ジャーナリスト、東洋経済新報社社長から政治家に転身し、わずか65日間、首相を務めた石橋湛山(1884~1973)。国会演説などでたびたびその言葉を引用してきた 石破茂前首相 が語る。
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湛山の「小日本主義」
石橋内閣は過去3番目の短命政権でしたが、私は偶然にも、その在任中に生まれました。体調を崩した湛山に代わって岸信介が施政方針演説をした、まさにその日でした。
保阪正康さんは湛山を「最短の在任、最大の業績」と評しておられます。吉田茂のような長期政権は築けなかったけれども、吉田や、湛山の後に首相になった池田勇人といった官僚政治家にはない在野精神を、最も持っていたのが湛山ではないでしょうか。
湛山の一番の魅力は、媚びないところにあります。
満州事変の際には、他の新聞が軍部批判を控える中、湛山は東洋経済新報の記者として、「国防線は日本海にて十分」と批判的な論陣を張り続けた。戦後には、日本政府が軍需会社や民間企業に対して行っていた損害補償を打ち切るよう指示したGHQを鋭く批判した。軍部にも、権力にも、アメリカにも媚びなかった。
そして、湛山の最大の凄みは、国民にすら媚びなかったことにあります。
満州放棄などを社説で主張してきた湛山は、国民の熱狂にも警告を発し続けてきました。政府が騙した、メディアが煽ったなどと言うけれど、これに乗って熱狂したのは国民であり、国民にも責任はあると示唆していたのです。誰にも媚びない、時流にもへつらわない姿勢が、終始一貫していた。そんな人は他に見あたらない。こうなりたいものだと心底思います。
私は首相在任中、所信表明演説や施政方針演説で、湛山の言葉を引用しました。それは、自分の理想とするところが湛山であり、その精神が今の政治に欠けているものだったからです。
湛山は単に理想を掲げるのでも、精神主義に堕するのでもなかった。象徴的なのが、湛山の「小日本主義」です。軍事力を背景にした領土拡張主義を批判し、植民地を放棄して貿易立国として成長すべきという主張が「小日本主義」でした。
当時の日本政府は満州の開拓によって、増え続ける日本の人口の移動や、食料や資源の増産を試みましたが、結局は成功しなかった。国防の観点から言えば、満州は中ソの緩衝地帯とされたけれど、実際には役に立たなかった。
一方、湛山は、日本が満州や台湾、朝鮮といった植民地を手放すべきだと主張しました。それは、単なる理想論ではありません。そうすることによって、日本はその植民地の人々から圧倒的支持を得られると同時に、同じく植民地主義を推し進めているアメリカやイギリスが窮地に陥るという意図ではなかったかと思うのです。加えて、植民者と被植民地が、今の言葉でいうwin-winの関係になれない限り、その関係は長続きしない。そんな合理主義的な考え方が、湛山の小日本主義の根底にはあったのだと思います。
自分で書いたものこそ心に響く
2021年、東洋経済新報社の創立125周年を記念して、保阪さん、船橋洋一さんと私とで鼎談しました。その時にいただいたのが石橋湛山全集、全15巻でした。それだけの著作を残すのは大変なことです。
私は首相在任中、広島の平和記念式典でのあいさつの中で、被爆者で歌人の正田篠枝さんの短歌を引用しました。他にも、国連総会のスピーチではパレスチナをめぐってイスラエルを批判し、戦後80年所感では戦争を防げなかった理由を分析しました。湛山の足元にも及ばないけれど、このとき意識したのは、自分で書いたものでないと決して人の心に響かないということ。優秀な首相秘書官たちと徹底的に議論して、推敲に推敲を重ねて書きましたよ。
その点、今の「ショート動画政治」は非常に恐ろしい。
※この続きでは、 「石破構文」 と揶揄されてきたことについて石破茂氏が意見を語っています。全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア『文藝春秋PLUS』と『文藝春秋』2026年11月号に掲載されています(石破茂「 石橋湛山 国民にすら媚ひない 」)。
(石破 茂/文藝春秋 2026年11月号)