高代延博さんが死去 日本ハムなどで活躍 引退後は阪神などでコーチ務め、WBCで世界一に貢献

阪神、中日などでコーチを歴任した高代延博さんが死去していたことが10日、分かった。

希代の名伯楽が天国へ旅立った。高代延博さんが入院先の大阪市内の病院で家族にみとられ、静かに息を引き取った。71歳だった。

高代さんは智弁学園(奈良)から法大に進み、1学年下の江川卓などと東京六大学で活躍した。卒業後は東芝に入社し、78年ドラフト1位で日本ハムに入団。プロ野球選手としては小柄な体格ながら走攻守で存在感を発揮した。1年目から遊撃のレギュラーに定着。開幕スタメンを勝ち取ると、123試合に出場して打率・249、7本塁打、47打点を記録した。守備でもいきなりダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を獲得。88年には交換トレードで広島に移籍し、翌89年限りで現役を引退した。

新天地への移籍が高代さんの大きな転機となった。90年に広島の1軍コーチに就任。法大の先輩でもある当時の山本監督から三塁コーチを任されると、指導者としての新たな能力を発揮した。その後は中日、日本ハム、ロッテ、中日、韓国・ハンファ、オリックス、阪神と日韓でコーチを歴任。09年、13年は日本代表コーチを務め、09年の第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では世界一に大きく貢献した。

「高代、お前は“きりのタンスになれ”。その言葉が心に残っている。きりのタンスは、こっちを押せば、こっちのが出てくる。そんなタンスのように指導の引き出しを増やせという意味だった」

1軍監督として通算1773勝を挙げたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人監督からの教えを最後まで貫き、指導者としての道を極めた。野村克也さんからは最高の言葉を贈られた。「高代は日本一の三塁ベースコーチ」。コーチとしては星野仙一、落合博満など多くの名将の下で手腕を発揮。年齢を重ねても野球への情熱を決して冷めなかった。

20年に阪神を退団した後はアマチュア球界で指導を続けた。21年から大経大の臨時コーチを務めると、23年には監督に就任。病魔に冒されていることが判明したのもその頃だった。それでも数回、手術を受けてグラウンドに立ち続けた。今年8月も学生を連れて関東遠征に出向いていた。9月に入って病に倒れるも最後までグラウンドに立ち続けようとしていた。家族の強い説得で入院。現実を受け止めて積極的治療はやめた。晩年は緩和ケア病棟で家族とともに静かな余生を過ごしていた。

病室には大経大のユニホームが飾られ、手の届くところには野球ボールが置かれていた。座右の銘は「一所懸命」。球界に名前と、数多くの教え子を残した名コーチは最後まで野球人としての人生を貫いた。