先日、安楽死を取り上げたNHKの番組『 彼女は安楽死を選んだ 』が物議を醸し、なぜか内容に腹を立てた障害者団体がNHK側の「え? 別に安楽死は自殺じゃないから」という説明に納得がいかず、無事にBPO提訴という伝統芸能になっていました。
もちろん安楽死というと命の選別の問題に直結するわけでして、障害者を守る団体が「自殺を肯定する内容で、障害者や難病患者の尊厳や命が脅かされた」と感じるのも、単にお気持ちの問題だけではなく、このような人たちや支援者の間では未来に希望が持てず自ら命を絶つ人たちが少なくないという当事者性もあるんだろうなあと思います。
また、文春オンラインでも河合香織さんと宮下洋一さんの対談が掲載されていて、シブい議論が展開され思わず何度も読み返しました。河合香織さんの『 選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子 』も、問題のNHKスペシャルで報じられた宮下洋一さんの『 安楽死を遂げた日本人 』も、医療や介護に携わっている方や社会保障に関心のある向きには必読の好著だと思います。
「家族に迷惑をかけずに死にたい」日本で安楽死合法化が危険な理由 「誰が命を選ぶのか」河合香織×宮下洋一 https://bunshun.jp/articles/-/14354
もっとも、実際に介護をやり、社会保障や少子化・高齢化の研究も行ってきた私も、命の重さは充分に感じつつも自宅で父親が粗相を繰り返していると「おいジジイしっかりしろ」という話になるわけでありまして、当事者として悩みは尽きません。
やまもといちろうゼミ 高齢者の死に方について世界との違いを考える https://www.minnanokaigo.com/news/yamamoto/lesson1/
介護をしていて、耄碌はしているけど人としてはっきりしている肉親を見て思うことはたくさんあります。もちろん、相手も老人ですが喧嘩になると「あしたお通夜で送られたくなければ大人しくしろ」とか口をついて出てしまいますし、山本家は普段も穏やかに「死ね」「お前こそ死ね」という話題は日常的です。まあ、江戸っ子ですからな。
ただ、誰しもいずれは「そのとき」が来ます。早かろうと遅かろうと、確定しているのは私たちは死ぬ定めにあるということです。これは避けて通れない。避けられたら神であります。とりあえず私たちは神ではないので、受け入れざるを得ないんですよね。
そして、いずれ死ぬのであれば、死に方ぐらい自分で決めたいと思うことがある。老いた親と散歩したり、病院に付き添ったりすると、だいたい5回に1回の割合で親に「俺の人生はまあだいたいこんなものだから、楽に死ねる方法はないのか」とか問われます。さすがに私も「それならいますぐその窓から飛び降りろ」などとワタミ的解決は伝えられませんから、「神がお召しになるまで、まあゆっくり待ってろよ」としか伝えようがありません。
ところが、先日倒れた親戚が退院になり老健に厄介になるというので身の回りの物をもって車で見舞いに行ってきたのですが、相部屋になっている他の老人たちと初日から派手に口喧嘩をしているんです。どうして喧嘩ばかりするんだ山本家。
騒ぎたいなら家の中でやれと言いたい気持ちをグッと堪えて先方の老人たちに謝ったりしたところ、その老人たちも反応が様々です。心底腹を立てて二度と口を利かないという爺さんもいれば、賑やかな人が来たのだから私は構いませんよと微笑む婆さんもいる。当たり前のことですけど、単に「具合の悪い老人たち」とひとくくりには絶対にできないほど、異なる人格、違う人生を長年歩んできた人たちだということは分かります。
私の親も含めていろんな施設に行き、たくさんの老人と会って話すと、あるところまでは、俺は100歳まで生きていくんだと言っていた人が、健康を損ねて闘病の世界に入ると途端に心が折れたり、愛する息子や娘が全然見舞いに来てくれなくて孤独を強く感じるようになると、いつしか希望は失われ、赤の他人である私にさえ「俺はいつ死ねるのかね」と尋ねてきたりする。答えづらいわ、そんなもの。まさかそこで「いますぐその窓から飛び降りろ」とワタミ流の返答をするわけにもいきませんから「そんなこと言わないでくださいよ。いつまでもご健勝であってください」とは言います。
本人がその気であれば、長生きしてほしいと思うんですよ。でも闘病や孤独になるほど、この命は惜しくないと思ってしまう部分はあるかもしれない。冒頭の障害者団体の抗議も、つまりは「誰かに迷惑をかけてまで生きたくない」という『迷惑文化』の果てにある悩みなのだとするならば、確かに安楽死の議論が寄り添うべき先はこういう感情かもしれません。
そういう先の見えている人が、健康を害して不自由になっているところに希望はあるのだろうか、何かしてやれることはあるのだろうかと、毎日のように思います。正直、死んでいくしかないんだもの。誰かの子であり、誰かの父や母であり、誰かの妻か夫かであった人が、塵となり地に返り星の一部に戻っていく瞬間まで、やはり元気であってほしいと願うのは人情でもあります。
