いま「保守」という言葉が大きく揺らいでいる。愛国や伝統を声高に語ること、権威に従うこと、アメリカに追随することまでが「保守」とみなされる風潮がある。しかし前首相・石破茂は「それは本当の保守ではない」と断じる。
のちに自民党政治家になる石破二朗のもとに生まれ、自らも保守政治家の道を歩み、ついに首相の座にまで上り詰めた石破。だが首相になる直前あたりから、自民党内の保守を自認する政治家やネット右翼から「石破は保守ではない」「反日サヨクのリベラル派だ」と非難・攻撃を受け続けてきた。志半ばで退陣し、高市早苗政権のもとでは、反主流派、さらには党内野党のレッテルも貼られている。
石破は、2024年に刊行した著書『保守政治家』(講談社)のなかで、「保守」を以下のように説明する。
「保守というのはイデオロギーではなく、一種の感覚であり、たたずまいであり、雰囲気のようなものだ、ということです。皇室を貴び、伝統文化や日本の地方の原風景を大切にし、一人一人の苦しみ、悲しみに共感する。その本質は寛容です。相手の主張に対して寛容性をもって聞く、受け入れる度量を持つ、という態度こそ保守の本質です」
石破が重視するのは「寛容」だ。少数意見にも耳を傾け、異なる価値観を受け入れる。その意味で、いま一部では「左翼」と同義のように使われる「リベラル」(個人の自由や権利、多様な価値観を大切にする立場)とも本質を共有するとして、「保守とはリベラルのことである」と書いている。
しかし、そこで描いた「保守」は、もはや自民党内では受け入れられないのだろうか。あるいは、自民党そのものが変質したのだろうか。愛国を盾に、意見を異にする人に反日のレッテルを張る。中国と親しく交わればそれを「媚中」と一刀両断する。そんな言説はSNSだけでなく、現実の政治空間でも目立つようになった。石破はこうした姿勢を、保守とはみなさない。
「保守と言うのは、本来、性急な変化を希求する『革新』に対してブレーキをかけつつ、今までの社会の良さを残しながら漸進しようとするスタンスです。保守は、ですからあくまで『ありよう』や『態度』であって、そのものがイデオロギーではありえないし、一定のイデオロギーを前面に押し出して性急な変化を求めるのであれば、それはおそらく『右翼』と言うのでしょう」
長年自民党に身を置き、総理・総裁まで務めた石破に、目先の政局を離れ、石破氏自身が考える「保守」と、自民党のあるべき姿を聞いた――。(前編)
やはり父親(編註:石破二朗)が自民党の政治家でしたから、その影響は大きいと思います。父は、戦前の内務官僚でしたが、内務官僚は寛容で柔軟性があるという意味でリベラルな人が多かったようで、父もそうだった。戦前、ドイツのヒトラー・ユーゲント(※編註:1926年に発足したナチス・ドイツの青少年組織)が来日したとき、父はその歓迎行事を任されました。
その時はよほど不愉快だったのか、極めて不機嫌になって当時の部下に「お前たちよく聞け、こんな奴らと仲良くするとロクなことは無いぞ」と言ったそうです。
また戦後、昭和33年、建設省の事務次官だったとき、大臣祝辞か何かの原稿に部下が「終戦後、はや13年云々」と書いたのを見て「終戦とは何事だ」と激怒した。「戦争に負けたのに敗戦と言わず、終戦という。全滅を玉砕と、撤退を転進と言い換える。そういうふうにしてごまかすと国は誤るぞ」と言ったそうです。
これは父が死んだあと、当時部下だった方たちが思い出として書いて残してくれていたからわかったことです。そういうリベラルな父でした。
もう一つ、父の思い出があります。ガンが見つかり、手術することになりました。私はその前日に病床に呼ばれて、遺言を聞かされ、最後に「あすの朝、お前が田中(角栄)のところにこれを持っていけ」と(大臣の)辞表を渡されました。
なぜ手術が成功するかもしれないのに辞表を出すのですかと尋ねると、「万一のことがあった時に辞表が出ていないと天皇陛下に申し訳がない」と言うんですよ。親から「天皇陛下に申し訳ない」というセリフを聞いて、結構ショックでしたね。明治の人はそういう考え方をするんだと。そういう家に育ちましたから、天皇陛下はありがたい、尊いものだということは子供の頃から叩き込まれています。
