熱海で魚買い付け新橋の闇市へ、中身不明の「残飯シチュー」…着物を1枚ずつ交換する「タケノコ生活」

[戦後80年]食の記憶<5>

終戦になっても深刻な食料難に直面した。台湾などから運ばれていた食料がなくなるとともに、1945年のコメは全国的に凶作だったことや、軍人の復員、民間人の引き揚げで人口が急増したためだ。配給の食料は遅配や欠配が目立ち、栄養失調で死亡する人もいた。
人々は自家菜園で自給したり、列車に乗って農村部へ買い出しに行ったりした。高い値段で非合法に売買する「闇市」も駅周辺に出現した。元兵士らが農村や漁村から食料を運ぶなどして様々なものが並んだ。
埼玉県川越市の山崎多嘉子さん(90)は強制疎開で東京都港区から川越に移った。空襲による延焼を防ぐとして実家が壊されたためだ。食べ物もなく、「疎開人」と言われて肩身が狭かった。戦後、生活を支えたのが海軍の元兵士で、職がなく闇市の仲卸をしていた長兄の金一さんだった。
当時23歳の金一さんは毎朝、始発列車で川越から静岡県熱海市まで行き、漁師からブリを5~6本買い付け、東京・新橋の闇市の店に売った。1日に何往復もして終電で帰ってきた。売り物にならないアジやイカは農家でコメと交換してもらった。その貴重なコメで一度だけ母親が作ってくれたカレーライスは忘れられない。「カレー粉を混ぜただけで具なんてほとんどなかったが、夢中で口に運びました」
山崎さんは学校で「闇屋」と言われ、いじめられた。一度、お世話になっている漁師に母とあいさつに行ったことがある。漁師の妻に「お兄さん、よく働いているね」と声をかけられた。「兄のおかげで家族が生きていられた。今でもその時のことを思い出すと涙が出る」と振り返る。
闇市は49年頃から姿を消すが、残っているところがあった。川崎市の男性(93)は闇市の料理を覚えている。終戦から6年後、都内の大学に入学した時、一番のごちそうは池袋駅西口の闇市マーケットの焼きそば。鉄板で焼いたソース味のそばにノリをかけただけで具はなく、1皿20円。「ソースのにおいが食欲をそそりました」
闇市でよく出されていた「残飯シチュー」を食べられる店が当時、神田駅のガード下にあった。米軍の残飯を一斗缶に入れて煮込んだシチューで、1杯20円。中に何が入っているか分からない。一度食べた時、牛肉が入っていた。「あたりだ」と喜んだ。

持ち物を食料と物々交換して「タケノコ生活」を送る家庭も多かった。着物を一枚、また一枚と交換することを、タケノコの皮をはいでいくのにたとえた言葉だ。
相模原市の男性(89)は、父が戦死し、母親や弟妹と戦中から戦後にかけて埼玉県に疎開した。生活に困窮し、小学5年生の頃、母と数回、農家を回った。母は都会風の服や着物を乳母車に詰め、2歳の妹を背負って歩いた。男性は8歳の妹、5歳の弟の手を引いた。どんな食料と交換したかは覚えていないが、農家の人が露骨に浮かべる嫌な顔が忘れられない。「楽しい記憶はありません」と話す。

空襲で焼け野原になって住む家がなく、廃材やトタンで作った簡素な小屋「バラック」で生活する人も多かった。
東京都品川区の女性(90)は戦時中、強制疎開で自宅が取り壊された。46年、栃木県の疎開先から戻り、焼け残った丸木でバラックを建て、住み始めた。一帯は同じようなバラックばかり。夕方にはイワシの配給があり、バケツを持って並んだ。主食は配給のトウモロコシ粉。七輪で焼いて食べた。粘りがなく、母が固めるのに苦労していた。
バラックを建てた近くに今も住んでいるが、一帯はタワーマンションが林立する地域に変貌(へんぼう)した。「バラックが立ち並んでいたことを知らない人も多いだろう」
■食料の厳しい取り締まり
▽千葉県船橋市・男性(87)「終戦翌年の夏、農家だった茨城の父の実家で過ごし、当時住んでいた東京の自宅へ帰る時、1升ほどの玄米を持たせてくれました。『帰りの列車で取り締まりがあるかも』と聞いた祖母は、手ぬぐいを縫い合わせて筒状の袋にし、コメを入れ、『これでイモのように見えるだろう』とリュックのイモの間に忍ばせました。無事帰って食べたご飯はおいしかったです」
▽千葉県白井市・女性(79)「小学2年生だった頃、両親と一緒に母の実家の福島へ行きました。お土産に持たせてもらったコメが列車の中で警察に見つかり、途中下車させられ、父親が問い詰められました。父親がかわいそうで、『お父さんはもう悪いことをしませんから許してください』と叫びましたが、没収されて切なかったです」