「どうせ今度もダメだろうな…」日本の政治家に抱いた淡い期待と寂しさ。拉致被害者・曽我ひとみさんが帰国23年で語った胸中【全5回連載④】

政府は、拉致問題など北朝鮮による人権侵害問題についての関心と認識を深めるため、毎年12月10日からの1週間を「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」と定めている。
この「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」を前に、福岡市で「拉致問題を忘れないで~今伝えたいこと~」と題した講演会が開かれた。
登壇したのは初めての福岡訪問となった拉致被害者の曽我ひとみさん(66)。

1978年8月に母・ミヨシさんとともに拉致され、24年間を北朝鮮で過ごした。

2002年に帰国したものの、母とは拉致された日から47年もの間、会うことが叶っていない。
帰国から満23年。

曽我さんは全国を回り、拉致問題の風化を防ぐために声を上げ続けている。
※全6回連載その④
2002年9月17日 騙され続けた末の希望
2002年9月17日、日本から総理大臣がやってきた。

しかしこの時点では、曽我さんはいつものニュースとしか受け取っていなかった。
それから程なくして、組織の幹部らしい人が訪ねてきた。

「近いうちに日本の調査団が来る。色々と聞かれると思うから、何を聞かれてもいいよう準備しておくように」というのだ。
曽我ひとみさん

「私はとてもびっくりしたのと同時に、『やっとこの日が来たのか』という期待と嬉しさが入り混じった気持ちになりました。けれども実際に面会の日が訪れるまでは、『また騙されるのではないか』という思いも頭の中にありました」
なぜか。
拉致されてからずっと北朝鮮という国に騙され続けていたからだ。

日本という国は私1人など助けてはくれないんだろうという絶望の中で24年間生きてきたからだ。
組織に騙され続けたというのは、拉致されてすぐの頃は「母親は日本で元気にしている。朝鮮語を勉強して上達したら日本に帰してやる」と言われたこと。

朝鮮語ができるようになると「結婚して家庭を持てば里帰りさせてやる」と言われたこと。

結婚してからは「子供が生まれたら親に会うため帰してやる」と、次々と騙され続けてきたことが原因だ。
淡い期待の一方で「どうせ今度もダメだろうな」
また、日本に失望したというのは、24年の間に何度も日本の政治家が北朝鮮を訪問したにも関わらず、拉致被害者の誰1人として助け出してくれなかったことだ。
曽我ひとみさん

「『日本の政府の誰でもいい、私たち日本人が無理やり連れて来られてここで生きていることを知ってほしい。そして助けてほしい』と、ニュース番組で日本の政治家が来たことが流れるたび、淡い期待を抱いたものでした。その反面、『どうせ今度もダメだろうな』と寂しさを感じたのも事実です」
これだけ期待を裏切られ続けてしまうと、誰も信用できなくなってしまう。

唯一信用できるのは自分の家族だけだった。
しかし、時間は動いた。
今、こうしていられるのも、当時の政府関係者、関係機関の皆様の並々ならぬご尽力のおかげだと曽我さんは感謝している。
ただ、まだ帰国できずにいる拉致被害者の気持ちを考えるといらだちを覚えている。
朝早くから夜遅くまで…身を粉にして働き通した姿 母・ミヨシさんの記憶
曽我さんと一緒に拉致された母・曽我ミヨシさんがどうなっているのか、未だに事実は判明していない。

北朝鮮側はミヨシさんを拉致したことすら認めていない。

日本に生活していれば、まだまだ元気で畑仕事などをしていたかもしれないと曽我さんは想像している。
母を思い出す時、母を語る時、曽我さんの脳裏にはいつも同じ姿が浮かんでいる。

朝早くから夜遅くまで、本当に身を粉にして働き通した姿だ。
当時は田んぼも耕作していたので、朝仕事をした後、子供たちに食事を食べさせ、学校へ送り出し、母も慌ただしく朝食をとると工場へ出勤していった。

仕事を終え家に帰ってから食事の支度、片付け、一休みする間もなく、内職をする。

これが毎日の生活パターンとなっていた。
なぜ母がこのように昼夜なく働くことになったのかというと、父がバイク事故の後遺症で働けなくなったからだ。

家は貧しく、母が朝から深夜まで働いても、家計が楽になることはなかった。
曽我ひとみさん

「そんな生活状態でも、母は決して愚痴などこぼしたことがありませんでした。それどころか、私たちには、いつも明るくふるまい、少々悪いことをしても、怒ることもありませんでした。自分のことは、いつも後回しで、一番に子供のことを考えてくれる。とても優しく愛情をいっぱい注いでくれる、そんな母でした」
遠足の時、奮発していろんなおかずを作ってお弁当を持たせてくれた。

曽我さんは今までにない豪勢な弁当にただただ喜ぶだけだった。

だけど、母の弁当のおかずは、すごく辛い漬物が少し入っていただけだった。

「どうして母ちゃんは漬物だけなの?」と聞けば「おかずが辛いからご飯がいっぱい食べられるからだよ」というのだ。

母もいろんなおかずが食べたかっただろうに、我慢していたんだなと。

今なら母の気持ちがよく理解できる。
両手で数えるくらいしか残っていない母の写真
ある年の夏、盆踊りに行くことになった。

友達はみんな浴衣を着ていくというので、羨ましいと思う気持ちと仲間外れになりたくないという気持ちが同時に湧いてきた。

母の都合など考えもせず、「盆踊りに友達はみんな浴衣で行くって言うから、私も浴衣着たい。祭りの日までに浴衣を縫って」とわがままを言った。

母が和服の裁縫が得意だったのを知っていたからだ。
それなのに文句も言わず、母は夜なべをして浴衣を縫ってくれた。

出来上がった浴衣を見て喜ぶ曽我さんには、その時の母の気持ちを考えることなどなかった。
曽我ひとみさん

「今思い出しても、本当に母には無理ばかりさせたなと反省と感謝の気持ちでいっぱいです」
あの頃の母は毎日どんな気持ちでいたんだろうと思うことがある。

生活に追われ働き詰めの毎日で、おしゃれの一つもできなかった。

集落の付き合いや職場の付き合いなどもあっただろうに、数えるくらいしか出かけることもなかったと言っていた。
そのせいばかりではないだろうが、曽我さんの知る限りでは母の写真は両手で数えるくらいしか残っていない。
曽我ひとみさんの講演は全5回の連載です。「どうせ今度もダメだろうな…」日本の政治家に抱いた淡い期待と寂しさ。拉致被害者・曽我ひとみさんが帰国23年で語った胸中【全5回連載④】