家族の記憶<2>俳優・玉木宏さんと祖父・武雄さん(下)
終戦時に満州などにいた人々はソ連によって各地の収容所(ラーゲリ)へ連行され、森林伐採や鉄道敷設、炭鉱労働などに従事させられた。これを広く「シベリア抑留」と呼び、長い場合は10年以上に及んだ。
ソ連は45年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦した。終戦の8日後、スターリンは抑留の極秘指令書に署名する。連行対象は「肉体的に適した」捕虜であること、地域ごとの人数配置……。指令に基づき、ソ連兵らが満州や朝鮮半島、南樺太などにいた日本兵らを連行。収容所では共産主義を植え付ける「教育」も行われた。
背景には、ソ連が大戦で人口の1割を超す2600万人以上の国民を失い、復興に向けた労働力を求めていたことがあるとされる。
人数などには諸説あるが、国は帰還者の証言などから約57万5000人が抑留され、うち約5万5000人が死亡したと推計する。厚生省(当時)が発行した「引揚げと援護三十年の歩み」(1978年)には「暖房設備及び燃料も不十分のまま、零下三、四十度の越冬生活を続け」など過酷さを伝える記述が残る。
帰国は日本を統治していた米国が46年12月、ソ連との間で抑留者の引き揚げに関する協定を結んだことで始まり、56年までに約47万3000人が母国の土を踏んだ。京都・舞鶴港には、子の帰りを待ち焦がれる母親が詰めかけて「岸壁の母」と呼ばれた。
一方で、死亡者のうち1万3000人以上は身元を特定できておらず、現在も3万柱を超える遺骨が異国の地に取り残されている。
〈かならず帰れる日がくる。まだぼくたちは若いし、人生は長いんだよ〉。作家の辺見じゅんさんによるノンフィクション「収容所から来た遺書」(89年)には、抑留中の主人公、山本幡男さんがそう周囲を励ます場面が描かれる。
山本さんは、玉木宏さんの祖父、武雄さんと同じ西ノ島の出身だ。45歳だった54年8月に収容所でがんで死去したが、その直前に病床で家族宛てにノート15ページ分の遺書をしたためた。仲間7人は遺書がソ連に没収される前に内容を暗記し、帰国後にそれぞれが山本さんの家族に伝えた。
島では、中学生が地元の偉人や文化をテーマにした劇を披露する「ふるさと演劇」で定期的に取り上げるなど継承に力を入れる。「山本幡男を顕彰する会」会長の岡田昌平さん(83)は「苦しくても希望を捨てない生き方を子どもたちに学んでほしい」と語る。
関東学院大学の小林昭菜准教授(日ソ関係史)は「かつては身近なところに抑留経験者やその家族がいて話を聞けたが、今となっては難しい。私たちに求められるのは、『どうすれば次世代に歴史を伝えていけるのか』と想像力を働かせることだ」と話した。