群馬県警の「取扱注意」資料から浮かぶ日航機墜落事故、生存者4人が明かした機内状況とは

もう一つの報告書・日本航空機墜落事故40年(上)

2024年6月。旧知の群馬県警関係者が青色のB5判の資料を差し出してくれた時、思わず息をのんだ。資料のタイトルは「日航機墜落事故事件の捜査記録 捜査編」。秘匿性が高い資料なのだろう。表題には「取扱注意(部内資料)」と記されている。
資料の存在は知っていたが、日航機墜落事故の取材を始めて10年の私が、最も読んでみたいと思っていた資料の一つをようやく手にすることができた。
資料は400ページ超、19章立ての構成だ。単独機の事故では最多の520人が死亡、4人が重傷を負った1985年8月12日の事故を受け、県警が3年4か月にわたり、延べ約4万5000人の捜査員を投入して行った捜査内容をまとめたものだ。
「先輩たちの労力に報い、群馬県警のためになるなら」

私が日航機墜落事故の取材を始めたのは、前橋支局に赴任した2014年4月だった。事故の2年前となる1983年生まれの私は、事故当時の記憶は全くない。
県警が88年12月に米ボーイング社、日航、運輸省(当時)の関係者20人を業務上過失致死傷容疑で書類送検したこと。前橋地検が89年11月、遺族らでつくる「8・12連絡会」が刑事告訴した関係者も含めて計31人全員を不起訴とし、90年に公訴時効が成立したといった基礎的なことも、それまでわかっていなかった。
まずは、「8・12連絡会」の文集や、航空事故調査委員会(現運輸安全委員会)の「事故調査報告書」などを読み込むことから始めた。事故から30年となる2015年8月に向け、遺族や事故調査官らへの取材を重ねると、一様に記憶の風化を懸念していた。県警が事故について独自にまとめた資料があることを把握したのは、報道機関が果たすべき役割の大きさを感じていた、この頃だ。
県警担当として、日々発生する事件・事故の取材に対応しつつ、資料の入手に努めた。ただ、普段は捜査のあり方について腹を割って議論できる幹部ですら、資料を少し見せてくれるだけで「これ以上はダメだ」と取り上げられてしまった。結局、17年9月に異動するまで資料を入手することはできなかった。
それから約7年後、その資料が目の前にある。内部文書の提供にためらいがあるのか、資料は一見何でもない白のポリ袋で包まれていた。「先輩たちの労力に報い、群馬県警のためになるなら」。その言葉の重さをかみしめた。
初期捜査で得た証言が裏付けた事実

当時の捜査員の苦労に思いをはせながら、資料を読み進めて最初に手が止まったのは、「第3章初期捜査」。この項目については、13日付朝刊の日航機墜落事故40年特集面と読売オンラインの特集ページで詳しく説明しているので、ぜひご覧いただきたい。
生存者に対する捜査では、時速約560キロに及ぶ衝突から奇跡的に一命を取り留めた4人の証言が収められていた。異常発生時の機内の様子や墜落時の状況などを知る上で重要な手がかりとなったはずだ。
たとえば、非番で事故機に乗り合わせていた日航客室乗務員女性(当時26歳)は県警の聴取に対し、「離陸後に週刊誌を読み始め、間もなく水平飛行になりベルトサインが消える頃、『バーン』と大きな金属音と同時に霧がたちこめ、私は週刊誌を床に落としてしまった」と証言。さらに「金属音がした地点は、最後部トイレの天井付近で、70センチ四方の穴が2か所開いて、中のテントの布様の物が風でパタパタと揺れていた」などと話していた。
県警は4人から話を聞いた結果、機体の後部破壊とそれに伴う急減圧の状況が裏付けられたとしている。
目撃者捜査では、事故機体に取り付けられていた飛行記録装置を解析して時間ごとの飛行状況を把握し、地上での目撃者の証言を集め、墜落までの裏取り捜査を進めていた。
羽田空港離陸から12分後の午後6時24分頃、相模湾上空で、日航機が「ドーン」という音を出した。これと思われる音を、三浦半島や伊豆半島で計6人が聞いていて、雷音と勘違いしていたという。
日航機のエンジン出力が上がらず、降下率が大きく増加していた奥多摩地方の上空の様子は、東京都青梅市と奥多摩町で計7人が目撃していた。うち1人は日航機を写真撮影していた。この写真により、すでに垂直尾翼の大半が欠落していた状態だったことが裏付けられた。
自衛隊の関与という偽情報を打ち消す捜査も

日航機墜落事故を巡っては、「自衛隊が関与した」「自衛隊の標的機が衝突した」などと根拠のない臆測が発生後から飛び交っており、現在も根強く残っている。
県警は当時、こうした「偽情報」を打ち消す捜査も行っていた。事故から40年。当時を知る人が減ってきている今こそ、事実を一つ一つ裏取りした「捜査編」を報じる重要さを痛感した。