「保守派」の高市首相は絶対に口にしない…「先の大戦の戦没軍人230万人」を祀る靖国神社の不都合な真実

※本稿は、山崎雅弘『戦争を甘く見る空気』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
先の戦争で命を落とした日本軍人の中でも、とりわけ悲壮な物語として語られるのが、いわゆる「特攻(諸外国では「カミカゼ」)」で死んだ兵士の最期です。
戦争末期、通常の戦い方では戦局を挽回できないとの認識が日本軍の内部で広まると、上層部は破れかぶれのような形で、爆弾を搭載した飛行機や船で敵の軍艦に体当たりさせるという、常軌を逸した戦法を組織として命令するようになりました。
当時の日本軍は、この戦法を「特別攻撃(特攻)」と呼び、海軍は「神風(しんぷう)特攻隊」という名称で、体当たり攻撃の航空隊を継続的に出撃させました。この戦法が、新聞で大きく報じられて国内で反響を呼ぶと、陸軍航空隊も同様の「特攻隊」を組織して繰り返し発進させ、日本の近海に展開する敵艦へと向かわせました。
鹿児島県には、戦争中に多くの日本軍の航空基地が置かれており、知覧(ちらん)と万世(ばんせい)には、特攻隊員を偲ぶ平和祈念館があります。また、海上自衛隊の鹿屋(かのや)航空基地内にある「鹿屋航空基地史料館」でも、特攻作戦と特攻隊に関する展示物が公開されています。
各館内には、亡くなった特攻隊員の遺影や遺書が数多く展示されていて、見学者の中には、遺書の内容を読んで涙を流す人も少なくありません。
特攻隊員の書き残した遺書には、「笑って突込んで行く覚悟です」「私が死んでも、どうか悲しまずに大君(天皇)の為に よくぞ死んだ天晴(あっぱ)れな最後だったとほめてやってください」「お父上様、母上様この栄の心境を察し下さい 栄は飛んで喜んで行きました」など、自らの死を覚悟した若い兵士の「純真な」心情が綴られているからです。
けれども、後世に生きる我々がこうした「遺書」を読む時、気をつけなくてはいけないことがあります。それは、「どういう境遇でこれが書かれたのか」という点です。
当時の日本社会には、軍人が戦争で死ぬことを「避けるべきこと」や「悲しいこと」と見なすことを許さない「空気」が充満していました。それどころか、靖国神社宮司の言葉にあるような「戦死した人を褒めてあげなさい」という態度が、表向きは国民に求められていました。
特攻で出撃する兵士の遺書も、遺された家族が周囲のいじめなどで理不尽な目に遭わないようにするためには、当時の日本社会を支配した「空気」に合う内容の言葉を書くしかありませんでした。「僕は本当は死にたくない」とか「特攻を命令した上官が憎い」と、本心では思っていたとしても、それを遺書に書くことは事実上不可能でした。
もしそんな言葉を書いたなら、軍の検閲に引っかかって廃棄されたり、受け取った遺族が「卑怯者の家族」や「非国民の家族」と罵られる可能性が高かったからです。逆に、当時の日本社会の世界観や死生観に合致した遺書を書いておけば、残された家族は「英霊の家」として称えられ、地域社会で良い待遇を得られることもありました。
もちろん、個々の特攻隊員がどんな心情で遺書をしたためたのか、実際のところはご本人にしかわかりません。当時の価値観に適応し、遺書に書き記したような気持ちを胸に抱いて出撃した隊員も、少なからず存在したのだろうとは思います。
しかし、現代に生きる我々が、こうした遺書を「悲しい美談」と理解して感情的に「消費」することには、やはり問題があるように思います。彼らをそんな境遇へと追いやった上官や軍隊組織、そして社会の「空気」に対する批判的な視点が消失するからです。
特攻とは、実際の状況をストレートに表現すれば、「体当たり自殺攻撃」になります。
このような表現では、亡くなった人が不憫だということで、婉曲な表現である「特攻」という言葉が使われてきましたが、我々がまず考えないといけないのは、こんな戦い方はきわめて非人道的で、第二次大戦中に組織として繰り返し兵士に行わせた国は、日本以外にはなかったという現実です。
兵士が死ぬことを前提とした戦法は、人を人として扱わない、冷酷な行いです。
過去の戦争では、甚大な損害が出ることを想定した上でなされる「敵陣への突撃」が、しばしば行われてきました。けれども、それらは基本的に「生き残った兵が敵陣を占領する」ことが目標であり、突撃した全員を死なせる「死の強制」ではありませんでした。
そしてもう一つ、現代の我々が留意すべき重要な点は、もし靖国神社が存在しなかったなら、特攻という「体当たり自殺攻撃」も存在しなかったであろうということです。
靖国神社は、「戦死した軍人の肉体が滅びても、魂は九段の靖国神社へと向かい、そこで戦友と再会できる」という宗教的な物語を、日本軍人に信じさせていました。この物語に疑いを差し挟むことは、当時の日本社会では許されず、また軍人自身も「死の恐怖」から逃れるために、この物語を自発的に受け入れていたようにも見えます。
部下に「体当たり自殺攻撃」を命じた上官や司令官が、それによってその部下を死なせても罪悪感を感じず、罪の意識を軽減できたのも、「肉体は滅んでも魂は靖国に向かう」という物語が存在したからでした。軍人の死を「嘆きや悲しみの対象」ではなく「至高の栄誉」と顕彰する靖国神社がなければ、特攻という戦法は成立し得ませんでした。
軍人が戦場で死ぬことを「避けるべきこと」や「悲しいこと」と見なさず、むしろ「喜ぶべきこと」と捉える、多くの兵士を余計に死なせた遠因ともなった異様な「空気」は、1937年7月に日中戦争が始まった直後から、日本社会に広がっていました。
8月2日付大阪朝日新聞朝刊には、戦死した日本軍人を遺族が讃える記事が掲載されましたが、紙面に並んでいたのは、次のような言葉でした。
「“戦死は男子の本懐”健気に語る老ゆる母」