中学1年生のときだったかな。父が「これを読め」と渡してくれた本が吉村昭の『戦艦武蔵』と『零式戦闘機』。バリバリの反戦小説というわけじゃないんだけど、戦前あるいは戦中の、帝国海軍の技術の粋を集めて作った戦艦や飛行機、そしてそれを取り巻く人たち、あるいは国家のありようが描かれている。父は何も解説なんかしないけど、読めばいろいろなことが分かりますね。
中学の2年か3年の時、月刊誌の『諸君』が創刊になって、やはり父から勧められたのですが、これも面白く読めた。そもそもそういう保守的な家で育ってますから、あまり疑問にも思いませんでした。高校生の時くらいには、やはり父から「江藤淳というのが面白いぞ」と言われて読みました。
江藤淳の論説にはそのものズバリ「保守とは何か」というものがあって、「保守とはイデオロギーではない。保守の本質はリベラリズムであり、『寛容』なのである」と書いている。天皇制とかこの国の歴史だとか生まれ育った故郷とか、ご先祖様とか、そういう大切なものがあって、それは絶対に守らなければならない。ただ、その大切なものを守っていくために、他者の意見にも耳を傾け、もし改めるべきことがあるなら改める。それでこそ本当に大切なことを守ることができる、と。
なるほどそうなのだと思いました。
保守といえばエドモンド・バークの『フランス革命の省察』がその起源だといわれていて、一応読んだけどあんまりわからんな(笑)。でも、これもフランス革命という急進的な変化を目の当たりにして、イギリスには漸進的な一歩一歩の変革こそがふさわしいとする論ですよね。そのほか、田中美知太郎とか清水幾太郎、福田恆存なども父から勧められて読みました。そうした考え方にもかなり影響されています。
そんなわけで、私はイデオロギー的ではない保守主義の家に育った。だから今でも、右翼的なものに対する生理的な嫌悪感みたいなのがすごくあるんです。一番嫌いなのは、首相官邸の前で、日の丸と星条旗を振り回しているような人たちの主張ですね。これは苦手。親米保守、というけれど、あまりにもその主張の中の矛盾が大きすぎて、何を言っているんだろうと思ってしまいます。
いつの頃からか、自民党内で「リベラル」は“呪いの言葉”となった。安倍晋三元首相や高市早苗首相を支持する「岩盤保守層」の政治家やネット上の応援団からすれば、リベラルとは極左であり、媚中派であり、反日なのだという。
2月の総選挙では、「リベラル狩り」と称して、石破やその盟友の岩屋毅、村上誠一郎らが標的となり、激しい攻撃を受けた。自民党支持者からの誹謗中傷もあった。
しかし石破は、かつて自民党内の一大勢力をなしていたリベラル派こそ「保守本流」だったと断言する。
私の父も政治家になってからは、吉田茂、佐藤栄作、田中角栄という流れです。岸信介でも河野一郎でもない。自民党内でもリベラルな位置です。
私の師でもある田中角栄先生は、特に戦争を嫌っていた。これは藤井裕久さん(元蔵相、故人)がよく仰っていたことですが、角栄先生は「戦争を知っているやつらが(この国の)中心にいる間は大丈夫だが、戦争に行った奴らが中心からいなくなった時が怖い。だからよく勉強しておけ」と言っておられたそうです。
角栄先生は日中戦争にも従軍されたので、一庶民の目で軍とは何か、国家とは何かということを考えたのでしょう。後の日中国交回復や、石油資源をめぐる中東外交などでアメリカの虎の尾を踏んだとも言われたが、単にアメリカに追従するのではなく、自立した外交を模索し続けた。これが、自民党のリベラルな「保守本流」の系譜になったのだと思います。
角栄先生のもう一つの流れは、常に地方が政策のベースにあったことです。保守の基盤は地方、田舎に原点があるという考え方です。これは角栄先生から竹下登、橋本龍太郎、小渕恵三という系譜につながった。こうした人たちには、いわゆる「右翼」的な要素は微塵もなかった。
角栄先生は、日中国交回復を命がけでやりました。決裂の危機もあったが、粘り強く交渉した。訪中前には石橋湛山元首相のもとを訪れていました。竹下さんは、これも世の中が大反対というなかで消費税を導入し、退陣という結果になった。それでも正しいと信じる政策を粘り強く訴え、納得が得られるまで努力し続けた。政権をかけて実現したのです。これこそが保守本流だったと思います。
