津波で家族5人失った男性、「恩返し」能登でボランティア…「偽善だと言われても何もしないよりいいでしょ」

[東日本大震災15年]明日への道<5>
テレビで「津波」の文字を見た時、頭に血が上った。2024年元日、ニュースは能登半島地震発生を伝えていた。福島県南相馬市の会社員、番場孝文さん(47)は居ても立ってもいられなかった。「また誰かがつらい思いをしている。行かなきゃ」。東日本大震災の津波で家族5人を失った苦しみがよみがえった。
仕事の都合がついた1月末、車に水と食料、寝袋、簡易トイレを積み込んで出発した。2日がかりで石川県能登町に到着し、交流のあるボランティア団体に合流。炊き出しや倒壊家屋の片付けに従事した。被災者に福島から来たと伝えると「お互い頑張りましょう」と励まされ、逆に救われた気持ちになった。
15年前のあの日、南相馬市は震度6弱の揺れに見舞われた。勤務先の段ボール工場から萱浜(かいばま)地区の自宅に車で向かったが、夕方前に着いた時には、家は跡形もなく鉄筋がむき出しになっていた。沿岸を高さ10メートル前後の津波が襲い、海から約1キロの集落が壊滅した。
妻・里絵さん(当時33歳)、長男・孝心(こうしん)ちゃん(同7か月)をはじめ、家にいた母・由美子さん(同55歳)、祖父・秀雄さん(同80歳)、祖母・キイ子さん(同75歳)の姿はなかった。「逃げたはずだ」と避難所を回ったが会えず、最悪の事態を覚悟した。
父・邦義さん(22年に70歳で死去)と避難所に身を寄せながら海辺で家族を捜していた時、東京電力福島第一原発事故で自宅周辺に屋内退避指示が出た。福島市の避難所や埼玉県の親戚宅に一時逃れたが、すぐに戻って捜索を続けた。5月までに妻、長男、祖母の遺体は見つかったが、祖父と母は今も行方不明だ。
片付けが苦手で金銭感覚もルーズだった自分を「更生させてくれた」しっかり者の里絵さんとは、結婚6年目だった。ようやく授かった孝心ちゃんの成長を見守る幸せな日常が暗転し、その後の数年間は記憶が曖昧だ。
何かしていないと不安で仕事は再開したが、自分の殻の中に引きこもるような日々。「生きていても仕方ない」と何度も思いつつ、自分より憔悴(しょうすい)していた父を「支えなきゃ」と踏みとどまった。同じ境遇の友人らと話をすることで少しずつ心が落ち着き、実の息子のように接してくれる妻の両親の温かさにも支えられた。
殻の外に出るきっかけは、震災から7年余り過ぎた頃、地元の友人がくれた。復興を盛り上げる音楽イベント「騎馬武者ロックフェス」を手がけており、運営の手伝いを頼まれた。会場設営などの裏方仕事に汗を流すと来場者の笑顔が心地よくて、以来、毎回運営に参加している。
福島県では19年以降、豪雨や震度6強の地震で何度も被災しており、フェスの仲間と被災地で災害ボランティアも始めた。震災後に受けた様々な助けに対する「恩返し」をしたくなったからだ。「偽善だと言われても構わない。何もしないよりいいでしょ」
これまで能登には8回入った。いつしか「支援のため」から、仲良くなった住民やボランティア仲間に「会いに行きたい」との思いに変わってきた。酒を酌み交わしながら話し込むと、「人それぞれのつらさがあるのだ」と、視野が広がっていくのを実感した。
次に能登に入るのは4月中旬。仲間から「同じように家族を亡くした人がいる。会ってみないか」と誘われた。まだ名前も知らない相手だが「自分の経験が役に立てば」と、本音で話をしてくるつもりだ。
最近は「こんな自分を見たら妻と息子はどう思うだろうか」と夢想する。いつか2人に会えた時にこう言えたらと思っている。「パパ格好良かっただろ」(山田優芽)