昭和60年の日航123便墜落事故の発生から12日で40年となる。生存者捜索に当たった自衛隊OBらでつくる「JAL123便事故究明の会」が7月28日に開いた院内シンポジウム。事故を巡っては、相模湾(神奈川県沖)で試運転中の海上自衛隊護衛艦「まつゆき」が誤射したという言説が流布される中、まつゆきは当時東京湾で係留中だったと証言され、「陰謀説」の根幹が崩れつつある。520人が犠牲になった事故に対し、当時20、30代の自衛官らは危険を顧みず、任務遂行に務めた実態が改めて浮かび上がった。
「職業、間違えたな」
「凄惨(せいさん)かつ大量のご遺体に接触した。シートベルトで、上半身と下半身が別々になっている遺体が非常に多い。下半身だけの真っ赤なペディキュアの足の爪が見えたが、上半身がない。モミジのような子供の手がビニール袋に入って…。つらかった」
岡部俊哉元陸上幕僚長は時折顔をゆがめ、遺体収容時を振り返った。当時26歳。陸上自衛隊第1空挺団の小隊長として、事故翌日から3日間、生存者の救助、ヘリポート造成などの指揮に当たった。
損壊した遺体に比べ、ディズニーランドのお土産とみられる人形などは傷も汚れもない状態で地面に転がっていた。
岡部氏は「職業、間違えたな。自衛官、務まらないな。戦場は、こういう様相だろうな」と心境を振り返ったが、不思議と凄惨な現場に慣れていったともいう。
現場上空にはマスコミなど数多くのヘリコプターが飛んでいた。陸自のヘリポートは岩場に設営しており、岡部氏は「当たるとクラッシュする状況の中、見事、プロとしてやってくれた」と無事故で活動を終えた陸自ヘリの操縦士をねぎらった。
雷雲の下にオレンジの炎
陰謀説を巡っては、墜落する直前の123便をF4戦闘機が追尾し、搭載したバルカン砲で123便のエンジンを撃った可能性が言及されている。
実際、航空自衛隊が123便の墜落位置を確認するため、F4戦闘機2機を派遣したのは墜落直後だ。F4は複座型の2人乗り。それぞれ後席に乗り込んだ元空自操縦士の渡辺修三、南尚志両氏も登壇し、「バルカン砲は撃っていない」と否定した。
当時、日は没し、雷雲の中を飛行したというが、現場は確認できない。尾根と接触する危険もある中、徐々に降下していくとオレンジ色の明かりを確認。暗闇の中、辺り一面、炎が上がっていた。現場の位置を測定し、2機は帰投した。
南氏が乗った機体には異変が生じていた。窓ガラスに雷雲が近づくと生じやすい「セントエルモの火」と呼ばれる放電現象が発生。南氏は「ガラスが放電で白く飛んでいる。前席は非常に気持ちが悪い、と。『南さん、操縦してくれ』と。私が操縦して帰った」と振り返った。空自機の墜落事故の原因に多い、機体の姿勢を錯覚し「空間識失調」に陥りかねない状況だった。
獣道なき山中を切り開く
事故直後、事故派遣隊員だった小川清史元西部方面総監は陸路で墜落現場に向かった。獣道もない山中、40度ほどの急斜面を手で草を持ちながらよじ登るなどして、現場までの経路を開拓した。岩場ではケガした者も複数いたという。
陰謀説では自衛隊員が隠密行動し、墜落現場に先回りし証拠隠滅のため火炎放射器で機体の残骸などを焼き払ったとする。
小川氏は「火炎放射器を持てと言われたら(到着は)翌日になると思う。そういう命令をもらっても『なぜ現場に必要なのか。バカ言うな』とはねつけたと思う」と語った。
自衛隊犯人、耐えられない仕打ち
事故現場への登山道には現在、犠牲者の名前とともに「自衛隊が意図的に殺害した乗客・犠牲者」と記された「慰霊碑」が設置されている。関係者によれば、遺族によって令和5年8月に建立されたものだという。
岡部氏は昨年、事故現場に入った報道カメラマンと現地を訪れ、慰霊碑を前に2人で立ち尽くしたという。
岡部氏は「これがいわゆる陰謀説の浸透している姿だ。慰霊の思いで登っている人に対し、自衛隊が犯人だよ、と刷り込む。遺族が出したと思うが…自衛隊で活動した人間として耐えられない仕打ちだ」と語った。(奥原慎平)