田中以来のリベラルな「保守本流」に対抗してきたのが、岸信介の流れをくむ福田派、のちの清和会を中心とする勢力だった。田中派はハト派、福田派はタカ派とも称された。その二大勢力が、振り子のように左右に揺れながらバランスをとってきたことが、自民党の強みでもあった。
石破が初入閣したのは、清和会出身の小泉純一郎内閣だった。振り子が大きく右に振れたようにも見える小泉政権だが、当時の自民党にはどんな空気があったのか。
小泉さんで印象深いのは、イラク戦争後に初めて自衛隊を派遣する時のことです。防衛庁長官だった私に、福田康夫官房長官が「総理訓示の原稿を見てくれ」というので、読んでみると「望んでイラクに赴く諸官は」と書いてあった。
その時に私は「これはダメです。自衛官はたとえ志願したとしても、望んで行くのではない。命令されたから行くのです。『国家の命により』としてください」と言いました。すると福田さんは、「じゃあ一緒に総理に言いに行こう」と言うので、小泉総理にそう言うと、即座に「よし分かった。その通りにする」と。
小泉さんには、そういう懐の深いところがあったし、福田さんはリベラルな人でした。小泉政権はリベラルな福田さんが支えていたから保っていたんだと思いますよ。
安倍政権の後半あたりからでしょうね。一つは拉致問題。これは安倍さんの金看板の一つでしたが、日本人の心の琴線に触れる問題でもあります。ほんとうにお一人でも帰国できるようにしようと思えば、北朝鮮と話し合いをするしかないはずが、不信感を前面に出して敵を外に作ることによって国内の結束を固める手法だが、これが強くなりすぎた。日米関係についても、戦後レジームの脱却を目指されていたはずなのに、根底にある日米安保条約の非対称性はむしろ固定化されていっているのではないかと感じていました。それがどうしても心情的に合わなかったんです。
かつてアメリカの国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスは「合衆国にとっての利益は日本に合衆国を防衛させることではない、日本のどこにでもいつまでも合衆国軍隊を駐留させる権利こそが利益だ」と言っていました。
だから私は、日本が本当の意味で独立するには、憲法を改正して集団的自衛権の行使を国連憲章と同じ態様で認めることが必要だと思っています。そうすれば日米同盟は対称的な「守り合う」関係になるし、基地使用の問題で従属的にアメリカの戦争に巻き込まれることもなくなる。これはアメリカからの独立でもあるんです。
ある時、それを安倍さんに言ったら、激怒して「そんなことは君が総理になってからやればいい」と言われました。やはり、安倍さんは、絶対に異論を許さない、というところがありましたね。日米同盟は絶対だ、親中国はけしからん、みたいなことをやはり総理が言えば、それが自民党全体に広がっていく。安倍さんはそういう人でした。懐の深い人だったとは私は思っていません。
異論を唱える者は許さない、逆らう者は許さないという強烈な個性、高市さんもそういうところがあるんでしょうか。その結果、自民党全体が、とにかく「アメリカにくっついて」さえいればいいんだ、それが保守なんだと言う考え方に傾いてしまったのだと思います。
アメリカにモノが言えない保守、何を守るかがはっきりしない保守。石破がそう批判する「新しい保守」が自民党を覆う中で、皮肉にもその石破自身が、第102代内閣総理大臣に就任した。
旧安倍派を中心とする派閥の裏金問題で自民党が厳しい批判を浴び、岸田文雄首相が政権を投げ出すという未曽有の危機のなかでの就任だった。石破が著書で書いたように、自民党結党以来の危機が、石破に天命を下したのだ。
「保守本流」を取り戻し、自民党を立て直す。その役割を期待された石破だったが、首相になって待っていた現実は、想像以上に厳しかった。むしろ党内では、石破が批判してきた「保守」との亀裂がさらに深まっていく。
次回は、総理・総裁として苦闘した1年間を石破自身がどう振り返り、いま高市政権と自民党に何を思うのかに迫る。(後編に続く)
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(ジャーナリスト、元NHK解説委員 城本 勝)