「“よく死んだ”戦死を褒める両親」

「よく死んでくれました、家門の名誉これに過ぎるものはありません」
8月5日付の同紙朝刊13面でも、「戦死の報にも毅然 天晴れ! 殉国の覚悟」という見出しで、次のような遺族の談話が、紙面の約3分の2を埋めていました。
「よくやってくれました。私は明治三十八年兵でちょうど日露戦役の済んだあとで、惜しくも従軍出来なかったですが、こんど息子が天晴れ戦死をとげてくれまして、一家の名誉これにすぎるものはありません」
「よくやってくれました。手紙がくるたびに、どうか潔くお国のために働いてくれればよいがと念じていましたが、これで私たちも大いに肩身が広いというものです」
「お役に立ってくれて、一門の名誉だと喜んでいます。白木の箱に入って凱旋せよと激励してやりましたが、それを実現してくれた」
「四日朝、戦死の電報を受け取りました。主人を早く亡くして娘二人はありますが、専造(戦死した一等兵)は私にとってただ一人の息子ですが、立派にお国に御奉公したのですから満足しています」
「お国のため立派に死んでくれたことを嬉しいと思います。二十八日、元気で活動しているから安心して下さいとの便りが来ましたが、これが最後の手紙となりました。千人針を送っておきましたが、着かなかったかもしれません」
最後のコメントにある「千人針」とは、千人の女性に一針ずつ赤い糸で白い布に結び目を縫ってもらい、それを敵弾除けと武運長久のお守りとして戦場の兵士に送る、民間信仰の一種です。そこには、相手の無事を祈る、切実な気持ちが込められていました。
息子を戦地に送り出した母親の多くは、おそらく本心では息子の生還を願っていたはずです。しかし、軍人の戦死を「悲しんではいけない」、「むしろ名誉なことだと喜ばなくてはいけない」という当時の日本社会の「空気」は、そうした本心を母親や妻、子どもが口にすることを許しませんでした。
新聞もまた、こうした「戦死を美談として物語化する記事」を書くことによって、人命を軽んじる「空気」の強化に加担していました。
戦地に赴いた軍人の「死」は、当人がある程度は覚悟していた最期だとしても、本来なら「可能な限り避けるべき結果」であるはずです。
ところが、先の戦争における日本では、こうした常識が壊れていました。
立派な大義に酔って「戦争を甘く見る空気」に浸り、出征した日本軍人の死を「喜んでいます」などと肯定する風潮が社会に広まると、やがて「軍人が戦地で死ぬこと」自体が目的化するという、本末転倒の考え方が社会に広まっていくことになります。
なぜ、そのようなグロテスクとも言える人命軽視の「空気」が日本社会に広がり、多くの人が抗(あらが)わずにそれに同調したのか。
1935年以降に先鋭化した「国体」思想の副産物として、日本人の思考形態が、論理性や合理性ではなく、主観や願望を投影した情緒的な物語(ナラティブ)に大きく偏向していったという面が大きいように思います。
現実をありのままに直視するのでなく、こうであって欲しい、こうであるはずだ、などの願望でまず結論を定め、そこから逆算する形で、人の心を揺り動かすような物語を構築していく。そうした手法が、新聞や雑誌で多く使われ、人々の心にも浸透しました。
