長崎市の平和祈念式典にビデオメッセージを寄せた岸田文雄首相は、式典に出席した2022年に続き、国が指定する援護区域外で原爆に遭った「被爆体験者」の救済に一言も触れなかった。国は広島で原爆投下後に降った「黒い雨」体験者に被爆者健康手帳を交付した一方、同じように雨や灰に遭ったと訴える長崎の被爆体験者は対象外としたままだ。式典をテレビで見た被爆体験者の浜田和慧(かずえ)さん(87)=長崎市=は「私たちはなぜ被爆者と認められんのか」と憤った。
78年前、爆心地から8キロあまり東の旧矢上村(現長崎市)にいた。当時9歳。自宅敷地内の小屋で昼食の準備をしていると閃光(せんこう)と爆風を受けた。黒い灰や砂が混じったものが降り注ぎ、口の中がジャリジャリした。しばらくして雨が降り、父から農作業用のわらで編んだ籠を「ぬらすな」と言われ、あわてて片付けた。
夜になって爆心地近くの浦上駅前に住む11歳のいとこの少女がボロボロの布きれをまとった姿でフラフラになって歩いてきた。黒く汚れた顔で「長崎が大変だ。早く助けに行って」。
父が出かけていき、山王神社の下の防空壕(ごう)に大やけどを負って収容されていた伯母らを発見、連れ帰った。浜田さんは苦しむ伯母の傷口から出る汁をふき、水を含ませた脱脂綿を口元に当てるなどしたが、手の施しようがなく、数日後に息を引き取った。
浜田さんの家は井戸水を飲み、畑の野菜や近くで取れた魚を食べる半農半漁の生活。原爆の後、下痢や発熱があった。足が腫れ、貧血にも苦しんだ。今は高血圧や糖尿病などがあり、つえで歩くのがやっとだ。
国は「原爆投下後に雨が降った客観的な記録がない」として被爆体験者を被爆者と認めない。9日の式典に参列しなかった岸田首相は、8月中に長崎の被爆者から話を聞く意向を示した。長崎の被爆者4団体は、被爆体験者の救済を国に繰り返し要望している。
浜田さんは「『ぬらすな』という父の声を確かに覚えている」と強調し、こうつぶやいた。「岸田さんは去年逃げるごとして帰らした(逃げるようにして帰った)。なして広島と長崎ば差別すっとやろうか」【樋口岳大】