だからこそ、命は選ぶべきではないと思う。選ぶ権利は、他人には本来ないのです。それがたとえ、親であっても。
私は中絶には反対ですが、まだ生まれていない子どもを中絶することが許されていて、生きる希望を失った高齢者が自ら死ぬ自由は許されないというのはよく分からない。等しく命あるものは与えられた命を最後まで生きられるようにするべきだ、それが神から精神という恵みを与えられた生物の使命なのだ、と私なんかは思います。
一方で、人間は社会的な動物であり、足りないものはお互いに補いながら生きていく存在であるとするならば、与え、与えられる関係が成立しなくなった高齢者が使命を終えたと安楽死を選ぶというのもまた、ひとつの解であるとも言える。誰も脅かすことのできない自己決定権があるとするならば、闘病や孤独や障害で自ら死を選ぶ権利もあるはずだ、と正面切って言われると「いや、自殺は良くないことだよ」と観念的な反論をするしかないのです。高齢者は自分の判断で死んでいいけど、働き盛りの年代で鬱病を患った人の自殺は許されないとか、死生観や社会の矛盾が凝縮されたような議論になってしまうのです。
日本は豊かだと偉そうなことは言っているけれど、ほんの150年前までは飢饉が来たら娘を売り、働けなくなった高齢者は山に捨てに行ったという文化があったことは誰もが知っていることで、それが戦後に皆が喰えるようになって長生きできるようになって、今度は長生きが絶望の理由となったり、社会的に財政の問題の悪玉とされてしまうようになる。医療も社会制度も公衆衛生も、すべては皆が健康で長生きできるようにと発展してきた結果、日本は世界に冠たる長寿の国になったはずが、豊かになり子どもの数が減ると、途端にお荷物になってしまう。
そこに絶対の「解」はない以上、肉親には「うるせえジジイ死ぬまで生きろ」とケツを叩きながら、最期に良い人生であったと思って逝けるような対話を深めていく以外にないのだろうと思うんですよね。それが畳の上であるかどうかはともかく、終(つい)を迎える幸福の形をもっと論じていけるような社会であってほしいと思います。
*以下余談*
蛇足ながら、安楽死の話が出ると必ず障害者団体や自殺遺族の方の議論が出てきます。河合さんと宮下さんの対談でも、出生前診断のことも含めて、選ばれるべきではない命、望ましくない人生、失われた希望しかない老後といった、個別の話がたくさん出てきます。
必要なのは、私は「選択できること」であると思います。自殺を奨励するのではなく、自分の最期を自分で選ぶことができる世の中であった方が良いのであり、価値観を押し付けることなく自分の生き方をコーディネートできることの大事さはあります。そこに「迷惑文化」が仮に大きく横たわるのだとしても、重い自己決定を行うにあたり、なるだけその人の判断を尊重することが肝要なのだと思うのです。
安楽死の議論を行うことが自殺を肯定するものだと私は思いませんが、そう捉える人たちの意見も理解ができます。人が人を殺すことと変わらないのだから、担当する医療者の精神的な負担を考えるべきだという指摘もその通りだと思います。
だからこそ、死に対する自己決定権について、もう少し広く議論していくべきだと考えるのですが、それは日本社会では許されないことなのでしょうか。単に思い立って自殺するのは良くないことだというのは大前提としても、そうではない、何か客観的な基準で、いままで充分な苦労をして長く生きた人の自己決定として、決められた日時でゆかりのある人たちに見守られて逝きたいという希望は許されないのか、という話であります。
どんなに闘病で苦しもうが、認知に問題を抱えて前後不覚になろうが、生物学的に死を迎えることが理想だとするならば、救急隊員が本人や家族の申し出で延命治療を行わないで欲しいという要望を受け取る「蘇生拒否」はどうでしょう。自殺ですか、他殺ですか。脳内出血などで病院に運び込まれれば助かる命を救急搬送しない、蘇生行為をしないことは、自己決定権のなかでどのように扱われるのでしょうか。
おそらくは、進展する高齢化社会が少しずつ日本人の死生観を揺さぶり、欧米の議論とは異なる「安楽死」や「自己決定権」や「死の尊厳」について語られゆくところだと思います。
そもそも、欧米では日本のように、徘徊したり排泄行為が満足にできない認知症の高齢者を自宅で介護することはそう多くありません。欧米ではこういう議論だから日本でもこうするべきだという出羽守的な議論に価値がない一方、日本社会の価値観からすればこうあるべきという議論がゆっくりとしか進まないため、不必要で不合理な苦労を強いられる高齢者や介護に取り組む家庭がたくさん取り残され、結果として高齢化社会を悲惨な閉塞感の温床にしてしまっているように見えます。
必要なことは議論であり、日本人が日本社会を通して実現していきたいという哲学であることは言うまでもありません。ご都合主義的にセクシーな議論をするのではなく、複数の選択肢が自己決定の枠内で明確に民主主義に組み入れられるとき、日本はようやく高齢化社会からどう脱却するべきなのかという撤退戦のグランドデザインを作れるようになるのではないかと思います。
(山本 一郎)