「獣には獣としてそれなりに応じてあげる」ススキノ首狩り殺人”29歳黒髪容疑者の父がブログに綴った人間の闇”と愛娘と泣いた日”

〈 「後ろ手に手錠、アイマスクで視覚も奪われ…」“ススキノ首狩り殺人”瑠奈容疑者(29)が撮った襲撃の瞬間”「動画の一部始終」 〉から続く
北海道札幌市の繁華街・ススキノのラブホテルで、恵庭市の男性会社員Aさんが殺害され頭部が持ち去られた事件。その残忍な犯行手口が明らかになりつつある。
Aさんは7月1日、札幌市のホテルで開かれたディスコイベントに参加したあと、約1カ月前にクラブ「X」の閉店イベントで知り合った田村瑠奈容疑者(29)と付近の路上で落ち合い、2人は同日深夜にラブホテルに入室。翌日、ラブホテルの浴室で頭部のない全裸のAさんの遺体が見つかった。瑠奈容疑者は1人で、無防備なAさんを刃物で襲い、その様子を撮影していたことも分かった( #4 )。
Aさんの頭部は瑠奈容疑者が両親と住む札幌市厚別区の自宅の浴室で見つかった。北海道警察は、瑠奈容疑者のほか、精神科医の父親・修容疑者(59)と母親・浩子容疑者(60)も殺人事件に計画時点から関与していたとして殺人容疑などで逮捕している。
一家3人が共謀したうえで猟奇的な犯行に及ぶというにわかに信じがたい事件。謎を紐解くカギとなり得るのが、田村修容疑者(59)が書いたとみられる複数のブログだ。
ブログには妻や娘との何気ない日常が
娘の瑠奈容疑者の名前にちなんでだろうか「lunanet」というタイトルのブログ(1998年~2004年ごろ)には、浩子容疑者や瑠奈容疑者との何気ない日常が綴られている。
2001年12月1日のブログには、夫婦でハリー・ポッターの本を3巻一気読みしたことや、瑠奈容疑者がハロウィーンのパーティー用に作ったホウキを、主人公ハリー・ポッターが物語中で使用した魔法道具「ニンバス2000」と名付けたエピソードを明かしている。
このほかにも、
〈先日ポケモンのビデオを見て娘と泣いていたことについて。カミさん曰く「お父さんはあざといものに弱い」のだそうだ〉(1999年2月21日)
などと、家族仲睦まじい様子を綴った箇所もあった。
一方で、修容疑者は“殺人”事件、特に当時瑠奈容疑者と年の近い少年が関わった事件に関心を寄せていたことも分かる。
2000年5月3日のブログには、当時17歳の少年が愛知県豊川市で主婦を刺殺した事件について触れ、
〈「殺す体験をしたかった」との動機?で殺人事件を起こした「良い子」の高校生が自首した〉
〈とりあえず現時点での断片的な情報から私が単純に考えたこと。その1:「良い子=大人にとって都合の良い子」であって、必ずしも(心身ともに)健全な子とは言えないのだから、事件前の素行はあてにならない。「何をしでかすのか分からない」と言っているのではない。「良い子」というものさしと、「すこやかさ」のものさしは別物だと言いたい〉
と見解をつづっていた。
2003年、長崎市で幼稚園の男児(当時4歳)が中学1年の少年に連れ去られ殺害された事件については7月15日のブログにこう書く。
〈世間は長崎の事件で騒がしい。確実な情報が不足しているため、この件そのものについてはコメントはしない。
連日の報道に触れて一番腹が立つのが「心の闇」。このキーワードを使うとき、書き手も読み手も、「こんなとんでもないことをしでかす子は、いい子の仮面の下に大きな心の闇を持っているに違いない」と考え、自分とは違う何かを探し出そうとする。あたかも心の闇は、健全な魂には存在してはいけないかのように。だいたいいい子というキーワードもくせ者なんだが。
大きな声で言えるが、私にだって大きな心の闇はある。まぁ私の心が健全かどうかは私自身には判断できませんが…誰にも言えないことだってたくさんある。でもそれに支配されるかどうかは別問題。モノを欲しがるのは自由だが、手当たり次第に他人のものを奪えばそれはドロボー。当たり前。思うことと、やることは別。「心の闇」が問題ではなくて、どれだけ自分をコントロールできるかどうかが大事。このコントロール感覚は自分以外の他者との関係によってしか育まれないことだと思う〉
