たった6時間の審議で「愛子天皇」の可能性はゼロに…高市政権の横暴をみすみす許した「中道改革」のだらしなさ

政界をおよそ「静謐ではない」喧騒の渦に巻き込んで、改正皇室典範は17日、爆速で成立した。旧態依然とした強烈な男尊女卑志向。皇位継承に恣意的な政治介入を招きかねないおぞましさ。普段は政権寄りの読売新聞が「見識を疑う」と切り捨てるほど、多くの全国紙や地方紙の社説で激しく批判しているので、ここでは「全く同感だ」と述べるにとどめたい。
許せないのは、高市政権と自民、日本維新の会の連立与党による「すべて自分の思い通りにする」「異論は一切認めない」という、国会議員にあるまじき傲岸不遜な態度だ。
世論調査でも早期成立は望まれていなかった。事前に各党間の話し合いでまとめた「立法府の総意」にはなかった「養子として皇室に入った旧宮家の男系男子の息子が皇位継承権を持つ」ことが「だまし討ち」のように盛り込まれた。そんな「何の総意でもない」改正案を、高市首相はまるで「国会などいらない」と言わんばかりに、衆参わずか3時間ずつの委員会審議で成立させた。
こんな首相を民主主義国のトップに据えていることを、国民の一人として情けなく思う。
もっとも、今回の記事の趣旨はそこではない。この皇室典範改正に対する衆院の野党第1党・中道改革連合の態度である。中道は、自らが求めた付帯決議案の修正を自民党に無残に蹴り飛ばされたにもかかわらず、改正案に賛成した。まるで自民党に追いすがるように。
中道の態度は、ただでさえ党の現状にしらけ気味だった立憲系のコアな支持層を決定的に萎えさせただけでなく、政権に対峙する「強い野党第1党」を求めた非自民系無党派層にも、2月の衆院選惨敗以上の失望を与えたようだ。街の喫茶店で一般の人々が「中道、だらしないねえ」などと話しているのを聞くのはせつないが、正直「致し方ない」という思いしかない。
今国会での中道の戦いに感じるのは「野党第1党としての戦い方を忘れ、他の中小政党と変わらない立場に自らを押しとどめている」ことだ。
野党第1党は他の野党とは違う。たとえ小さくとも、自民党に対する「政権の選択肢」という特別な役割を求められている。そのことへの自覚が著しく不足しているとしか思えない。
国会で与野党が対決する法案が審議されている時、野党の戦い方は大きく分けて二つある。
一つは、シンプルに政府・与党案に反対すること。党の姿勢はアピールできるが、法案は政府案の原案通りに成立する。「たしかな野党」路線と言える。
もう一つは、修正案や付帯決議などの形で原案に何らかの影響を与え、法案自体には賛成すること。よく言えば「提案型野党」路線、悪く言えば「ゆ党」路線と言え、その評価は論者の政治スタンスによってばらける。
どちらの路線を取るべきかは、その時々の与野党の力関係、個々の法案に対する評価、国会の全体状況などによって変わる。「片方の路線が常に正しい」という立場を、筆者は取らない。
例えば、今国会で成立した国家情報会議設置法だ。中道は①個人情報やプライバシーが無用に侵害されないよう十分な配慮を行う②政治的中立性を損なう情報収集をしない――などの付帯決議をつけることを条件に、法案に賛成した。
改正皇室典範と同様に、この時の中道の対応には強い賛否両論が出た。筆者も残念に思った一人だ。同時に、与野党の圧倒的な議席差を前に、人権侵害につながりかねない法案の成立を阻止できない時、中道が「政府案を原案のまま成立させるより、付帯決議で運用に歯止めをかける方がまし」と考えたことを、全否定するのも難しいとも思う。
こうした例も考慮した上で、中道が皇室典範の改正でも同じ態度で臨むのが正しいか、と問われれば「それは違うだろう」と指摘せざるを得ない。理由を三つ挙げたい。
まず、冒頭に述べたように、改正案は「国民の総意」からも「立法府の総意」からも大きくかけ離れている。衆院での与野党の議席の差がいくら大きくても、改正案をめぐる国民世論が二分しているのは間違いない。改正が潰そうとしている女性天皇については、むしろ容認論の方が多数派だ。
野党第1党の中道には、高市政権の進む方向とは異なる国民の意思を吸い上げ、国会での質疑に反映させる義務がある。高市政権の方向性に納得していない国民の声、つまり女性天皇を容認する声や、性急な改正を望まない声を、誰かが代弁しないといけない。そういう勢力が全く存在感を示せないなら、そんな国会はもはや「全国民の代表」ではない。
次に、中道は綱領で「国家やイデオロギーのために国民を従わせる政治ではなく、人間の尊厳を守り抜く政治を」とうたい、ジェンダー平等を大きく掲げた。「女性天皇の誕生を何としても阻止する」意図が明白な今回の皇室典範改正は、中道自身の「目指す社会像」からもかけ離れている。
