靖国神社「公式参拝」は、なぜ1回しか行われなかったのか 「中曽根文書」会見記録とオフレコメモから読み解く一部始終

終戦の日にあたる8月15日は、超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」メンバーが靖国神社(東京都千代田区)を参拝するのが恒例だ。ただ、現職首相による8月15日の参拝は2006年の小泉純一郎氏を最後に途絶えている。
現時点で戦後唯一の「公式参拝」が行われたのは、ちょうど40年前の1985年8月15日のことだ。中曽根康弘首相(以下、肩書きはいずれも当時)によるものだ。公式参拝をめぐっては、当初は近隣諸国からの反応をきわめて楽観視。86年以降も継続する意欲を見せていた。だが、実際には中国からの反発が予想外に強く、結局は85年の秋の例大祭や86年の終戦の日の参拝を見送っている。
中曽根氏が生前、国立国会図書館(東京都千代田区)に寄託した大量の文書の中には、官房長官会見の記録や、政府・与党幹部がクローズドな場で記者と話した内容を記した、いわゆる「オフレコメモ」も含まれる。一連の経緯を「オン」「オフ」の両面から、「中曽根文書」を通じて読み解く。
日本遺族会が要求、違憲にならないようにバランス取った「公式参拝」
資料は中曽根氏が塾長を務めた「青雲塾」(群馬県高崎市)などで保管。14年3月に国会図書館と計3875点について寄託契約が結ばれ、分類作業を経て19年8月に2194点が憲政資料室で公開された。
その大量の資料には、「官房長官記者会見」と題したファイルもあり、発表資料や、官房長官と記者のやり取りを手書きで書き起こした文書が収められている。発表資料は国立公文書館で開示された「閣議資料」にも含まれていたが、会見の書き起こしは公文書館では発見できなかった。
中曽根文書には「情報簿」と題したファイルもあり、政治家の発言とみられる内容が収録されている。その多くが「日時、取材対象者、取材形式、記録者」のフォーマットに沿ったメモだ。
中曽根氏は首相就任後、83年、84年と靖国神社に参拝してきたが、84年には日本遺族会メンバーが公式参拝を求めて靖国神社境内で断食する騒ぎがあり、公式参拝にかじを切った。当時の内閣法制局は、公式参拝には憲法違反の疑いがあるとの立場で、藤波孝生官房長官が84年8月に「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)を設置。85年8月9日に出された報告書では、(1)大方の国民感情や遺族の心情をくむ(2)政教分離原則に関する憲法趣旨に反しない(3)多数の国民に支持、受け入れられる形で「実施する方途を検討すべきである」とした。そこで、神道を奨励したり、他の宗教を妨害したりしようとしていると受け取られないように(1)昇殿はするが奥には入らない(2)二礼二拍手一礼しない(3)神職のお祓いも受けない、という参拝形式でバランスを取ろうとした。
官邸周辺のデモは「部屋の中で話しをしておっても聞き難い位の、そういう響き」
懇談会の報告を踏まえて 8月14日、藤波氏が談話を出し、中曽根氏による公式参拝の方針を発表。この時の記者会見は16時1分から50分まで、実に49分間に及んだ。記者からの質問も、供花と(公金を宗教団体に支出できないことをうたった)憲法89条の関係、地方の護国神社に波及する可能性、記帳の有無、外国からの批判、戦犯の合祀、供花の値段、「玉串料」ではなく「供花」になった理由など、多岐にわたった。
書き起こしからは現場の混乱ぶりもうかがえる。当時は、防衛関係費を国民総生産(GNP)の1%の枠内に抑える閣議決定の撤廃が課題になっていた。この点を念頭に記者が
と質問すると、藤波氏は次のように応じた。
「そりゃあ、これだけ検討したんですから、ざん定ということはありませんね」
中国外務省は参拝方針を批判する談話を出したが、政府・与党としては、8月15日の公式参拝について近隣諸国に理解を得て、86年以降も続ける意向だったようだ。もっとも、8月15日の参拝直後の記者会見では、藤波氏は
などと煙に巻いている。
ただ、オフレコメモでは、継続の意向が明確に語られている。例えば「8/14夜 安倍こん」のメモ。安倍晋太郎外相による懇談内容だとみられ、いわく「(アジア諸国へは)よく説明し、理解を求める必要がある。理解は得られると思う」。山崎拓官房副長官を念頭に置いたとみられる「山拓 懇談(各社)」のメモでは、
とある。8月15日の「藤森夕懇」のメモでは、
という記者の質問に対して、藤森昭一官房副長官とみられる人物が、
と応じている。
戦死者の大半は「国を守るためにはしかたない、とそんな気持ちで戦地に行った人たち」
中曽根氏本人も同様の考えだったようだ。「8/22 中曽根 夕食懇」のメモでは、「参拝の形式は今後もこのまま続くのか」という質問に、中曽根氏は次のように答えた。
「検討中」連呼する官房長官、記者「成田を飛び立つまで検討されるんですか」
だが、9月下旬には北京大学で中曽根政権を批判するデモが発生し、事態は一変。10月19日から訪米が控える中で、10月17~19日に予定されていた秋の例大祭に中曽根氏が参拝するか焦点になった。
表向きは、藤波氏はギリギリまで記者会見で「検討中」を連呼。数なくとも10月2日、7日、15日、16日、17日、18日の会見で「検討中」と発言している。特に10月16日には、いらだった記者が
という聞き方をしたが(実際には中曽根氏は羽田空港から出発)、
という、のれんに腕押しの答弁だった。
ただ、舞台裏では、藤波氏は厳しい見通しを記者に明かしていた。「10/2 16:20 藤波 コンダン」のメモでは、藤波氏とみられる人物が、参拝について「検討するということであり、いま総合的に検討している」としながら、中国の反応については「厳しいとみています」。「いろいろやっているが効果はあがっているか」という問いには、いら立ちをにじませた。
安倍晋太郎外相が訪中している最中の「10/11 16:30 藤波」のメモでも、事態が好転している様子は読み取れない。
結局中曽根氏は、靖国に行かないまま訪米。藤波氏は、中曽根氏が米国に向けて出発した直後の10月19日午前の会見で、参拝見送りの理由を
と説明した。「総合的に」に中国への配慮は含まれるのか、という質問には
と応じた。
当初は中国も黙認方針…政治問題になってしまい「原則論で押さざるを得ない」
その舞台裏を語る人物もいる。赤文字で「要注意」と書かれ、「宮沢私邸懇(85.10.24夜) オフレコ」と題したメモだ。自民党の宮澤喜一総務会長とみられる人物が、次のように語っている。
その上で、当時の政府の見通しの甘さを指摘した。
中国の反発はこの後も収まらず、後藤田正晴官房長官が86年8月14日に「国際関係を重視し、近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない」などとする談話を発表。公式参拝のみならず、参拝そのものを見送ることを表明している。
(J-CASTニュース編集委員 兼 副編集長 工藤博司)