[ルポ裁判]
スーパーの出入り口付近で腕をつかまれ、ハッと我に返った。相手は、店の保安員だった。「盗(と)りましたよね。かばんの中」。かばんを見てみると、精算をしていない商品がたくさん出てきた。
2023年6月、西日本のスーパー。50歳代の女性は、子どものお弁当に使う食材を買おうと訪れた。
店に入る前、痛み止めの薬を飲んだのに頭痛がした。激しい腹痛を起こす持病の発作の前兆だ。「早く帰らなきゃ」。焦りに駆られながら店内を巡っていると、不意に意識が薄れ、視野が狭まっていった。
「かごは空にするな」「レジは通れ」
おぼろげに覚えているのは、かつて性暴力を受けた男の声が頭の中で響いたことだ。かごが空のまま店内をうろつくと、万引き犯かと怪しまれる。レジで商品を買って普通の客を装い、一部を盗む。無意識にその「声」の通りに行動して、店の保安員に呼び止められたのだった。
「意識がないうちに盗ってしまっていた」。今年5月、女性は取材に応じ、当時の状況を明かした。「万引きなんてしたくないとすごく強く思っているのに……」。その声は苦しげに聞こえる。
万引きで捕まるのは8回目。窃盗罪で起訴され、翌24年、地裁で裁判が始まった。
女性は裁判で、長年にわたる闘病や性被害、万引きに及んだ経緯を説明した。
原因不明の腹痛が始まったのは中高生時代。おなかがすいている時は痛みが和らぐため、絶食してやり過ごした。
腹痛とつきあいながら、猛勉強の末、難関の国立大学に入学した。症状は次第にひどくなり、あまりの痛みで気を失い、度々倒れた。病院に行っても原因はわからない。大学卒業後、国家資格を取得して働き始めたが、たびたび発作に襲われた。
自暴自棄になり、00年頃から万引きに手を染めるようになった。幾度か盗みを繰り返す中、あの忌まわしい出来事に遭う。
商品の会計をせずに店を出ると、店の保安員だという中年の男に見つかった。女性が乗ってきた車の座席に座るよう言われ、男も助手席に乗ってきた。
「あんたのはわかりやすすぎる。盗むのは一部にして、かごは空にせずレジを通りなさい」。そう指南し、名前や連絡先を教えるよう言ってきた。そして、手を伸ばしてきた。
以来、男の「声」がフラッシュバックし、苦しむようになった。万引きをやめられず、性被害からほどなく、20歳代半ばで初めて捕まった。
遺伝性の難病だと診断されたのはその頃だ。働けなくなるほど発作がひどくなり、病院の検査で判明した。原因は解明されておらず、対症療法を行うほかない。働きながら結婚して子どもにも恵まれたが、その前後に計6回も捕まった。
「いつからか、店内で意識が薄れ、気づくと万引きしていて……」。女性はそう振り返る。
女性の訴えを聞いた地裁の裁判官は、専門医による精神鑑定を命じた。示された鑑定結果が、「犯行当時、重度の『解離性健忘』に罹患(りかん)していた」というものだった。
「解離」とは、強いストレスやトラウマにさらされた心を守るため、意識や記憶の一部を切り離す防衛反応だ。虐待やいじめ、性暴力などの被害経験が背景にあることが多い。海外の研究などでは100人に1~数人が発症するとされる。
鑑定結果は、女性が万引きする経緯をこう説いた。
〈女性は周囲に弱みを見せるのが苦手で、他人のためにどこまでも頑張る傾向がある。犯行当時は多くの仕事を抱え、心理的な負荷が高い状態にあった〉
〈そこに持病の難病が発作の兆しを見せ、性被害のトラウマのフラッシュバックも起こった。心理的負荷に耐えられなくなると、それを解消するため、無自覚で万引きに及んでいた〉
この鑑定結果を基に、地裁は、女性が犯行時、解離性健忘によって、刑事責任が限定的な「心神耗弱」の状態だったと認定。極めて異例の判断で、執行猶予付きの判決を言い渡した。今年3月、1、2審判決を維持する最高裁の決定が女性の元に届いた。
女性は今、裁判での鑑定結果をもとにした治療を受けている。また無意識のうちに万引きをしてしまわないか。「この先、どうなっていくんだろう」という不安は強い。
ただ、女性は言う。「なぜ万引きをしてしまうのか、自分でも全然わからない状態だった。精神鑑定で原因を解き明かしてもらったことはすごく大きい」。体調や仕事量に気を配りながら、自分の心と向き合っている。(中川慎之介)