「政府案との考えの差が小さいので、修正案を出して条件付き賛成で良し」とか「法律の当面の危険性を和らげるため、やむを得ず付帯決議で歯止めを」とか、そんな理屈が成り立たない改正だったはずだ。
最後の指摘は、改正の内容とはやや趣が異なる。
高市政権は、日本国憲法の第1章に規定された天皇をめぐる問題でさえ、軽々と異論を封じて強引に成立させた。こんなふざけた政権のありようを見過ごせば、高市政権は今後、あらゆる与野党対立法案で、全ての異論を踏み潰し続けるだろう。
野党だけではない。一人一人の国民が政治に抱く「なんか違う」という思いさえ、片っ端からねじ伏せていくに違いない。影響は皇室典範にとどまらないのだ。
政治の話に限らず、強い者が力で無理を押し通し、国民が口をつぐまざるを得ない社会が、中道の「目指す社会像」に合致するはずがない。高市政権の暴走を止めるべく、国民を代表して立ち向かうのが、現政権に対峙する野党第1党の取るべき態度だと考える。
さて、このような皇室典範改正に、中道が賛成を選ぶことは、本来あり得ない。だからといって「ただ反対して、成立の責任は自民党に押しつける」という「たしかな野党」路線もとるべきではない。ではどうすれば良いのか。
中道は野党第1党として、高市政権との「目指す社会像」の違いに基づいた明確な対案を国会に提出し、二つの案を並行で審議させ、国民に比較させるべきだったと思う。
国会のパワーバランスだけに頼れば、確かに成立は不可能だ。しかし、野党案に賛同する国民世論を大きく喚起し、その後押しを得ることができれば、政府案の撤回や、野党案に沿った修正を勝ち取れる可能性は、決してゼロではない。今回の改正皇室典範は、その良い機会だったのではないか。
どうしてもそれがかなわず、対案が潰されたなら、その時は堂々と政府案に反対すればいい。「近い将来の総選挙で自民党に勝ち、中道が主導する政権で(対案を)成立させる」と訴えるのだ。そんな態度を「批判ばかりの無責任野党」とは、誰も言わないだろう。
本来の野党第1党のあり方とは、そういうものだと筆者は考える。
もしかしたら中道は「我々は『提案型野党』として現実の政策実現にコミットしている。『たしかな野党』とは違う!」と反論したいかもしれない。
だが「提案型野党」とは、政府・与党の案を少しばかり「手直ししてもらう」ことで、自らも政策実現に関与したつもりになって満足する(そしてその政策の責任は自民党に押しつける)ことであり、自民党が政権政党であり続けることを前提にした「万年野党」的な発想だ。かつて野党第1党を目指しながら諦めて与党に転じた維新や「維新に続け」と与党にすり寄る国民民主党の路線と変わらない。
自らの政権を作って政策を実現する強靱な意思を持たず、自民党政権の継続に依存している時点で、実は「提案型野党」も「たしかな野党」も大した違いはないのではないか。
中道は立憲民主党と公明党の衆院議員の合流によって生まれた政党だ。旧立憲勢力は、外部有識者とやらの無責任な「批判ばかり批判」に萎縮し、またも「提案型野党」の呪縛にとらわれて安易に付帯決議案の修正を求め(それを蹴られても賛成したわけだが)存在感を失った。野党第1党としての国会の戦い方を「忘れてしまった」と言える。
また、旧公明党勢力は、自民党との連立時代に培った「政権の内部で自民党に譲歩を求める」という政治手法から、どうも抜けきれていない。野党第1党としての国会の戦い方を「知らない」と言える。
両党の強みが掛け合わされたのではなく、弱点が増幅してしまった形だ。過去の自分たちのあかを落とし、政権与党の一員でも他の中小野党でもない「野党第1党固有の役割」を、これを機に改めて考えてほしい。
「『野党第1党固有の役割』と言われても、議席が少なすぎる現在の中道に『政権の選択肢』など現実的ではない」という声も聞こえそうだ。確かに同情の余地はある。
だが、中道が「いつか自民党に代わる政権の選択肢となる」と地道に訴え、「自分たちは自民党とは何が違うのか」を明確に示して国民の共感を得ることができなければ、国民はやがて中道を、野党第1党ではなく「他の中小野党と同列の存在」とみなすようになる。そうなれば、小選挙区制における野党第1党のスケールメリットは失われ、党勢拡大は相当困難になる。「政権の選択肢」への第一歩すら踏み出せなくなるかもしれない。
そのことへの危機感が、今の中道にどれだけあるのだろうか。
「今は戦わず力をためる時だ」などと言える時間的余裕は、中道にはもう存在しない。小川淳也代表ら中道執行部は、そのことを肝に銘じて行動してほしい。
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(ジャーナリスト 尾中 香尚里)