幻の九州上陸「オリンピック作戦」前に空襲激化、左足失った女性…「軍人には恩給あるのに民間人には補償ない」

米軍が1945年秋に南九州への上陸を計画した「オリンピック作戦」を前に、九州では80年前の夏、空襲が激化した。その時期に鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)で空襲に遭い、左足を失った安野(あんの)輝子(てるこ)さん(86)(堺市)は、戦争に人生を狂わされたとの思いを抱えて生きてきた。「戦争は民間人にも大きな被害が出ることを理解し、国民全体で平和を求め続けてほしい」と願う。(今泉遼)

小学校の同級生と並んで写った卒業写真、家族との記念写真、旅行の時の写真――。いずれも足付近が黒く塗り潰されている。
「足がないのを見たくなくて、自分で塗り潰したのだと思う。楽しいことなんてなかった」。安野さんが自宅で半生を振り返った。
母親らと川内市で暮らしていた45年7月16日。6歳の安野さんは自宅で弟たちと遊んでいた。突然ものすごい衝撃を受け、気を失った。意識を取り戻すと、辺り一面が血だらけになり、左足が切断されていた。
少し離れた駅を狙ったとみられる爆弾が自宅近くに落ち、破片が飛んできたことは後に知った。医療機関で止血などはされたが、足の縫合はしてもらえなかった。ビーカーのような容器に入った自らの左足を見ても、「トカゲの尻尾のように足も生えてくるだろう」と楽観視していた。
2週間ほどして自宅に戻ったが、オリンピック作戦を控え、米軍機の襲来は続いた。再び空襲に見舞われ、母親に背負われて防空壕(ごう)に避難した。自宅は焼け、祖父の生家を頼って県内の郊外に疎開した。2歳の弟は栄養失調で亡くなった。

終戦後、疎開先で小学校に入学し、松葉づえで登校した。好奇の視線を受け、松葉づえを隠されるいじめにも遭った。体育の授業や修学旅行には参加できなかった。仕事を求めて先に故郷の大阪に戻った母親を追って移住。17歳で義足を作り、洋裁学校に通った後、洋服を作る職を得た。
30歳代半ばで結婚し、長男を出産。「家事も育児も人の倍、時間がかかった」。足の切断箇所は夏は蒸れ、冬は寒さで痛みが走った。「軍人には恩給があるのに、民間の空襲被害者に何の補償もないのはおかしい」。疑問は年々深まり、他の空襲被害者とともに2008年、国家賠償を求めて大阪地裁に集団提訴し、上告審まで争ったが敗訴した。
10年に発足した全国空襲被害者連絡協議会のメンバーとして、国に法整備を求める活動も行ってきた。「仮に今、ミサイルでけがをしても民間人なら何も補償はない。現在の問題としても考えてほしい」と語る。

数年前、テレビ局の取材で、南九州の空襲の激化がオリンピック作戦の地ならしだったことを詳しく知った。「戦争が続いていたら、地上戦で九州は壊滅し、私も今ここにいなかった」。改めて恐ろしさを感じた。「しなくてよいはずの戦争で命を落としたり、けがをしたりするのは悲惨だ。二度とこの気持ちを味わってほしくない」と訴える。
救済案 臨時国会提出目指す…超党派議連

空襲被害者の救済に関し、超党派の国会議員連盟が先の通常国会での法案提出を目指していたが、一部の政党で党内手続きが済まず、提出は見送られた。
法案は「長年にわたる多大な労苦に鑑(かんが)み、国として慰謝し、犠牲者への追悼の意を表する」などと言及し、空襲で心身に障害を負った被害者らに一時金50万円を支給する内容だ。議連は今秋にも召集予定の臨時国会での提出を目指している。
全国空襲被害者連絡協議会の浅見洋子事務局次長(76)は「ようやくここまでこぎ着けた。戦後80年の節目に、早期に成立させてもらいたい」としている。
◆オリンピック作戦=太平洋戦争末期に米軍が立案した九州上陸作戦の通称。防衛庁(現・防衛省)がまとめた戦史叢書(そうしょ)によると、1945年11月1日に鹿児島の志布志湾、吹上浜、宮崎の宮崎海岸の3方面から上陸する計画だった。準備段階として物資の供給を遮断し、南九州を孤立させるため、空襲を激化させた。