逮捕しても「第二の立花孝志」は必ず現れる…マスコミが目を背ける日本人が「NHKをぶっ壊す」を支持した理由

政治団体「NHKから国民を守る党」(以下、N国党)の立花孝志党首が名誉毀損の疑いで、兵庫県警に逮捕された。兵庫県知事をめぐる内部告発に関して、竹内英明前県議(今年1月に死去)の名誉を傷つけた容疑である。
立花氏の逮捕については、さまざまなメディアで議論が続いている。
11月10日放送のテレビ朝日系列「羽鳥慎一 モーニングショー」では、コメンテーターの玉川徹氏が「政治活動の自由、表現の自由は最大限守られなければならないというのは大前提」とした上で、「その過程で、誰かを傷つけたり、虚偽の犬笛を吹いて多くの人から攻撃をさせることをやった。そういうことがいいはずがない」と批判した。
他方で、身柄を拘束した点について堀江貴文氏が、「典型的な人質司法的な」案件であり、「『逮捕されたら犯罪者である』みたいな言動が行われている」とYouTubeで疑問を呈した。
逮捕が良いのか悪いのか。それだけでも見解は分かれているし、本稿執筆時点(2025年11月12日)では、起訴もされておらず、裁判になるかどうかもわからない。推定無罪の原則にもとづけば、兵庫県の斎藤元彦知事のように、「捜査中であり、コメントは差し控えさせていただく」とするのが妥当なのだろう。
私は、ここで、立花氏やN国党について、批判をしたいのでもなければ、逆に、擁護したいわけでもない。それよりも、あらためて「立花孝志」とは何なのか、を考えてみるきっかけにしたい。なぜ、私たちは、ここまで彼について語るのだろうか。
立花氏は、1967年、大阪府泉大津市に生まれ、府立信太高校を卒業後にNHKに入る。最初に世間に知られたのは、2005年、週刊文春での内部告発だった。「NHK現役経理職員立花孝志氏懺悔実名告白 私が手を染めた裏金作りを全てお話しします」(同誌2005年4月14日号)と題された記事は、いま立花氏のブログに転載されている。
当時、「紅白歌合戦」のプロデューサーだった人物による巨額の横領事件をはじめ、NHKの不祥事が相次いでいた。なかでも立花氏のこの告発は、同局の組織としての不健全さを明らかにし、大きなインパクトを与えた。
彼自身による「立花孝志の軌跡」(『NHKから国民を守る党 立花孝志かく闘えり』大洋図書、2020年)によれば、「スポーツ放映権料の秘密を公開したため懲戒停職1カ月」、そして、「オリンピックで裏金を作ったとして懲戒出勤停止7日間」の処分を受けたのちに、2005年7月末日で退職する。
内部告発に至る動機を、その著書のなかで、次のように述べている。
この「正義感」こそ、「立花孝志」とは何か? を考えるキーワードにほかならない。
NHKを退局してから「2ちゃんねらー」「パチプロ」「ジャーナリスト」「革命家」(自著による)として活動していた彼は、なぜ政治家になったのか。それは、当時の大阪市長・橋下徹氏の「一言」がきっかっけだったという。
「在日特権を許さない市民の会」の初代会長・桜井誠氏との公開対談での、橋下氏による「そんなに言うなら市民活動ではなくて自分で政党立ち上げてやれよ」との発言から、「なるほど」と立花氏は思う。
そして立花氏は、「無名の自称ジャーナリスト」として橋下市長の記者会見で質問したときに、「NHKの受信料問題に大阪市長として取り組むつもりはありません」との返答を受ける。この「一言」で、「政治家を志すことにしました。自分でやろう、と」と彼は自著に記している(前掲書、64ページ)。
橋下氏は、「大阪維新の会」をつくり、その後に国政政党「日本維新の会」につなげた。立花氏は、「NHKをぶっ壊す!」のワンイシューで、政党要件を満たすまでに勢力を広げた。そのあいだには、たしかに似ているところがあるのではないか。
選挙ウォッチャーちだい氏は、『「NHKから国民を守る党」とは何だったのか?[電子版]』(新評論、2023年)のなかで、「維新は『ホワイトカラーに狙いを定めたN国党』であり、N国党は『下層・旧中間層に狙いを定めた維新』であるとも言えそうだ」と指摘している。
同氏によれば、N国党の政治活動の本質は「ハラスメントの連鎖」だという。それは、「精神的暴力」であり、「暴力の連鎖」というのが、同氏の見解である。この点に同意するかどうかはともかくとして、同氏が「毎日のように駅頭に立ち続ける」立花氏の選挙手法を「典型的な『ドブ板選挙』」と見ているところには首肯する。
維新とN国党の類似点は、そのターゲットと、それに伴う選挙のやりかたにあるのではないか。そして、その類似性にこそ、あらためて着目しなければならない。なぜなら、そこには、一連の「立花孝志」をめぐる視点が集約されているからである。
