「選挙もミニスカートで通します」と宣言…40歳で政界入り、小池百合子が見せたライバルへの「容赦ない攻撃」

〈 テレビ番組で「大胆不敵すぎる嘘」をついた瞬間も…政治家・小池百合子が語ってきた「華麗なる経歴のほころび」 〉から続く
自らを「芦屋令嬢」と称し、名門・カイロ大学を“首席で卒業”。そしてニュースキャスターから政治家の道へ―― 政治家・小池百合子(71)は類まれなる自己演出力を発揮しながら、権力の頂点へと続く階段を上り続けてきた。しかし、その経歴には多くの謎があるのもまた事実。彼女は一体何者なのか?
ここでは、ノンフィクション作家・石井妙子氏が3年半にわたる徹底取材をもとに書き上げた『 女帝 小池百合子 』(文春文庫)を一部抜粋して紹介。1992年、40歳で参院選に出馬し、初当選を果たした小池氏のあまりに強かな「戦略」に迫る。(全2回の2回目/ 最初 から読む)
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ミニスカートで戦う
出馬宣言後、小池はテレビだけでなく、積極的に取材を受けた。「多くの人の期待を裏切っている既成政治への怒りから出馬を決意した」と理由を語り、また、自分の履歴に絡めて説明するようにもなっていく。
「私は1971年から5年間、中東にいた経験がある。その間、通訳や取材者として、数多くのアラブの政治家たちに会った。その中にはイラクのフセイン大統領のような人もいるが、彼らはひじょうに政治的駆け引きに長け、良かれ悪しかれ命がけだ。ところが、今の日本の政治家たちは、永田町での水面下の駆け引きは天下一品だが、いざ対外交渉となるとさっぱり……。それもこれも、日本の政治システムに問題があると私は思う」(『週刊ポスト』1992年7月17日号)
日本の政治家が来るたびに通訳に駆り出され、国際政治の場を目の当たりにした。商社の通訳もした、と語る。こうした魅力的な嘘にマスコミは飛びつき、活字にしてしまう。彼女は蜘蛛が糸を吐き出すように自分の「物語」を紡ぎ続けた。
党首の細川は当時、54歳。スマートで長身、顔立ちも端整で、立ち居振る舞いは優雅だった。細川家と近衛家を背負う出自も含めて、有権者、とりわけ女性たちの心を強く捉える要素をいくつも持っていた。
そんな細川の隣に、小池はミニスカート姿で寄り添った。
キャスター時代から、彼女は脚を見せることを好み、ひとつの売り物としてきた。選挙戦も自分の強みで戦おうと考えた彼女は、マスコミに向かって、わざわざ「選挙もハイヒールとミニスカートで通します」と宣言した。社会党の女性議員を念頭において、「自分はこれまでの女性候補者のようにはならない、女性としてエレガントで美しくありたい」とも発言している。子ども時代から彼女はファッションが人の心に与える影響を熟知していた。
小池をめぐる最初のトラブル
立候補者に比例順位を細川が伝えたのは、公示日前日の7月7日だった。すると、途端に党内はもめ始める。比例順位の1位は細川である。党首だから当然だろう。だが、なぜ小池が2位なのか。
当時、お茶の間では小池よりもテニスプレーヤーの佐藤直子、「ニコニコ離婚講座」の円より子のほうが知名度は高かった。それなのになぜ、佐藤が9位、円が7位なのか。小池が参加する前から細川を支えてきた党員の一部からも、強い不満の声が上がった。日本新党の綱領を考えた男性候補者が小池の下位に置かれたのも、納得がいかない、と紛糾した。
この時、小池を2位にするように細川に強く働きかけていたのは、細川の朝日新聞記者時代の先輩だったと、円より子も後年になって明かしている(公式ブログ 2017年5月12日)。
佐藤直子はこの比例順位を知って、小池より自分が下位に置かれたことにショックと怒りを覚え、公示日前日に出馬を取りやめてしまった。日本新党に噴出した、小池をめぐる最初のトラブルだった。
投票日は7月26日。日本新党は佐藤が抜けた結果、予定よりも1名少なくなり16名が立候補した。
