戦後、国内の米軍基地近くに建設が相次いだ米兵世帯向けの「米軍ハウス」が、今も各地に残っている。基地の縮小や返還に伴う米兵の帰国でハウスのあるじが日本人に代わり、老朽化で取り壊されるケースも多い。福岡県内の市民グループは保存活用策を探ろうと、地元に残るハウスを調査し今年、記録冊子を発刊した。
「基地の街だった時代を物語る遺産を残せないだろうか」。そう語る、福岡県春日市の1級建築士、中野秀孝さん(58)は5年前、米軍ハウスの保存活用策を考える「春日ベース・ハウスの会」を発足させた。現在は、地域史に関心がある自営業者や公務員ら約10人がメンバーだ。
春日市と隣接の同県大野城市には終戦直後の1945年、米軍板付基地(現福岡空港)の付属基地、春日原住宅地区が開設された。50年勃発の朝鮮戦争の激化で米兵がさらに増えたため、地区内の住居が不足。地区外で米軍が個別に民有地の賃貸契約を結びハウスが次々と建てられた。両市にはピーク時約500棟あったという。
住宅地区内には、ボウリング場や野球場、プールがあった。父が基地の消防士として働き、母はハウスのベビーシッターをしていた大野城市のバイク店経営、麻生政昭さん(61)は「基地は地元に雇用を生み出し、音楽やファッションなど米国の文化に触れる機会があった」と振り返る。
一方、米軍機の墜落事故や騒音、米兵による事件もあり、基地の返還運動が高まった。春日原住宅地区は72年に返還され、基地外のハウスも元の土地所有者らに戻された。
5年間調査を進めている同会によると、返還後のハウスは日本人が居住し、現在も住宅や店舗に活用されているケースがある。しかし、老朽化が進み、同会が古い地図を頼りにハウスを見つけても、その後解体されるハウスも多い。同会が現存を把握できたのは約20棟のみだ。
春日、大野城両市も米軍ハウスへの対応を検討し始めている。大野城市は今年3月改定の文化財保存整備活用基本計画に、文化財には未指定ながら初めて市内に残るハウスを取り上げた。市ふるさと文化財課の担当者は「建物の権利関係など文化財指定へのハードルは高いが、歴史的な位置づけを市民と考えたい」と話す。春日市も春日ベース・ハウスの会の活動を後押ししている。
同会が今年発刊した冊子「米軍ハウスの世界」には、地元のハウスを巡る歴史や、基地の従業員だった住民らの証言などを紹介。中野さんは「地元に基地があったことを知る人は減っている。基地の存在でプラスもマイナスもあったのは事実。戦後間もない日本の姿を伝える『物言わぬ語り部』として、保存活用策を探る契機になればと思う」と話す。
冊子はB5判49ページで非売品。問い合わせや閲覧は、春日まちづくり支援センター「ぶどうの庭」(092・589・3388)へ。【飯田憲】
東京都福生市、埼玉県入間市で活用例
米軍ハウスを巡っては、東京都福生(ふっさ)市などで活用例がある。
米軍横田基地がまたがり、今も約100棟が残る福生市では、基地周辺の商店街が中心となり、空き家だったハウスを活用。2014年からコミュニティー施設「福生アメリカンハウス」として見学者にも開放している。市シティセールス推進課の担当者は「米国郊外の住宅地の雰囲気を再現し、観光振興に貢献している」と話す。
埼玉県入間市のジョンソンタウンは、米軍ジョンソン基地(現・航空自衛隊入間基地)付近の米軍ハウスを、不動産会社が米国風のたたずまいを残す街並みとして再整備。15年の都市景観大賞で「進駐軍ハウスという文化遺産を保全し、魅力あふれる景観を生み出した」と都市空間部門大賞に選ばれた。
「占領軍住宅の記録」の著者の一人で、昭和のくらし博物館館長の小泉和子さんは米軍ハウスについて「特徴的な形状など建築史の観点からも貴重な遺産といえる」と話している。
米軍ハウス
戦後の1950年代を中心に米軍基地の外に建てられた米兵の家族用住宅。洋風建築で平屋建てが多い。靴を脱ぐ玄関スペースがなく、腰高の出窓や広いリビングを備えるなどの間取りが特徴だ。米軍横田基地(東京都福生市など)周辺の米軍ハウスは知られている。