国内観測史上最大規模のマグニチュード9.0。15年前の2011年3月11日、14時46分、東日本を襲った大地震による死者・不明者は約2万2000人におよぶ(2024年3月時点)。失われたのは大切な命だけではない。豊かな海、実りをもたらす田畑、何気ない日常が広がっていた町──ふるさとの景色は一変した。15年という年月は、果たして長かったのか、短かったのか。たとえどれだけ復興が進んでも、戻らないものは多い。報道の数は減ったが、私たちが思いをはせ続けること、忘れないこと、それが未来への教訓をつなぐ。
震災前の記憶といまの風景を縫い合わせる「カギ」
「愛する地元の港が壊れてしまった1度目の喪失感の後に、復興が進んで見慣れないふるさとが完成したことで、2度目の喪失感がありました」
こう語るのは、福島県いわき市出身の小松理虔さん。テレビ局の報道記者などを経て、15年前のあの日は地元の木材会社で働いていた。
「海から500mほどの場所にある自宅は浸水をまぬがれたものの、隣にあった祖母の家は半壊。幸い家族はみな無事でしたが、原発(福島第一原子力発電所)がどうなるかは不透明。自宅待機命令が出されている間は、もう世界が終わるような絶望感が充満していました。
港のそばにはぐちゃぐちゃになった車が大量に丘に上がっていて、浸水した町全体が臭かったのを覚えています。普段はにぎわう道路には人も車もほとんどいないゴーストタウン状態。誰もがどうなってしまうのかという不安でいっぱいだったと思います」(小松さん・以下同)
震災から、1日、1か月、1年、どんなにつらくても前を向くしかない、徐々に立ち上がろうとあがくも、原発事故の風評被害は想像を超えていた。外からの視線は冷たかったという。2012年から働き始めたかまぼこメーカーのPRで上京した際にも、風当たりの強さを感じる一幕があった。
「『食べて応援する』と言ってくれたかたはたくさんいて本当に救われました。でも、面と向かって『放射能を浴びた福島のものなんか絶対食べない』と言われることもあれば『毒をばらまくな』というメールもあった。漁業と観光業は特に厳しい状態が長く続きました。修学旅行でも親が”放射能を浴びせたくない”と反対すると、学校は対応せざるを得ない。
岩手や宮城に比べると死者や行方不明者の数は多くありませんが、福島は原発事故の影響で問題が長期化してしまったのです」