「質問したほうが悪い」
高市早苗首相の国会答弁をめぐり、そんな擁護が飛び交った。では中国軍機による自衛隊機へのレーダー照射も、首相に国会で「聞きすぎた」結果なのだろうか。ワイドショーのコメンテーター風に言うなら、そうなる。
存立危機事態を巡る高市首相の国会答弁以降に日中関係は悪くなった。11月7日の首相答弁(衆院予算委員会)だ。立憲の岡田克也衆院議員の質問に「戦艦を使って、武力の行使を伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になりうるケースだ」と首相は答えた。
「しつこい」とされる基準は誰が、いつ決めた?
首相の発言は従来の政府答弁を大きく踏み越えたものとして報じられた。すると「質問したほうが悪い」という言説が登場した。「岡田がしつこい」とも言われた。ワイドショーだけではない。政治家も同調した。日本維新の会の藤田文武共同代表は19日の会見で「個別の具体事例をしつこく聞くのは適切ではない」と述べた。
読売新聞の社説も、
「だが、しつこく首相に見解をただしたのは立民自身だ。答弁を迫った上で、答弁したら撤回を迫るとは、何が目的なのか」
「安保政策を政局に利用しようとするなどもってのほか」
と主張した。だが、国会で首相に見解を問うことが「しつこい」とされる基準は、誰が、いつ決めたのだろうか。
となると今回の中国レーダー照射も「質問したほうが悪い」となるのだろうか。高市首相の発言を検証したり論評したら中国の思うつぼなのか? 日本人なら一丸となって首相を擁護したほうがよいのか? しかし中国と高市首相への論評は両立するはずだ。中国の仕掛ける情報戦に対して警戒することも、高市発言の経緯を検証することも、どちらも必要なはずだ。でなければ80年前の「一色」ムードの世界になってしまう。戦後80年にこんな心配をしなければいけないのは何という皮肉なのか。
そんななか毎日新聞がスクープを放った。
『高市首相の答弁書に「台湾有事答えない」と明記 存立危機発言当時』(12月11日)
今回政府側が公式に認めた格好となった
政府側が事前に用意していた答弁資料には台湾有事について「政府として答えない」とも明記されていたのである。つまり政府は、言い切らず、踏み込まず、戦略的曖昧性を保つ、という従来の判断をしていた。それにもかかわらず、首相はその想定を超えて具体的な言葉を口にした。これまでの報道でも首相がアドリブで発言していたことは伝えられていたが、今回政府側が公式に認めた格好となった。※答弁資料は、立憲民主党の辻元清美参院議員の質問主意書に関連して、政府が辻元氏に開示した。
注目は、開示された答弁資料の想定問答の形式だ。
岡田氏は質問通告で「高市首相は昨年9月の総裁選の際に中国による台湾の海上封鎖が存立危機事態になるかもしれない旨の発言をしているが」と高市氏の過去の発言を前提に尋ねていた。
これまでのような一人の議員としての立場ではなく、首相になってからも同じことを言うのか?との確認をしているように読める。もっと言えば、首相になったからには「そうではないという答弁をもらうため」という狙いがあったのだろう。※こうした質問意図があったことは岡田氏はTBSラジオ『荻上チキ・Session』でも述べている(12月3日)。
歴代の首相はどんな状況が存立危機事態にあたるかの線引きをあえて曖昧にしてきた。侵略を考える相手に手の内を明かすことにつながるからだ。首相経験者の一人は国会で「言っていいわけがない」と断じた(日経新聞)。
しかし高市首相はアドリブで「持論」を述べた。国会論戦の醍醐味で言うなら、質問する側からすれば首相に存立危機事態について聞くのは当たり前であり、答える側からすればいかに従来の見解どおりに戦略的曖昧さで乗り切るかも当たり前である。このせめぎ合いや個人差が国会論戦の見どころだったりする。答え方で現首相のキャラクターも見えてくるからだ。
ちなみにこの高市発言が出たのは話題となった「午前3時からの勉強会」の日だ。自分の言葉でわかりやすくという姿勢が裏目に出たと言えないか。
実は、こうした事態の予兆はすでにあった。いわゆる「奈良のシカ」発言である。
高市氏は自民党総裁選のさなか、「奈良のシカを蹴り上げるとんでもない人がいる。SNSでも目にする」と述べた。さらに「日本人の気持ちを踏みにじって喜ぶ人が外国から来るなら、何かをしないといけない。日本の伝統を守るために体を張る」と強調した。「外国人問題」というわかりやすい問題提起だったが、その根拠は示されなかった。
「根拠はあったのか。確かめたのか」と問われると…
総裁選の共同会見で記者から「根拠はあったのか。確かめたのか」と問われると、高市氏は「こういったものが流布されていることによる、私たちの不安感、そして怒りがある。これは確かだ」などと答えた。事実関係の確認ではなく、「不安」や「怒り」へと論点をすり替えた形だった。
ところが11月10日の衆院予算委員会では、首相は一転して「英語圏の方だったが、私自身が、シカの足を蹴っている行為を注意したことがある」と説明する。根拠不明の話は、いつの間にか自らの経験談へと姿を変えていたのだ。
「シカ発言」の撤回を求められても、首相は「まだ総裁でもなかった頃の発言について、撤回しろと言われても、撤回するわけには参りません」と応じなかった。意地になるこの感じも凄い。
根拠が曖昧な話が「外国人問題」というわかりやすさの名のもとに語られ、修正されず、やがて本人の「確信」へと変わっていく。その延長線上で、台湾有事をめぐる答弁では、従来の首相答弁の枠を跳び越える言葉が飛び出した。
わかりやすさと、引かない姿勢が裏目に出る構図は、すでに奈良のシカの時点で現れていた。今回はその舞台が、国内の話題から外交・安全保障へと移っただけのことだ。問われているのは、首相だけでなく、国会で議論するという意味そのものだろう。
「質問したほうが悪い」という言葉に慣れてしまったとき、失われるのは議論の側だ。
(プチ鹿島)