「私は日本新党のチアリーダー」
小池は公示日後、しっかりとメイクし、約束どおり色鮮やかなミニ丈のスーツを着て、ハイヒールで登場した。計算どおりマスコミが殺到した。小池が街宣車のはしごに足をかけると、地面に頭をこすりつけるようにしてカメラマンたちはローアングルで構えた。小池は、「それ以上、近づいちゃだめよ」と笑顔で注意しながら、はしごを登っていく。男性有権者も、選挙カーにへばりつくようにして小池を下からのぞきこんだ。
小池は「私は日本新党のチアリーダー」と語り、ミニスカートで全国を飛び回った。
小池は街頭演説を初めて体験し、「女優が舞台に立ちたいと思う理由がわかった」と語っている。肝心の演説の中身は、一本調子の自民党批判であった。それが彼女の唯一の主張だったからである。雑誌では、「デブで腹黒い政治家はもういらない」と口にしている。
この時、彼女が優先したのは演説の内容ではなく、自分のビジュアル・イメージだった。何を言うかではなく、何を着るか、どんな髪型にするか、それが人の心を左右するという考えは母の教えであり、テレビ界で竹村健一から学んだことでもあった。
白い手袋やタスキをやめ、ファッショナブルで都会的な女を演出した。社会党の女性議員を嘲笑する気持ちが、根底にはあったのだろう。
新党を結党してからわずか2カ月で迎えた投票日。日本新党は、約362万票を得る。比例代表の得票率では、共産、民社を上回った。比例順位の4位までが当選することになり、小池は細川、寺沢芳男、武田邦太郎とともに、晴れて参議院議員になった。
先月までニュース原稿を読んでいたのに、たった1カ月で国会議員に。
男たちが全生涯をかけて、命がけで挑んでも、なかなか掴むことのできない大きな夢を彼女はあまりにもあっさりと手にしたのだった。
初登院の「勝負服」
初登院は8月7日。彼女はこの時も、何を着て行くかに知恵をしぼった。ミニスカートにハイヒールは外せない。だが、それだけでは定番だ。何をしたらマスコミが喜んで取り上げてくれるかを考えた。
当日、彼女が選んだのはサファリ・ルックだった。サファリ(草原)に探検に行く時のようなファッションをいう。緑色のジャケットにヒョウ柄のミニスカートを合わせた。
狙いどおり記者やカメラマンが殺到し、「どうしてそういう服装で」と問われた。小池は用意してきた答えを投げてやった。
「永田町には猛獣とか珍獣とかがいらっしゃると聞いたので」
記者たちは大喜びで小池を大きく扱った。小池に聞けば、見出しになるようなコメントを言ってくれる。以後、テレビや週刊誌、スポーツ新聞の記者たちに彼女はエサを与え続ける。
議員となった彼女のもとには、取材依頼が殺到した。キャスター時代よりもずっと注目された。政界に女性の数は少なく、彼女の大好きな「希少価値」が生まれたのだ。
小池が手に入れた「強み」
いきなり週刊誌に連載コラムを持った。それも『週刊ポスト』、『週刊朝日』、『女性セブン』の3誌である。他にも雑誌の取材や対談を次々と引き受け、テレビ出演も断らなかった。
国会議員として体験したこと、感じたことを伝えるためだと語っているが、それなら1誌で十分だろう。自己顕示欲の強さ故か、あるいは、できるだけ多くの週刊誌を自分の味方につけておきたいと考えてのことか。インターネットもSNSもない時代、自己発信できる媒体を持つことは大変な強みだった。新人男性議員にはとても太刀打ちできない。それは見方を変えれば、彼女がタレント議員として見られていたことの証でもある。
だが、彼女自身には「タレント議員」という自覚はまったくなかった。この自己評価の高さが周囲との軋轢を、後々、生んでいくことになる。細川を含めて男性たちは、小池の野心や上昇志向の強さを、人となりを、まだ十分に理解してはいなかった。
彼女が語り続けた「物語」
