解説:殺人、硫酸、直訴……仁義なき労資対決の果ては
労働組合の存在感が薄れて久しい。「労働者が労働条件の維持、改善を目的として組織した組合」だが、労働戦線の統一による弱体化や非正規労働者の増大、労働者の政治への無関心などもあって、組織率は年々ダウン。いまや革新政党の集票マシンの一部としてしか存在価値がないように思える。しかし、いまから約90年前、労働者をまとめて一方向に向かわせる力は大きく、資本家や政府、地方自治体、警察などに危機感を抱かせるに十分だった。
野田醤油のストライキはその際たるものだろう。結局、労働者=労働組合の完敗に終わったが、それは会社側と政府、財界など、「権力側」が権謀術数を尽くして対抗した結果だった。その後の労働運動は弾圧を受け、戦争の時代になると、労使一体で戦時体制に協力する産業報国の方向へ傾斜していく。野田醤油争議は共同印刷争議と並んで、最後の時期の労資の仁義なき戦いだった。
「野田といえば醤油を思い、醤油といえば野田を連想す」
いまや食卓に欠かせない調味料として世界に広がっている醤油だが、日本では「永禄年間(1558~1569)、野田の地に醤油造りが導入され、市郎兵衛(飯田)なる者が溜り醤油造りを始め」たと「野田郷土史」は記す。
その野田の醤油は、有名な上杉謙信との川中島合戦の際、武田信玄勢に納められて「川中島御用溜り醤油」となったと伝えられる。江戸時代には利根川の流れを変える大規模な河川改修が行われた結果、現在の江戸川を通じて、野田の醤油は江戸に大量に運ばれるようになり、関東濃口油の一大ブランドとして知られるようになった。「野田町誌」は「野田といえば醤油を思い、醤油といえば野田を連想す。実に当町は醤油によりて栄ゆ。醤油は当町の生命なり」と言い切っている。
江戸時代、野田の醤油醸造家は7家あったが、特に高梨、茂木両家は幕府の御用醤油とされて隆盛を誇った。明治を経て1917年、高梨、茂木一族8家および、流山の堀切家が合同して「野田醤油株式会社」を設立。近代化を図ることになる。
“タコ部屋”に押し込まれる劣悪な環境 ほぼ全員参加が労働組合に参加
そもそも醤油醸造は、杜氏や「蔵人」(醸造工)の技術や経験に頼る傾向が強い古い体質。杜氏を頂点とする徒弟制に加えて、蔵人の採用なども「親方」と呼ばれる外部の業者が全て差配しており、未婚の蔵人は低賃金のため、蔵に付設された大広間で共同生活。“タコ部屋”のような職場もあったという。資本側はパイプラインやエレベーターなどの機械化を進め、蔵人の雇用や作業に対する権限を強める。
一方1921年、野田醤油に労働組合が組織され、蔵人約1500人のほぼ全員が加盟した。日本の労働組合は分裂を繰り返していたが、野田醤油の労働組合に対しては、「日本労働総同盟」が指導。1923年には、関連会社の労働者らも加えて「日本労働総同盟野田支部連合」となった(のち「関東醸造組合野田支部」と改称)。これ以降の争議の叙述は会社側と組合寄りでかなり違う。比較的中立と思われる「千葉県の歴史」を中心に流れを追う。
蔵人の多くは賃金が低いため、仕事を早く終わらせて副業
1922年には、醤油の樽の加工に従事する蔵人170人が棟梁の賃金ピンハネ撤廃を要求してストライキを起こした。この際には、棟梁側に買収されたとされる元組合幹部が組合員2人に刺殺される事件が起きている。翌1923年、会社側が(1)8時間労働制(2)年給制から日給制へ――などの作業制度改定を提示したのに対して、組合員全員がストライキに突入した。蔵人の多くは賃金が低いため、仕事を早く終わらせて副業で稼いでおり、定時制には強硬に反対していた。この時は、内務省や千葉県知事が調停に入り、組合側に有利な形で「手打ち式」が行われた。会社側の改革は失敗。「こうした組合優勢の中で野田醤油の労資関係は推移していった」(「千葉県の歴史通史編近現代2」)。「野田醤油株式会社二十年史」も、会社側の立場から「労働組合員は争議後凱歌を挙げて工場に入り、その態度全く傍若無人で、工場社員の威令ほとんど行われざるに至った」と書いている。
「従業員が労働組合員となった結果、不従順、不勉強のため」
会社側は反撃のチャンスを狙っていた。
元野田警察署長の内務官僚を工場長に招き、東京商大(現一橋大)の労働問題研究者を採用して労務管理を検討させた。新鋭工場を建設したが、それも争議を見越しての手段だったと考えられる。1919年に渋沢栄一らが設立した労資協調の半官半民の研究・調査機関「協調会」に相談。協調会からは、この「昭和の35大事件」の 「永田鉄山斬殺さる」 の本編の筆者・矢次一夫が現地に派遣されたという。
