と誘いを受けた。しかし家庭の事情などもありメジャー行きは辞退。米国で自信をつけた杉下さんは帰国後、28勝(13敗)を挙げて最多勝を獲得。54年には再び32勝を挙げて2リーグ制後初めてとなる投手5冠を達成し、中日を初のリーグ優勝、日本一へと導いた。投手としての名誉でもある沢村賞は最多タイの3度受賞。プロ野球の歴史でたった4人だけの勲章だ。
プロ最終年は大映へ移籍し、11年間の現役生活を終えた。その後、中日や阪神で監督を務め巨人、西武などでも投手コーチを歴任した。90歳を超えてもなお野球への情熱は冷めることなく、中日の沖縄・北谷(ちゃたん)キャンプで臨時コーチとしてブルペンに陣取る様は2月の風物詩。ひ孫のような年齢の後輩にアドバイスを送りつつ「まだまだアイツのフォークはションベンだよ」と破顔していた。2019年のキャンプにも1か月間帯同し、背筋をピンと伸ばして投手陣を見守っていたが、翌20年は姿を見せなかった。
◆杉下 茂(すぎした・しげる)1925年9月17日、東京・神田(現千代田区)生まれ。帝京商、明大専門部(3年)を経て49年中日に入団。51年に28勝を挙げ最多勝と沢村賞を獲得。54年には再び32勝を挙げ最多勝、防御率、沢村賞など投手部門のタイトルを総なめした。中日をリーグ優勝、日本一に導きMVPに輝いた。55年5月10日の国鉄(現ヤクルト)戦ではノーヒットノーランを記録した。59年から2年間、監督を務めた後、61年に大毎(現ロッテ)へ移籍して現役復帰。現役引退後も阪神、中日で監督、巨人、西武で投手コーチも務めた。85年に殿堂入り。実働11年で525試合に登板、215勝123敗、防御率2・23。最多勝2回。最優秀防御率1回。最多奪三振1回。最高勝率1回。沢村賞3回。MVP1回。ベストナイン1回。