国民の側でも、日々の苦しい現実から目を逸(そら)したいとの思いから、麻薬のような効果を持つ情緒的な物語に救いを求め、やがてそれを手放せない状態になっていきました。
軍の上層部から見捨てられて南方のジャングルで孤立した日本兵が、食糧も飲み水もなく空腹でやせ細り、衰弱し、誰にも看取られぬまま、植物が枯れるように餓死した。
こんな風に、事実を淡々と書いても、情緒的に人の心を捉える物語にはなりません。
若くて誠実な日本兵が、満足な食糧もないまま敵の追撃を逃れ、故郷に残した恋人から贈られたお守りを握り締める。周囲を敵に囲まれた南国のジャングルで彼女の幸せを祈りながら、敵の降伏勧告を敢然と拒否し、最期の突撃に向かう覚悟を固める。
そして、弾を撃ち尽くした銃を捨てて、肉弾戦でしか効果を発揮しない銃剣を血まみれの手で握り締め、もう二度と顔を見ることもできない最愛の恋人の名を叫びながら敵の陣地に突撃し、機銃弾を全身に浴びて鉄条網に倒れ込み、名誉の戦死を遂げた。
このような文章で情緒的な物語に仕立てれば、読む人の心にさまざまな感情の高まりを呼び起こし、兵士の死が「美しい最期」であったかのような印象すら受けるでしょう。実際、この種の物語に特攻隊員の若者を当てはめた小説や映画がいくつも世に出され、大衆的な人気を博しています。
これが、戦争を情緒的な物語に当てはめて語ることの恐さです。
高市早苗が2012年8月15日、公式ブログに掲載した靖国神社参拝時のコメントは、情緒的な物語を事実であるかのように語った内容です。そこで使われる「散華(さんげ)された」という言葉は、軍人が戦場で命を落とすという凄惨な状況を、情緒的な美談として物語化する時の常套句(じょうとうく)です。
「今年は、例年通り、午前中に靖国神社に参拝し、その後、日本武道館で挙行された全国戦没者追悼式典に参列致しました。

靖国神社では、国策に殉じ尊い生命を捧げられたご英霊に、尊崇の念をもって感謝の誠を捧げてまいりました。

いつも本殿前まで歩を進めますと、胸が締め付けられるように苦しくなり、涙が滲んできます。

祖国の存続を願い、愛するご家族や故郷への深い思いを残して散華された方々。悲しみを堪えて歯を食いしばって戦後の混乱期を生き抜いてこられた多くのご遺族たち。

『そのご労苦に応えなければ』『美しく強く繁栄を続ける国家を築いていかなければ…』

という使命感と焦燥感に、押しつぶされてしまいそうになるのです」
靖国神社を参拝して「英霊に感謝」という言葉を口にする「保守派」の政治家たちは、地獄のような戦場の実相ではなく、美辞麗句で飾り立てた情緒的な物語を好みます。
彼らは誰一人として、靖国神社を参拝する時に、先の戦争で命を落とした日本の軍人と軍属の6割、約140万人が「餓死者だった」とは言いません。戦没軍人約230万人の全員が「敵と戦って散華した」かのように語ります。
この政治家の行為は、一見すると先の戦争で亡くなった日本の軍人と軍属に寄り添っているように見えて、実は正反対で、軍人と軍属の命を著しく軽んじています。
なぜなら、彼らを死なせた「原因」を批判的に検証したり、彼らを死に追いやった「責任者」を批判的に追及するそぶりを、一切見せていないからです。
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(戦史・紛争史研究家 山崎 雅弘)