チャンスは醤油の運送業者の切り替えだった。それまで輸送を全面的に引き受けていたのは「丸三運送店」で、従業員は全員組合員だった。「店主は会社と通じ、(1927年)七月に突如、仕事を下請け会社に任せて旅行に出てしまったのである。さらに九月には、下請け会社が新たに『丸本運送店』を設立して輸送を開始した」(「千葉県の歴史」)。
これに対して組合は「会社と丸三、丸本3社の提携は組合の破壊工作」と強く反発。従来通り、丸三に運送を担当させることと丸三従業員の生活保障を要求したが、会社側は拒否。「(丸三は)従業員が労働組合員となった結果、不従順、不勉強のため」と主張し、「労働組合側の主張は全く憶測に出発して、強いて言いがかりを設け、罷業決行の名分を求めんとするもの」(「野田醤油二十年史」)と強硬な姿勢を見せた。
会社が集めた無頼漢による争議団本部襲撃事件も発生
組合側は緊急総会を開き、9月16日からのストライキ決行を決議。指導に当たっていた当時日本労働総同盟関東労働同盟会長(総同盟主事)の松岡駒吉(戦後、衆院議長)は自重を求めたといわれるが、組合側の勢いは止まらなかった。当日、1358人が各工場の入り口を封鎖した。同日付朝日朝刊は「醤油の野田町にまた大罷業突発す」の見出し。「運送店問題の決裂から 四年ぶりの大争議」「電光石火の罷業に町民驚く」として、労資両方の言い分を載せている。
会社側は新設工場に非組合員を集めて操業を続行。全工場の生産額の3分の1を確保して対抗した。さらに9月30日以降、組合員計936人を解雇。再雇用者で工場を再開し、争議団の切り崩しを図った。野田町議らによって結成された「野田正議団」が会社側を支援。さらに、「会社が集めた無頼漢による争議団本部襲撃事件やその真相発表会への乱入事件などが相次いだ。右翼団体による争議介入も続発した」「会社は裏で金を出したといわれた」(「千葉県の歴史」)。
対抗するように、争議団のメンバーが会社人事係らに硫酸をかけてけがを負わせる事件が続発。争議は暴力的で陰惨な様相を呈した。内務省警保局の1928年4月の帝国議会への報告では、行政検束308人。犯罪事件として検挙したのは69件178人に上った(「野田市史資料編」)。
計546人が参加した小学生による「同盟休校」
同年10月の総同盟年次大会では「亀甲萬醤油の購入ボイコット」を決議。年が明けた1928年1月16日には、争議団の小学生の子どもたちの同盟休校が始まった。それは町長以下、学務委員らが会社側に立って争議団を攻撃していたことも理由だった。
同盟休校は1923年の争議でも行われたが、今回は計546人が参加。軍歌「勇敢なる水兵」のメロディーで「暁の空光して 希望は高く輝けり いざ進まんわれらこそ 雄々しき労働少年(少女)軍」と歌ったり、争議中の伝令、炊事、洗濯などの作業を手伝った。1月17日付朝日朝刊には「児童盟休し戦勝祈願」の記事が。「労働小学校開設の意気込みであったが、争議が極めて深刻となっている際、教育どころではないとの幹部の意見一致し」「児童は十七日より連日打ち連れて午前中各神社に参拝、戦勝祈願を行うと」。子どもたちが神頼みを始めたということだ。
1923年の争議では、「松岡駒吉はストライキ開始にあたり『労働運動は決していたずらに騒ぐことではない。ストライキ中は絶対に飲酒を慎み、激越な演説を避け、恭敬の態度を失わないように』と訓示し、組合員もこれをよく守ったので、町民の支持を得た。料理屋や旅館の従業員も郵便局の職員も全て組合びいきであったという」(「千葉県の歴史」)。しかし、今回は会社側がしたたかだった。自分たちの主張をまとめて逐一町民らに知らせ、理解を求めた。こうした広報戦略には、協調会の助言が大きかったと思われる。
争議決着後の1928年5月の野田警察署長の談話メモには「一般町民の同情は、最初は五分五分なりしが、漸次会社に厚くなれり」とある(「野田市史資料編」)。同盟休校の小学生について小学校訓導も「児童の間には階級的意識なし。10分の7までは組合が無理だと思っていたようだ」「今度は町ものが動かなかったため、すなわち争議団に味方せず、反会社的色彩なかりしため」と報告している(同)。労資双方が強硬姿勢を変えない中で、争議に対する世間一般の視線を決定的にしたのが、争議団幹部による直訴事件だった。
争議団が天皇に直訴するも
「千葉県の歴史」によれば1928年3月20日、争議団の副団長堀越梅男が、葉山に行幸する途中の天皇に直訴する事件が発生した。最も詳しいのは「野田醤油二十年史」だ。