問題は、維新とN国党、もしくは、「橋下徹」と「立花孝志」、それぞれの2つが似ているかどうか、ではない。それよりも、それぞれの方法の相似点=「ドブ板選挙」が、少なくない人の心をつかんできた。
それは、既製政党への忌避感であり、ここ数回の国政選挙での、参政党やれいわ新選組といった、「新しい」政党への支持にもつながる。たしかに、「毎日のように駅頭に立ち続ける」議員や候補者は、自民党や立憲民主党にもたくさんいる。
しかし、そうした大きな政党に所属している人たちは、たとえ実態がどうあれ、あくまでもイメージとして「既得権益」を持っているように見える。立花氏が標的としたNHKが典型であり、また、橋下氏が批判してきた大阪の自民党や民主党(当時)もまた同じである。
いかにも甘い汁を吸っていそうな人たちであり、さらには、情報を隠していそうな人たちである。
実際に、NHKは立花氏の内部告発により不正がただされ、そして、立花氏自身が処分された。大阪府と大阪市の「改革」については、賛否の声があるとはいえ、府立大学と市立大学の統合をはじめとして、「目に見える」かたちでの「成果」が出た。
その結果、2019年の参議院選挙でN国党は議席を獲得したし、2024年の衆議院選挙では、すべての小選挙区で、日本維新の会が議席を得た。もちろん、この2つの政党に投票したのは、大多数ではないし、また、依然として自民党が政権与党にいる。革命が起きたわけでも、政権交代が起きたわけでもない。
けれども、自民党は、発足以来はじめて、衆議院でも参議院でも過半数を割り込むところに追い込まれ、日本維新の会と連立を組まねばならなくなった。与党だった公明党は、比例代表での得票数を大きく減らし続けている。
こうした流れは、既得権益層(だと思われている政党や人たち)への憎しみと言えるほどの感情に基づいているのではないか。
立花氏をはじめとするN国党といえば、選挙ウォッチャーちだい氏の次の指摘が正鵠を得ていよう。
この点は、まさに、参政党にも通じるし、逆に、自民党や公明党、共産党といった古くからある政党が最も弱くなっているところである。そう考えると、仮に、今回、「立花孝志」を糾弾したり、罰したりしたところで、第二、第三の「立花孝志」が出てくるのではないか。いや、参政党の勢力拡大をみれば、すでに登場しているどころか、日本中に広がっているのではないか。
この点、つまり、「立花孝志」をどう見るのかは、私たちにとって「踏み絵」なのである。既得権を持っている層と、持たざる層を分ける「踏み絵」なのである。
言い換えれば、「立花孝志」を批判する人たちには、支持者が逆恨みしているというか狂信者のように見え、「立花孝志」を支持する人たちには、批判者が既得権益をむさぼっているように見える。既得権益を持つ層は情報を隠蔽しており、それに関して真実を教えてくれるのが「立花孝志」である、という構図があるのではないか。
私は、ここで、「踏み絵」だから踏むべきだ、とも、踏まないべきだ、とも、どちらも言いたいわけではない。そうではなく、なぜ、「踏み絵」になっているのか、そのきっかけをわかろうとしなければならない、と主張したいのである。
「ドブ板選挙」を徹底するN国党も、参政党も、どちらも、既得権益を持たない人たちの声を聞いてくれている、そう印象づけている。れいわ新撰組や、国民民主党の街頭演説もまた、聴衆にマイクを渡して、質問を受け付ける時間を多くとっている。
ただ「毎日のように駅頭に立ち続ける」だけではない。これまで聞いてもらえなかった声を、確実に聞いてもらえている、そう実感させるには、ポーズだけでは済まない。ときには罵声を浴びたり、ヤジで演説が掻き消されたりする。そんな場面をくぐり抜けて、「立花孝志」は活動してきた。
「なぜ『立花孝志』が求められたのか」を、NHKをはじめとするマスメディアは理解していないし、理解しようとすらしていないのではないか。だからこそ、今回の逮捕報道にあたっても、「立花孝志」が是なのか非なのか、その功罪というよりも「罪」が確定したかのように報じているのではないか。
だから、「立花孝志」が「踏み絵」である限りにおいて、踏む人たちと踏まない人たちのあいだの溝やズレは埋まらないどころか、広がるばかりなのである。私たちに求められるのは、「踏み絵」を避け、その理由を考えようとする謙虚な姿勢ではないのか。
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(神戸学院大学現代社会学部 准教授 鈴木 洋仁)