03年当時、瑠奈容疑者はまだ9歳。修容疑者は瑠奈容疑者が既に心の闇を抱え、“自分をコントロールできない”ことに気付いていたのだろうか――。
小学生の娘が見せた「心の闇」
週刊文春では、瑠奈容疑者が小学生時代に同級生に起こしたトラブルについて #3 で報じた。
「小5の時に同じクラスで、ある時、瑠奈の服装を『アニメのキャラみたいだな』と茶化したら、急に筆箱からカッターナイフを持ち出して、追っかけてきて。馬乗りになられて首にカッターを突き付けられたんです。そこで周りの友達が止めに入ってくれたけど、瑠奈は『次言ったら刺すからな』と。本気で刺されると思いました。今でも鮮明に覚えています」(瑠奈容疑者の小学校時代の同級生)
瑠奈容疑者の刃物への執着は、道警の捜査でも明らかになった。社会部記者が明かす。
「道警が田村一家の自宅から押収した刃物は、ノコギリ4本を含む刃物およそ20本。このうち複数本が瑠奈容疑者の部屋から見つかっています。弁護士の話によれば、瑠奈容疑者は事件前から刃物の収拾癖があったとのことです。瑠奈容疑者と修容疑者は事件前にノコギリやナイフを買い、被害者の男性との待ち合わせ直前にもノコギリを1本購入しています」
修容疑者が考える「殺人」
一方、修容疑者は1999年5月18日のブログで、戦争報道について取り上げ、以下のように綴っていた。
〈人間(日本語の。他の言語の事情はわからぬ)という言葉は、それこそ「人間関係」と言ってもおかしくない。その関係性(あるいは共同体)を支える最低限のルールの一つが「相手を殺さない」だと考える。これは当然「相手に殺されない」と対になっている。この最低限のルールを守って初めて「ホモ・サピエンス」は「人間」という社会的存在たりうるのだと考える。それを考えず「何をやっても自由」と考えるのなら、それは社会のルールを無視しながら一方で社会の恩恵だけにはあずかろうという、手前勝手な発想。ただの「ヒト」であって「人間」ではない。
さて「人間関係」というものは、何等かの軋轢が生じれば、互いに傷つき傷つけられることになる。それが現実だ。「殺す」が「傷つける」の究極と考えれば、人間関係とは「その関係の維持には『傷つけない(殺さない)』ことが必要だが、関係を維持すれば必ず『(殺さない程度に?)傷つける』ことがある」という矛盾(のようなもの)を孕んでいる。しかし、括弧書きしたように殺すと傷つけるは程度(量)の問題だけではなく、質的な境界が(幅はあるが)存在する。それが「ヒト」と「人間」の境。
再度問われる。「人間を殺して何が悪い」と。悪いなどと一言も言ってない。殺した時点で貴方は「人間」ではなく「ヒト」という獣になるんだよ。それは「人間」としての貴方の自殺行為ですと。その覚悟があるかと問い返したいのです。
「では肉親を殺されたら?」。その時点で相手は「私にとって」獣です。獣には獣としてそれなりに応じてあげるのが礼儀ってもんです〉
修容疑者の「殺人」に対する考えがよくわかる文章だ。このブログを綴ってから24年後、親子3人は殺人を犯し、修容疑者の表現を借りれば、まさに「ヒト」という獣になってしまった。修容疑者を知る30代男性はこう話す。
「今から約15年前、私が高校生のころ、田村先生の診察を受けに2年ほど勤医協中央病院に通っていました。田村先生は物腰柔らかくて、優しく、親身になってくれる人でした。医師と患者という関係で何かおかしいと思ったことは一度もありません。このような事件になり、本当に驚いています……」
札幌地方検察庁は3人の刑事責任能力を調べるため鑑定留置を簡易裁判所に請求し、8月24日認められたと報じられた。期間は今月下旬から来年2月下旬までの6か月間で、鑑定留置の期間としては異例の長さだという。3人について、今後、専門家による精神鑑定などが行われ、検察が鑑定結果も踏まえて起訴するかどうか判断するという。
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「週刊文春」では、今回の事件について情報を募集しています。文春リークスまで情報をお寄せください。
文春リークス: https://bunshun.jp/list/leaks
(「週刊文春」編集部/週刊文春Webオリジナル)