政府は、拉致問題など北朝鮮による人権侵害問題についての関心と認識を深めるため、毎年12月10日からの1週間を「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」と定めている。
この「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」を前に、福岡県直方市で「北朝鮮よ、姉横田めぐみを帰せ!」と題した講演会が開かれた。
登壇したのは拉致被害者・横田めぐみさんの弟・横田拓也さん(57)。
横田めぐみさん(当時13)は中学1年だった1977年11月15日夕方、部活動を終えて中学校から帰宅する途中、海岸から数百メートル離れた地点で友人と別れた後、北朝鮮の工作員に拉致された。
当時、拓也さんは9歳だった。
姉が拉致されてから48年。
父・滋さんを含め、多くの親世代が他界してしまう中、拓也さんは「北朝鮮による拉致被害者家族会」の代表として、多くの人が拉致問題を自分の問題と捉えてもらうため声を上げ続けている。
※【北朝鮮人権侵害問題啓発週間】全4回連載②
「めぐみちゃんどこにいるの」と言えなかった日々
めぐみさんが拉致されたその日、大規模な新潟県警による捜索が行われた。
逆探知装置がつけられ、警察官が制服、私服で家に出入りした。
無言電話、いたずら電話、脅迫電話。
拓也さんと双子の弟・哲也さんは当時9歳。
両親から「あなた達はもう寝なさい」と言われて寝て、朝起きてもめぐみさんはいない。
「あなた達は小学校に行きなさい」と言われて帰ってきてもめぐみさんはいない。
また寝て、朝起きてもめぐみさんはいない。
横田拓也さん
「私は今48年間めぐみを助けるために戦い続けてますけども、その1週間10日ぐらいが本当に今でも1番苦しかった時です」
当時はまだ拉致ということが分からなかった。
単純にめぐみさんがいないということしか分からなかった。
横田家に1匹の犬 父の日課となった散歩で…
父・滋さんは、残された双子の弟が心を病んだり道を逸れたりしないようにと、1匹の犬を飼い、家庭の雰囲気を明るくしようとした。
毎朝、毎夜、散歩を日課にしていた。
拓也さんは1度だけ、父と一緒に海沿いの松林を散歩している時に「もしかしためぐみさんが事件に巻き込まれて、制服のボタンや靴の片方が松林の中に転がっているのではないかと思っている」と父に言ったことがある。
横田拓也さん
「『自分もそうやっていつも散歩してるんだ』ということその瞬間父が答えてくれました。普段の生活の時間帯の中ではそんなことは私たちには一言も言いませんでしたけれども、その短い会話の中でいかに苦しい思いで毎日散歩をかってでていたというのはこういうことだったのかという風なことを知った時に、決して大人や目上の方に使う言葉ではありませんが本当にかわいそうでならなかったです。子供から見て」
母・早紀江さんは、新聞や雑誌、テレビでめぐみさんに似た女の子が出れば必ず連絡して、どこで撮った写真かを聞き、週末に家族で当てもなくその街を歩いた。
ある時、新潟県警から若い女性の遺体が上がったので確認してくださいという連絡があった。
両親は警察に向かい、数時間して帰ってきて、めぐみさんではなかったと言った。
横田拓也さん
「今、私は子を持つ親の立場ですけども警察からかかってきた電話に対して自宅から警察に向かう時のその足の重さっていうのはどんなものだったかなと思います。どれだけ辛かっただろうかと思います」
ほっとしても、また何も分からない時間が繰り返しやってくる。
遅すぎた初動 黙殺した報道 29年後の対策本部設置
当時、北朝鮮という国がどんな国かは、横田家全員を含めて分かっていなかった。
「朝鮮民主主義人民共和国」と丁寧に丁寧に扱っていた時代だった。
横田拓也さん
「この事件が起きた直後に報道機関、政治、外交、警察、私たちの国民世論がもっと強く向き合ってくれていれば48年、50年という重くて苦しい荷物は、背負わなくて良かったんじゃないかなと思います」
首相直轄の拉致問題対策本部が設置されたのは、めぐみさんが拉致された29年後の2006年9月だった。
横田拓也さん
「もう遅すぎるんですよ。何をやるにしても事件は初動が大事だね。もうどの事件のケースとも言われてると思うんですよね。29年後に設置しても加害者の人間や情報や物的なものも、何もかもあるかないかも分からないぐらい時間が経過しているんです。これが日本政府の実態ですよ」
さらに、1988年3月26日、めぐみさんが拉致された10年後、当時の国家公安委員長・梶山静六さんが国会の参議院予算委員会で北朝鮮による拉致の疑いが濃厚であると発言したにもかかわらず、その報道を取り上げたのは日経新聞と産経新聞の2社だけだった。
他の報道機関は黙殺した。
横田拓也さん
「報道しないってこと。私たち国民が知る権利がなかった。知る権利がなければ怒るにも怒れなかった。この報道機関の黙殺した現実っていうのは消せません。私はここの話では報道機関の方が何十人何百人でも同じことを毎回言ってますけどもこの責任はものすごく大きいと思います」
「お父さん何言ってんの」「お前こそ何言ってんだ!」実名公開めぐる衝突
めぐみさんが拉致されて20年後の1997年、家族会が結成された。
当時はまだ「拉致疑惑」という扱いで、テレビに出る有識者や大学教授は「拉致事件なんて存在しない」と堂々と言っていた。
街頭で署名活動をしても、多くの人が通り過ぎて振り向くこともなかった。
署名をお願いする画板を叩き落として通り去る女性もいた。
同じ97年、政府機関や報道機関から「横田めぐみ」という実名を挙げてよいかどうか打診があった。
拓也さんと哲也さん、母・早紀江さんは実名公開に反対だった。
もし実名を挙げると、北朝鮮が「そんな女はいない。殺せ」と言ってめぐみさんが殺害されるのではないかという恐れからだった。
父・滋さんは違った。
横田拓也さん
「『そんなことは覚悟の上だ』『めぐみが拉致されてから20年間何か前進したのか』と。『実名をあげないと世論を振り向いてくれない。国民に賭けなきゃダメなんじゃないか』『新潟県のYさん、Mさんでは誰も振り向いてくれない。寄居中学校の下校途中の13歳の横田めぐみが拉致されたんじゃないかってことを言わないと認識してくれない』」
家族の会議というか喧嘩になった。「お父さん何言ってんの?」「お前こそ何言ってんだ!」
母がどれだけ心の底から納得したかは分からないが、最終的には父の判断を優先した。
97年にめぐみさんの名前が上がった。
世論が初めて拉致事件を知った瞬間だった。
横田拓也さん
「今となってはこの拉致事件のシンボル的な、特に13歳っていう女の子ってこともあって、シンボル的な存在になって日本国内はもちろん国際社会でこの問題が重大な人権問題だっていうことが取り上げられたのは父の英断だと思います」
だが、当時はもしかしたら違う判断があったかもしれない。
本当にギリギリの判断の中で生活している。
横田拓也さんの講演は全4回の連載です。「お父さん何言ってんの?」横田めぐみさんの実名公表めぐる父・滋さんと家族の衝突 めぐみさんの命の危険も…「そんなことは覚悟の上だ」決断の裏側【北朝鮮人権侵害問題啓発週間・全4回連載②】