【前編】“地上の楽園”は地獄だった…「お母さん ほんとうに さいごのたのみです」実家に送ったSOS 北朝鮮に渡った“日本人妻”60年の闘い

在日朝鮮人の夫らと共に北朝鮮に渡った日本人妻・斎藤博子さん(85)。“地上の楽園”と聞かされていた場所で待ち受けていたのは、地獄のような日々でした。※後編は8月13日13:00に配信予定です。
1941年、現在の福井県鯖江市に生まれた斎藤博子さん。3人姉妹の長女で、中学卒業後は繊維メーカーに就職し、18歳のときに、眼鏡工場で働く在日朝鮮人の正二さんと結婚しました。両親の反対にあったといいますが、長女の弥生さんが生まれ、幸せで穏やかな日々を送っていました。
ところが、そんな博子さんの人生を大きく変える出来事が起こります。それが、北朝鮮への帰還事業です。
1959年~1984年にかけて、北朝鮮は、在日朝鮮人の祖国への帰還を奨励。約9万3000人が海を渡り、その中には、博子さんのような日本人妻も1800人ほどいたとされています。
(斎藤博子さん)
「朝鮮総連の方が来て、夫のお父さんとお母さんに話をしていた。『朝鮮に行ったら、地上の楽園だ。生活は苦しくないし、何から何までみんなある。仕事も家もみんなくれる。何の心配もないから行ったらいいよ』と言われた」
夫の正二さんとその両親・きょうだいは、一家そろって北朝鮮に渡ることを決意しました。しかし博子さんは、ふるさとである日本を離れることに抵抗があったといいます。
このとき、博子さんは19歳。日本を離れたくないが、最愛の娘と離れることもできない―。揺れる博子さんの背中を押したのは、『3年たてば日本に帰国できる』という言葉でした。
博子さんはその言葉を信じ、北朝鮮へ行くことを決心。そして、1961年6月、博子さんは、夫の正二さん、娘の弥生さん、そして夫の両親やきょうだいと共に新潟港から船に乗り、北朝鮮へ向かいました。船内は新天地への希望を抱いた人々の楽しげな声であふれていたといいます。
ところが、北朝鮮の港が近づいたとき、その状況は一変します。
(博子さん)
「私が見たのは、5~6歳の男の子が、上は着ているけど、下は何にもはいてない。日本でいくら苦労しても、パンツをはいてない子どもはいない。これはちょっとおかしいって大騒ぎになった」
さらに、船を降りる直前、船内のスピーカーから聞こえてきたのは「腕章を着けていない人には、荷物を絶対に渡さないでください」という、荷物の盗難に注意を促すアナウンスでした。
(博子さん)
「みんな大騒ぎになった。『降りない!降りない!』と言って…。朝鮮って食べ物から何まで苦労しないと言われていたのに、なんで、こんな子どもたちがいるの。『地上の楽園だ』と言われて行ったのが、『地獄の楽園だ』と、みんな言い出した」
その後、帰国者たちはそれぞれ指定された居住地へ送られることとなり、博子さん一家は、中朝国境の町、恵山(ヘサン)へ。夫の正二さんは、日本時代と同じように、眼鏡工場で働くこととなりました。
一家には、アパートの一室があてがわれましたが、聞いていた楽園の暮らしとはほど遠いものでした。月に2回、コメや小麦粉などの配給がありましたが、1週間もすれば、底をつく量だったといいます。仕方なく、日本から持ってきた衣服や日用品を、物々交換で食べ物に換えて、しのいでいましたが、それも1年ほどで品物が尽きてしまいました。
(博子さん)
「一日一日の食べ物のことしか頭になかった。(配給が)15日に1回だけだから、それを15日間で食べないといけないから本当に苦労して…。1日3回、みんな食べられることはない。子どもたちになんにもしてあげられなかったのが、一番心残り」
多くの子どもを産み育てることが奨励されていた時代。博子さんは北朝鮮に渡ってから5人の子どもを出産し、2男4女の母として、懸命に生きる日々でした。一方で、夫婦の間では、ケンカが絶えず、ときには、暴力を振るわれることもあったといいます。
そして1980年代中頃、夫・正二さんは結核を患ってしまいます。薬もろくに手に入らず、満足な治療を受けられませんでした。博子さんは、仕事ができなくなった夫の代わりに働きに出ましたが、生活はますます苦しくなっていきました。
そんな博子さんの当時の状況を示す、1通の手紙。1990年ごろに、福井県の実家に宛てて書いた手紙です。
(実家に宛てた手紙)
「お母さん ほんとうに おゆるし下さい。10万円だけ なんとかして下さい。お母さん ほんとうに さいごのたのみです。なんべんも さいごのたのみといっては、なんべんも ほんとうにすみません。こちらは日本とちがって ほんとうに くるしい生活です」
何度も何度も謝りながら、お金を送ってほしいと訴える手紙。実家からの送金でなんとか食いつないでいたといいますが、1993年に実家の父親が死去。そのころを境に、送金も途絶えてしまいました。
そして、さらなる不幸が―。
1994年、正二さんは、結核のため57歳の若さで帰らぬ人に…。博子さんが53歳のときでした。正二さんという大黒柱を失って以降、博子さんたちの生活は急速に悪化していきます。
この年、北朝鮮では、金日成(キム・イルソン)主席が死去し、金正日(キム・ジョンイル)総書記の体制に移行しました。しかし、その後、経済政策の失敗や自然災害などにより、『苦難の行軍』と呼ばれる深刻な飢饉(ききん)が発生。最大で約300万人の人が亡くなったとされています。
(博子さん)
「道で飢え死にする人がたくさんいるし、駅で親を待っている人もたくさんいる。お母さんとお父さんが1週間に食べる物を置いて出稼ぎで家を出る。1週間が過ぎても帰ってこず、子どもたちが駅で待っていて、そこで亡くなって…。1週間に1度ぐらい、トラックが街中を回って、亡くなった人をトラックにいっぱい積んでいく。そして海へ行って、浜辺を掘って、そこへみんな埋める。だから自分の子どもが、どこで亡くなっているのか、分からない。子どもたちに苦労させるのもダメだし、自分で何とかして生きていかないとダメだと思った」
食糧事情が極端に悪化していく中、仕入れた銅線を闇市で売りさばくことで、なんとか食いつないでいた博子さん。あるとき、列車に乗り銅線を運んでいると、泣き声ひとつあげない赤ん坊を抱いた若い母親と乗り合わせます。そこで見たショッキングな光景とは…。
後編は8月13日13:00に配信予定です。
(読売テレビ「情報ライブミヤネ屋」2026年7月15日放送)