小池は当選後も、ミニスカート姿を売り物とした。『週刊ポスト』の連載コラムのタイトルも「ミニスカートの国会報告」。毎回、ミニスカート姿の写真を添えた。求められれば、あるいは求められなくても、ミニスカートでポーズを取った。国会議事堂をバックにミニスカートでスツールに浅く腰かけて脚を斜めに流す。そんな写真が当時の雑誌には、あふれかえっている。
男性の国会議員や記者の間では、小池がソファに腰かけ、脚を盛んに組み替えることが話題になった。わざわざ小池の部屋に挨拶に出かけては、「あれは、やっぱりわざとかね」と囁き合った。セクハラという言葉もなかった時代。女性議員の多くが男性議員や後援会の男性、有権者から受ける性的ないやがらせや、悪質な冗談に苦しんでいた。だが、小池はそんな中で、むしろ、男たちを性的魅力で翻弄し、男の下心さえも逆手に取っているかに見えた。
殺到するマスコミに彼女は「物語」を語り続けた。カイロ大学首席卒業、裕福な家庭に生まれ育った芦屋令嬢、大きな眼をした外国語に堪能な才女。それが彼女が世間に与えたい自己イメージなのだった。
時には容赦ない攻撃も
階段を一段上がったという高揚感があったのだろう。知名度と立場と権力を得た彼女は、その力を自制しようとはせず、むしろ誇示し、行使した。自分にとって都合の悪い人物、自分に歯向かった人間、気に入らない相手に対して、容赦なく。
まず、小池の比例順位に納得がいかず、出馬を取りやめたテニスプレーヤーの佐藤直子が標的にされた。『週刊ポスト』の連載エッセイ「ミニスカートの国会報告」第1回目のタイトルは、「佐藤直子さん、どうぞお健やかに」。佐藤をここぞとばかりに、こき下ろしている。
「もう遠い過去の話ですがその意味で、若い人にも知られた佐藤直子さんが出馬を辞退したことは残念でした。候補者のバラエティが増えれば、それだけもっといろんなことができたかもしれないからです。私自身は一度しかお会いしたことはなく、辞退の理由はわかりません。聞くところによれば、私たちと基本的感覚が違ったようです。PKOとPKFの区別もよくご存知なかったようで」(『週刊ポスト』1992年8月14日号)
あからさまに小馬鹿にし、からかった。
意味深なエッセイ
高みに立ち見下したい、見返したいという思いがみなぎっていたのか。『週刊朝日』の連載エッセイには、こんな一文を寄せている。
「ちなみに議員になってからというもの、たくさんのはげましのお手紙に交じって、かつてのボーイフレンドからの突然の近況報告や、父の事業失敗で煽りをくらった人から恨みの手紙などまで届くようになった。ボーイフレンドは、私が『芦屋の社長令嬢』ではなくなったと告げたとたん、雲隠れした人。『所詮、そんな人だったのよ』と友人たちは慰めてくれたものだ。諸行無常」(『週刊朝日』1992年12月4日号)
父親に騙された人に、すまないと思うのでもなく、ボーイフレンドからの連絡になつかしさを覚えるのでもない。
ここに書かれているボーイフレンドとは、カイロから小池が熱心に手紙を書き送っていた川村誠(仮名)であろう。だが、彼が去っていったのは、小池が「芦屋の社長令嬢」ではなくなったからなのか。彼女が「芦屋の社長令嬢」だったことはあるのか。わざわざ活字にした理由は、やはり、自分を見下した相手への復讐だろうか。
「父の事業失敗で煽りをくらった人から恨みの手紙」は、小池事務所にいた関係者によれば実際にはかなり深刻なものだったという。彼女のもとには、以前から勇二郎に騙された人々からの、恨みの手紙が届いていたが、国会議員になって増した。小池の口調は軽いが、金を踏み倒された人たちの恨みは深いのである。そのせいで家や仕事を失った、中には自殺を考えさせられるほどの損害を受けた被害者もいたといわれる。だが、そうした抗議の手紙を目にしても小池の心は痛まないのか、軽い調子でエッセイのネタにされてしまうのだった。
〈 「小池百合子さんはカイロ大学を卒業していません」かつての“同居人”が実名証言を決意した理由とは 〉へ続く
(石井 妙子/文春文庫)