「突如恐懼に絶えざる不敬事件が突発した。すなわち、野田争議団副団長堀越梅男(元第十工場工員)は三月二十日午後一時五十分ごろ、東京駅前丸ビル明治屋支店前において、恐れ多くも 両陛下葉山行幸啓の鹵簿を犯し奉って直訴を企てたのである」。「千葉県労働運動史」は「野田争議団の窮状を述べて、一日も早く解決するように天皇の助力を求めたい旨が直訴文にはしたためてあった。天皇の権威を利用しなければ、会社を交渉の舞台に乗せ、政府として調停の労を取らせ得ないと彼は考えたのである」と説明している。しかし、これで流れは決定的となった。
「上御一人を煩わし奉らんとするが如きは将来に非常なる悪例を貽(い)する(残す)ものといわねばならぬ」(「野田醤油二十年史」)と会社側は攻撃。「千葉県労働史」は「総同盟本部は鈴木(文吾)会長、松岡(駒吉)主事の連名をもって『畏れ多く恐懼の極み』の声明文を発表し」たと書く。2人は謹慎した。それ以前に争議団は、会社側との交渉を松岡に一任。松岡から申し入れを受けた会社側は協調会常務理事の元内務官僚・添田敬一郎を立会人にして協議を続けていたが、難航していた。
直訴で交渉は急転。4月19日、最終調印にこぎ着けた。主な条件は(1)争議団は4月20日で解散(2)解雇者のうち300名を再雇用(3)解雇手当、生計援助費支給――など。ストライキに参加した約700人は全員解雇され、ほぼ会社側の全面勝利に終わった。
「金はいらないから死ぬまで闘う」
4月20日付朝日朝刊は「さしもの野田争議 急転して解決を告ぐ」の主見出しで「疲労も恨も忘れて取交す温い握手」とあるが、その味は労資でかなり違ったはずだ。第二次世界大戦前の日本最長のストライキは218日で終わった(朝日の記事は「217日」とあるなど、日数には諸説あるが「千葉県の歴史」に従う)。4月21日付東京日日朝刊千葉版は「全町にみなぎった 喜びのざわめき」「会社、争議団本部、警察の晴れやかな空気」の見出し。争議解決を喜ぶ地元の表情を伝え、「一切はとけて もとの野田へ」と書いた。それは本当か? 同日付朝日朝刊(本版)は「悲憤の涙の中に大争議の解団式」の見出しで争議団解団式の模様を載せている。組合幹部が万歳拍手のうちにあいさつしたが、「団員の一人が『金はいらないから死ぬまで闘う』というや今まで沈黙を守っていた人々は一せいに騒ぎだし極度に殺気立った」。写真説明には「声をのんだ解団式」とある。まさに不本意な結末に対する悲憤慷慨のラストシーン。こちらの方が事実に近そうだ。
国家が資本家にすさまじい圧力をかけて争議をつぶした
松岡駒吉は直後の回想で「野田労働争議は、率直にいえば、正しく失敗であった」「悪戦苦闘の効もなく、その大半は粉砕されて、数百名の失業者を出し、蕭条たる悲哀の迫りくるを覚ゆるのである」と述べている(「野田大労働争議」)。
経緯を見ると、組合と戦っていたのは会社だけでない印象を受ける。正議団や右翼は別としても、前回は調停などに入った県や警察なども今回は争議から距離を置いた。内務省警保局の1928年4月の帝国議会への報告は「警察は、紛争の内容に干渉することなく、厳正公平なる態度を以って、もっぱら両者の行動内偵に努め」としている。さらに協調会の動きで分かるように、会社の背後には政府、具体的には内務省がいたのではないか。時代は大正デモクラシーから変わりつつあった。
争議さ中の1928年3月15日には、日本共産党の党員ら1500人以上が検挙された「三・一五事件」が発生。争議終結から間もない6月4日には、中国・奉天郊外で「奉天派軍閥」の張作霖が爆殺されている。もはや政府として、これほどの大争議で労働組合側に勝たせることは何としてもできなかったのではないか。国家が資本家にすさまじい圧力をかけて争議をつぶしたというのが実態ではなかったか。
しかし、敗北は全くのムダではなかったともいえる。「千葉県の歴史」はこう総括する。「会社側の勝利で争議は終結し、会社側の意向は貫徹された。争議後には、労資間の懇談制度や福利制度など、さまざまな労務管理制度が整えられ、世間一般にとって違和感のないものへと大きく変化した」。ただ、その社会も間もなく戦争によって根底から覆され、人々の生活も崩壊。再び、労働組合に光が当たるのは、敗戦まで20年近くの歳月を要した。
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【参考文献】 ▽佐藤真「野田郷土史」 歴史図書社 1980年 ▽野田尋常高等小学校編「野田町誌」(大正6年ごろ)=復刻・国書刊行会 1986年 ▽財団法人千葉県史料研究財団編「千葉県の歴史通史編近現代2」 千葉県 2006年 ▽野田醤油株式会社編「野田醤油株式会社二十年史」 野田醤油株式会社 1940年 ▽野田市史編さん委員会編「野田市史資料編近現代2」 野田市 2019年 ▽千葉県労働組合連合協議会編「千葉県労働運動史」 労働旬報社 1967年 ▽松岡駒吉「野田大労働争議」 改造社 1928年
(小池 新)